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浅野:英語教育批評:「聞くこと」の指導で考えること

Posted on 2007年7月11日

現在の生徒、学生は英語の“筆記体”はほとんど読めないとされる。学習負担の軽減のためにはやむを得ないことであろう。なにしろ“筆記体”は書く人による個性が出るから、手書きの手紙をもらったりすると読むのには昔から苦労したものだ。今では英米人の教師も黒板に書く文字はほとんど“ブロック体”といわれる「金釘流」で、美的感覚はあまりないが、コミュニケーションのためには、「読めればよい」というのも1つの考え方ではある。
「聞くこと」の話を文字のことから始めたのは、話し方にもかなりの個人差があって共通点があるからだ。母語ならともかく、慣れていない外国語の場合は、どれも同じように聞こえるものである。つまり、言語音声を「聞き取る」ということは、個性のある“筆記体”を読むくらい難しいものなのだ。
ところが、「聞くこと」の重要性の認識が十分になされてこなかった。その原因は「学習指導要領」の間違った考え方にあったというのが、私の持論である。指導要領は「聞くこと・話すことは一体化して教えるほうが教育的である」としてきた。その結果、特に中学校では、「聞くこと」を個別に扱うことがなく、「聞いたことは言えるように」といった方針の指導が主流であった。したがって、当時普及し始めた録音教材にも、「あとについて言えるように、なるべく遅いスピードで」という要求が強かった。これでは、「聞く力」などつくはずがない。
平成元年の「指導要領」では初めて「聞くこと」の独立を認めた。その立案に協力者の一人として、私が参加できたのは運命の皮肉としか言いようがない。こんな自明なことに誰も気がつかないほうがおかしいのだ。おかしいと言えば、この指導要領の矛盾には何もものを言わなかった大学の研究者たちが、1980年代の後半からいきなり「リスニングの重要性」を言い出した。それは、アメリカの S. Krashen が、「インプット仮説」などをとなえだしたからで、英語教育の英米追従の姿勢は根が深い。
(浅野 博)

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