言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野式辞典:「にんちしょう」(認知症)

Posted on 2006年9月12日

 「ものごとを認知できなくなる病気」のことだが、肯定的な表現のほうが患者を傷つけないであろうという有難い配慮から生まれた病名。したがって、「認知論」は「何がなんだか分からない理論」のことで、「認知男」は「女性に産ませた子供を認知しない図々しい男性」のこととなる。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:「和文英訳」で感じた日本語の問題点(その2)

Posted on 2006年9月11日

 呉智英『言葉の常備薬』(双葉社、2004)は、言葉遣いを厳しく論じたエッセー集であるが、「言わなくてもわかる」という1節がある。駄菓子屋で店番の人がいないときは、客は「ください」と言うようだが、当時18歳で上京した著者は、これを聞いて「非論理的で異様な言葉に思えた」と言う。著者の生まれ育った地域(愛知県)では、「あのー」「ちょっとー」とか「パンください」と言っていたのだが、やがてこういう表現にも慣れてきたと言う。この点を愛知県出身の旧友にも確かめたが、「ごめんくださーい」などとは言うが、「ください」は経験がないとのことだった。私自身は東京および周辺の育ちだが、「ください」は使った記憶がある。日本は決して広い国ではないが、言葉の分布は非常に多彩だ。
 英語教師は「英語では、相手の方に『行く』のはgo ではなくてcome だ」と注意するが、私が「そういう言い方は日本語でもやっていた」と九州出身者に言われたのはずいぶん昔のことだ。つまり英語教師は、生徒の方言と共通語の知識や運用能力についても知っていなければならない。
 吉田研作・柳瀬和明『日本語を活かした英語授業のすすめ』(大修館書店、2003)は、積極的な日本語の使用を説いているが、上記のような省略表現への配慮もなされていて、具体的で創意にも満ちている点が多い。英語教師は、「英語で授業しないのはダメ教師」という声におびえて、しぶしぶ英語を使うか、自己流の訳読式で開き直るかしかない。それでは困るのは生徒だ。
(浅野 博)

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浅野式辞典:「きょういくきほんほう」(教育基本法)

Posted on 2006年9月1日

「日本人はすべからく愛国心を持ち、日本チームを応援すべし」などと定めたワールド・カップやオリンピック観戦用の政府指定ガイドブック。「それって、憲法に定める思想・信条の自由に反するのでは?」という疑問の声もあり、ほとんど利用されていない。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:「和文英訳」で感じた日本語の問題(その1)

Posted on 2006年8月29日

 「英語教育」誌(大修館書店)の磐崎、Elwood 両氏担当の「和文英訳欄」では、課題文が小説やエッセーからばかりでなく、英語教師向けの専門書から出題されることがある。投稿者は英語教師とは限らないであろうが、2006年9月号の成績は必ずしもよくないとのこと。この回の出題の冒頭は次のような文である。

 CALL 教室での指導を中心に授業を行う場合「教師は何をすべきでしょうか」という質問をよく受ける。(『これからの大学英語教育』岩波書店、2005)

 CALL に馴染みがない人にはピンとこない点があるかもしれないが、日本語としてはどうということのない文である。しかし、訳された英文から判断すると、この和文の解釈が分かれると評者は言う。ちなみにこの部分の試訳は次のようになっている。

 “What are teachers supposed to do?” is a
question teachers often ask me when their
lessons are mainly carried out in CALL rooms.

これならば、どういう状況で、誰が誰に質問するのかが明確だ。日本人は、当たり前のこととして、主語や目的語の省略をするが、そのことがコミュニケーションの障害になっているとしたら、簡単に見逃がせない問題であろう。また、言語学的には「日本語には主語は要らない」と説く金谷武洋氏のような見解もあるから、問題は複雑だ。(続く)
(浅野 博)

浅野:英語教育批評:英語教育とマスコミ

Posted on 2006年8月21日

 小泉首相が「公約を守っても、守らなくてもマスコミは批判する」とマスコミ批判をした。これもおかしな話で、「公約」というのは守るのが当然であるが故に、守ればよいというものではなくて、その内容が批判の対象になるのは当然である。だいたい公約をしてから5年以上にもなるのに、その間、国の内外の人々が納得のいくような説明責任を果たさないから、いつまでも問題にされるのである。しかも、8月15日の靖国参拝のあとの弁明も、感情的要素が強く、論理に飛躍があって説得力のあるものではなかった。
 もっとも、マスコミに批判される側になってみると、文句も言いたくなることがあるのも確かだ。英語教育の問題については、どうも取り上げ方が一方的だと感じることが多い。例えば幼児・児童の英語教育の問題では、テレビは子どもが生き生きと英語を話している場面ばかりを放映する。時に批判的な意見も加えるが、なにしろ映像の印象は強烈だから、その影響は大きい。「うちの子の塾(や学校)ではあんなにうまくは教えてくれていない。先生が悪いのだ」と思い込む親も少なくないであろう。これがテレビ関係者のねらいなのではないか。マスコミ関係者の多くは日本の英語教育を受けた人たちだから、英語ができない恨みを番組や記事にぶつけたいのではないかと思えるのである。
 しかし、考えてみれば、英語授業を受けた人に恨まれるようでは、英語教育は成功していないのだ。得手、不得手や好き、嫌いは何にでもついて廻るが、“恨まれるような”英語授業だけは避ける努力をしなければならないと思う。
(浅野 博)