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“八つ当たり教育論”になる事情のこと

Posted on 2012年8月24日

(1)我ながらおかしなテーマだと思いますが、我慢してお読みください。先日TBS のラジオを聞いていたら、ロンドン・オリンピック(2012)に派遣された社員が、「知っている英語はYes と No だけだが、何とか3週間を過ごせたよ」と告白していました。TBS の社員に採用されるくらいですから、この人は中高大と10年間は英語教育を受けてきたはずです。それなのに、知っている英語が、Yes と No だけというのはどういうことでしょうか。

 

(2)長年英語を教えてきた私も、「英語教育の成果はそんなものかも知れない」と自省を含めて思いました。学力は個人差がありますから、一概には言えませんが、活用出来るような英語力が身についていない人がとても多いのは確かです。それはどうしてなのでしょうか。どこに責任があるのでしょうか。ここで、数学教育のことを少し考えてみたいと思います。

 

(3)昭和40年頃でしたが、日本に来て間もないアメリカ人を案内していて、彼女が625円の品物を買いました。千円札を出したら、レジ係(レジが自動化される前のこと)の若い女性が、すぐに375 円のお釣りを出したのです。そのアメリカ人は後でゆっくりと計算してから、お釣りが正しいのを知って驚いていました。その頃のアメリカでは、お客が買った品物の値段に、10セント、20セントと加えていって、お客の出した金額になるような足し算をするのが普通でした。日本では、義務教育で算数や数学を習うと、「ここまでは出来る」という目標があるように思えますが、英語教育ではそういう基本的な目標もはっきりしません。

 

(4)しかし、今では日本の教育全体は必ずしもうまくいっていないと思います。夏休みも終わりに近づいて、「中高生は宿題に追われています」とテレビのニュースで報じていました。マイクを向けられると、かなりの生徒が、「自由研究が終わらない」とぼやいていました。日頃の授業で、「自由研究」など少しもやらせないで、夏休みの宿題だけで生徒を苦しめるのは、一種の“いじめ”ではないでしょうか。

 

(5)日本人には、「子どもは自由にすると遊んでばかりいる。特に中高生になると悪いことを覚えるから、何とか机に縛りつけておこう」とする意識があるのでしょう。しかし、宿題くらいで生徒の不良化は防げるはずはありません。しかも、宿題をやれば正当な評価が得られるという保証もないのです。「宿題を提出したか、しなかったか」くらいの評価しかしてもらえないことが多いのですから、宿題の意味は半分もないことになります。

 

(6)一方、文科省や教育委員会は、「教員は自由にすると遊んでしまう」と言わんばかりに管理体制を強めているようです。そんなことでは、どんな教科の教育もうまくいくはずはありません。学習者、家庭、親、学校、社会が一体化してこそ教育は成功するのです。どこもばらばらでは、教育の成果などとても期待出来ません。結局は“八つ当たり”したくなるのが現状なのだと言わざるを得ないのです。(この回終り)

(浅野 博)

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