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“カタカナ英語の高級化”で考えること

Posted on 2012年9月5日

(1)“高級化”というのは、「程度が高くなってきて、難しくなった」ということです。「歓迎すべきことではないか」と思われる人もいるかも知れません。しかし、私は「“カタカナ英語”に関する限りあまり望ましくない」と考えています。今回はその理由を述べることにします。

 

(2)英語を起源とする「カタカナ語」を聞いたり読んだりした場合、本物の英語の力に応用できる生徒はほとんどいないと思います。“リアリスティック”とか、“バーチャル”などは広辞苑にも出ていますが、生徒が広辞苑を引いて英語のスペリングや意味を調べることは、まず期待できないでしょう。それは、国語教育や英語教育の責任でもあるのですが、教科書の進度に追われて、「辞書指導などする余裕がない」とこぼす教員の声をかなり耳にします。

 

(3)コンピュータ用語には英語起源のものが多いですから、「リアリスティック」を知らなくても、「バーチャル」は、「仮想の」という意味だということくらいは知っている生徒は少なくないでしょう。また、電子辞書の中には、『カタカナで引くスペリング辞典』(研究社)などを搭載しているものがありますから、やる気があればスペリングを確かめ、さらに英和辞典でその意味や用法を調べることも出来ます。問題は「やる気があれば」ということだと思います。

 

(4)日本では、敗戦直後から日本語をなるべく簡略化することにした結果、「ヴ」はすべて「ブ」で表記することになりました。英語の ”very” (とても)も、”berry” (いちご類)も同じ「ベリー」です。英語は祖先のラテン語と比べると、格変化などの文法的な変化が簡略化された言語です。「簡略化」は、「便利さ」をもたらすとは限らないので、昔は、「ドイツ語は笑って入門し、笑って卒業できるが、英語はいつまでも卒業できない」と先輩から言われたものです。

 

(5)先ごろ国会で行われた議論の中で、ある議員は、「ベクトルの動きが上向きの場合は…」と言いました。“ベクトル”は、広辞苑では、「ドイツ語(Vector)」とあります。しかし、「大きさと向きを有する量」という定義を読んでも、普通の人には何のことだか分かりません。どうしてこの議員は、「景気が良くなって、税収が増えた場合には…」といった分かりやすい日本語を使わないのでしょうか。日本人は議論になると、「相手のなるべく知らない言葉を使うほうが有利」と考える悪いくせがあります。

 

(6)国立国語研究所という機関は、様々な日本語に関する研究や提言をしていて、その1つに、「カタカナ語」をどのような日本語に直すかという発表もあります。しかし、いかにもお役所仕事的で、私は賛成出来ないところがあります。「カタカナ語」のままのほうが、大勢の人が知っていて、分かりやすいものもあるはずです。例えば、「フリーター」や「ニート」(両語とも広辞苑にあり)のように。漢字表記にすると、かえってわかりにくくなる場合があります。

 

(7)英語教育の問題としては、日本の中高生が2千語、3千語レベルの易しい英語の物語を読むことは大いに薦めてよいと思います。授業では教科書の1ページか、2ページしか進まないのが普通ですから、「英語の物語を1冊読んだ」という成就感は、もっと読みたいという動機になるはずです。言語の学習は、このように、“動的な捉え方”をしたいと私は考えます。(この回終り)

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