言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:脳科学のこと

Posted on 2007年12月18日

 「英語教育」2008年1月号(大修館書店)は、「英語学習と脳科学」を特集している。もう25年ほど前に、当時のLLA(語学ラボラトリー学会)で、外国語学習と脳科学の話を聞いて以来、この方面には関心をもってきたが、なにしろ進歩が早くて、ついていくだけでも大変である。素人にはなかなかわかりにくい。ただし、認知論などと違って、具体的な実験、実証が可能な分野である。その点に期待してこの特集を読んでみた。難しいことには変わりはないが、やはり相当進歩していることはわかる。
 巻頭論文の大石晴美「脳内を最適に活性化する英語教授法とは」は、発想が逆で興味深かったが、読んで見て少しがっかりした。つまり、脳の働きから、「こういう第2言語の学習方法が有効ですよ」というのではなく、「クラッシェンのこれこれの方法を実践すると、学習者の脳の働きが活性化しますよ」ということで、彼の理論の正当化をしているに過ぎないように思えた。
 私は、クラッシェンの理論を全面的に否定するつもりはないし、できもしないが、当たり前のことを言っているという印象をもっているから、今さら有効ですよと言われても、「それがどうした」と言いたくなる。例えば、学習の内容は難しすぎてもダメ、易しすぎてもダメであることは昔から分かっていたことではないか。
 有効な指導法を求めるならば、まず村野井仁『第二言語習得研究から見た効果的な英語学習法』(大修館書店、2006)あたりから学んだほうがよいであろう。中学、高校の教え方の具体例がほしいというならば、JACET 学習ストラテジー研究会編著『英語教師のための「学習ストラテジー」ハンドブック』(大修館書店、2006)には、中学、高校のレッスンプランが示されているので応用しやすい。少なくともこのくらいの下地がないと、脳科学と英語指導 [学習] 法は頭の中で結びつきにくいと思う。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:教室内のコミュニケーション活動

Posted on 2007年11月13日

 だいぶ昔のことだが、ブリティッシュ・カウンスルのダン氏(英語教育担当官)と外国語教育について話し合ったときに、彼は「外国語教育というのは学校の教科として考えないほうがよいのかもしれない」と言った。その理由は、イギリスの学校では、フランス語のような場合には、教師の留学を義務付けたり、生徒の短期滞在を実施したりするが、思うように成果が上がらないというのだ。
 「でも、日本の英会話学校の真似をしてもだめでしょう」と私が言うと、「それはわかっている。だから難しいのだ」と悩んでいた。イギリスは1980年代に入って、大規模な教育改革を始めて、外国語を必修科目にしたので、ダン氏のような見解は生かされなかったようだ。
 教室で英語を自由に操れるようにということで、コミュニケーション活動を盛んにやらせても効果があがりにくい。1つには、学級は同年輩の学習者の集まりだということ、しかも、すぐに顔見知りの仲間になる。そして先生対生徒という形での対話が多く行われる。これは、極めて限られたコミュニケーションの状況である。そこで、やむを得ずに「会話ごっこ」をさせる。生徒は一応嬉々としてその「ごっこ」を楽しんでいるように見えるが、英語そのものは必ずしも定着しない。そこへきて、クラス・サイズが大きい、時間数が少ないといった障害もある。
 それなら、「会話ごっこ」などは止めて、「英文法をしっかりと教え、基礎的な訓練に徹せよ」といった主張がなされるのも当然であろう。斎藤兆史氏の著作(最近のものは『これが正しい!英語学習法』(ちくまプリマー新書)などがその代表的なものだ。私は、氏とは時々メールで意見交換をさせてもらっているが、私の疑問は、「基礎的訓練の重要さはわかるが、今の生徒はそれではついてこないものが多い」ということである。やはり必修化は間違いではないか、英語教育は教科として成立しにくいのではないか、という、冒頭のダン氏の疑問にもどってしまうのである。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「ないものねだり」?

Posted on 2007年10月16日

 「英語教育」11月号(大修館書店)を通読して、「ないものねだり」という言葉が浮かんだ。今回の特集は「映画で英語〜授業で使える映画・教師が楽しめる映画〜」である。各記事はそれぞれ力作だとは思うが、全体的には「欲張りだなあ」という印象を受ける。映画を使って、「文法を教えられる」「シャドーイングをやらせる」「作文練習をする」「ALTとの協同授業を」「異文化理解教育や文学も」などなど。また、「日本人俳優たちの英語」についての指摘や、「多様化した国際英語も学べる」という主張もある。
 一方、「英語教育時評」では、ビリーズ・ブート・キャンプの人気の原因を探り、それは手本が立派だからとして、英語教育では「(手本になるのは)教師の話すカッコよさだろう」とも言う。そうかと思うと、投書欄では、斎藤兆史氏の著作を信奉し、会話ごっこなどではなく、基礎訓練と英文法指導を実践していきたいと願う人の記事がある。
 もう1つ気になるのは、投稿「『名前教育』を意識した英語教育の必要性」である。人名は難しい。私など50年以上教師をしたが、毎年のように新しい名前に出会ってきた。私の名は「あさの」だが、「浅見さん」は「あざみ」だ。「岩川さん」にも「いわかわ」と「いわがわ」と二通りある。英語で書かれた論文の著者名も、最近では英米人でも自信をもって読めないものが増えている。旧友の牧野勤さんは、在米中に「マッカイノウ」と呼ばれたことがあるそうだ。私は初歩の英語学習では簡単なもので済ませるという現在の方針に賛成である。
 内容豊富なこの「英語教育」誌についての私の「ないものねだり」は、「予算」と「版権」に関する記事が欲しいということだ。映画を使うためには、設備に金がかかる。少し触れている記事もあるが、貧弱な教育予算の増額をもっと強く要望したい。版権については、映画英語教育学会が創立以来問題にしているが、教員が無関心になりがちのことだけに重要な問題だと思う。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「題材」と教科書

Posted on 2007年7月18日

 「英語教育」2006年12月号(大修館書店)の特集は「日本人はどんな英語を学んできたか——教科書の定番教材から見て——」というもので、なかなか興味深い記事が多い。
 江利川春雄氏は、人権、人種差別、多文化主義などの観点から、時代を追っての教科書の傾向を検討している。高橋美由紀氏は、「ジェンダー政策」の観点から、中学校教科書の内容が時代によって、大きく変わってきたことを実証している。すなわち、家庭内で家事の分担をする話や、男性並みに、あるいはそれ以上に各分野で活躍する女性を主人公にした話などが扱われるようになってきているとする。
 室井美稚子氏は、高校用英語Ⅰ、Ⅱの題材の変化を統計的に紹介して、ここ数年で、日本を話題にしたものが10%から20%に増え、英語圏のものが、37%から22%に減っていると言う。そして次のようなコメント(部分引用)がある。
 「『本物の英語』という概念が消え去り、自分たちで書けばよいのだという自信と欧米の文物を受信するだけでなく、日本から発信するべきであるとの考えが、教科書に反映したのである。」(p.27)
 私は、こういう全体的な傾向そのものに反対するつもりはないが、少し異論がある。まず、他の条件は変えないで、検定教科書の内容や方針だけが変わっただけでは喜べないと思う。分量の貧弱な教科書と少ない授業時間で、いくら「発信型」の英語教育をと指導してみたところで、生徒の何パーセントが到達できる目標なのであろうか。それと、「自分なりの英語でよいという自信」というのは、「相互理解」が前提のコミュニケーションからは、ずれているのではないかということ。
 本誌では、ベトナムの小6の英語教科書は、ページ数だけでも日本の倍あるという指摘がある(p.33)。教育に関しては、日本は決して先進国ではないということを忘れないで考えていかなければならない。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「語法研究」とことばの偏見

Posted on 2007年6月19日

 「英語教育」(大修館書店)の7月号は「語法研究の楽しみ」を特集している。ある語法の正否を論じるには、何か規範がなければならない。この特集の寄稿者の規範は英米語のそれである。研究のあり方としてはそれも許されるであろう。ただし、同じ雑誌に「国際英語の視点を授業に」というアジア英語学会の人たちの連載記事があって、各号の執筆者によるニュアンスの違いはあるものの、「英米語中心主義」への強い批判が感じられる。「語法研究の楽しみ」を説く人たちは、こういう記事の呼びかけをどう考えておられるのであろうかという疑問が湧いた。
 第6回(6月号)の執筆者田嶋ティナ宏子氏は、「日本人の多くが、イギリス英語やアメリカ英語が『正統な』英語と考え、それ以外の英語は、『訛っている』とか『変な英語』だと思ったりする傾向があるのではないか」と問いかけている。英語の語法研究者がすべてそういう傾向にあるとは思わないが、教室で指導するときに、「イギリス人はそうは言わない」とか「こんな言い方はアメリカ英語では認めていない」といったことを繰り返していると、「それ以外の英語は“変な英語”」という偏見を植え付ける恐れは多分にあると思う。
 実はことばに関する偏見は、もっと早くから始まっていて、小学校などのいじめには、方言が原因になることがあるようだ。転校生が方言で話すと、発音がおかしいということで、周囲の生徒が笑ったり、からかったりするのである。そういう土壌で、「英米語一辺倒」の教え方をしたら、ますますことばの偏見が育つ可能性は大きい。
 私自身は、米語を中心に教えても、扱い方で偏見は除去できると考えているが、望ましい成果をあげるのは道遠しという感は否めない。一方では、「多様化した英語になるべく多く触れて偏見を持たないように」という主張は正しいと思うが、生徒がどういう英語を使えるようになるのかはまた別な大問題だと感じている。
(浅 野 博)