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「『英語教育』誌批評(大修館書店)」(その11)(小学校英語のことなど)

Posted on 2014年7月16日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年8月号は、“拡大特集”として、「小学校英語の教科化・低学年化に備える」とあります。それだけならば、私には違和感がないのですが、その後に少し小さい活字で、“「小学校文化」に根ざして”とあるのです。「“小学校文化”って何ものだ!」と私は叫びたくなりました。どこかにきちんと定義してある言い方なのでしょうか?知らないのは私だけなのでしょうか?

 

(2)目次の説明には、「今後の小学校にふさわしい英語授業を考えるには、まず『小学校特有の文化』を再認識したい。児童の発達、指導体制、教員構成などの観点で、小学校の『いま』と『これから』を考えます」とあります。“再認識”と言われるのですから、“小学校文化”というものは、これまで認識されていたと解釈出来ます。“やはり私だけが無知だった”のか、といささか憂鬱になって読み進んでみました。

 

(3)最初の記事は、金森 強「『全人教育』としての小学校英語教育」(関東学院大)で、最初に「忘れてはならない『全人教育』の視点」とあります。私としましては、「おやおや、そんなところまで欲張るのかよ」と言いたくなりました。それまでも、現役の英語教師だった頃の私は、「英語教育の目的は平和教育でなければならない」といった主張をよく聴かされたからです。

 

(4)私には、“平和教育”の重要さを否定するつもりはありません。「でもそれは日本語で十分に考えるべき問題で、何も英語教育にまで言及する必要はないではないか、と考えてきました。“日本人が英語を習う”というのは、容易なことではありません。語順、語彙、慣用表現、日本語に無い発音など学ぶべきことは沢山あります。もちろん、中学3年生ともなれば、教科書の教材の一部に、平和の尊さを扱うものがあってよいし、そういう教材を読んだ感想をつたないながら英語で話したり、書いたりすることの意義は私も認めます。

 

(5)そもそも“全人教育”とはどういうものだろうかと、『明鏡国語辞典』(大修館書店)で、“全人”を引いてみますと、「知識・感情・意志の調和がとれた人。完全な人格を備えた人」「―教育」とありました。「英語教育はそんな高邁な目標があるのか」とまた驚きました。この著者には、「日本の英語教育は効果が無い」とか、「10年以上も習って、ちっとも話せるようにならない」といった苦情は耳に達していないのでしょうか?

 

(6)執筆者たちには大変に失礼ですが、“小学校文化”といった漠然としたものを前提にした記事は読む気がしません。しかも、読んでみると、記事の内容にはこれまでも議論されてきた問題点が多いように思えるのです。鈴木 孝夫(慶応義塾大名誉教授)は、『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書、1999)という書物で、「『国際理解』は止めよう」と主張しています。ごく大ざっぱに言えば、「英語教育は欲張り過ぎて効果が上がらないのだ。もっと目標を絞れ」ということです。

 

(7)文科省の言い分や、自民党の主張をただ受け入れるだけではなく、その問題点を指摘することも急務であろうと私は考えます。日本で唯一と言ってよい「英語教育」専門誌のためにも、もっと批判的な記事がたまにはあってよいであろうと思います。「英語教育」編集部の皆さん、ちょっと視点を変えて、さらに努力して下さることを期待しております。(この回終り)

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