サッチャー教育改革の功罪(付録)2/2
●日本における教育、そして教育改革(2)
●(5)「ゆとり教育」の真の目的
多くの知識を教え込むことになりがちであった教育の基調を転換し、学習者である生徒の立場に立って、生徒に自ら学び自ら考える力を育成する。自由で、柔軟で、居心地の良い学校生活の中で行われる特徴的な教育を発展させ、「生きることへの熱望」を育てることを基本的な目的とする。
おそらく、有馬朗人氏(元文部大臣・中央教育審議会会長)のお考えはこのへんにあったのだと推察できる。それはまた、学習指導要領をきちんと読めばよく理解できる。
このような崇高な理念にはだれも反対はできない。が、これが実現するためには、第1に予算措置を十分にし、クラスサイズを小さくし、教員を増やし、雑用を減らして、担任に時間的な余裕を与え、試行錯誤してこの目標を達成するための、少なくても20年ぐらいの余裕は与えるべきであろう。
それをクラスはそのままで、ただ指導内容だけ3割削っただけで、2年も待たずに「ほら、成績が落ちてきたじゃないか」と言うのはあまりに早計だ。日本の近代教育が100年以上もの間やってこなかったことを実践するのだから、20年は評価を待ってやらないと。有馬先生がかわいそうだ。
●(6)「総合的な学習の時間」― これも憧れの科目「総合的な学習の時間」は日本人にとっては最も苦手な科目である。生徒が自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力を育成する。(審議会答申)意見を言うのは10年早いと指導されてきた日本の生徒にこれを要求するには、相当の覚悟が
必要だ。少なくても20年は待ってやるべきだ。先生だってまったく慣れていないのだから。
●(7)「学習指導要領」に望みたいこと
日本の「学習指導要領」は相当早くから「生きる力の養成」を軸に思考力、言語表現力を伸ばすべく、探求型の授業、論述や討論の充実などをうたってきた。世界でも最も進んでいたと考えてよい。これがなかなか浸透せず、その方向で成果をあげず、ただただ指導要領だけが先走っていたのだが。
この優れた指導要領に最も望みたい一点は「多様性」だ。すべての規定を標準、モデルとして示すべきではないか。日本中のすべての小学校が同じ科目を同じ時間数だけ勉強する。ある事項は3年生では提示のみで指導はしない、指導は4年生で、と事細かに規定している。英語においても扱う語彙、文型は細かに規定されていて、すべての教科書は同じようになっている。したがって教科書による特徴といったものがほとんどない。
高校の英語では、「授業は英語で行う」と、先生の教室でのことばまで規定されてしまっている。
望ましい標準を示す、お勧めの形を示すのは大いに結構だが、日本全国のすべての学校が細かな点まで同じようにするような規定をやめて、多様性を認めてほしい。教師の創意工夫を大いに推奨してほしい。
(この項終わり)