言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「やれやれ大変だな」(理科系教育と英語教育)

Posted on 2008年5月23日

 これは、「英語教育」(大修館書店)2008年6月号の特集を見たときの率直な感想である。英語教育には ESP (特別目的の英語教育) という分野があって、笹島茂氏(埼玉医科大学)は、この分野での研究を続けておられ、立派な研究レポートも出しておられる。私は、これは大学レベルのものだと漠然と考えていたが、「英語教育」誌の特集は「チャレンジ!理系英語」ということで、高校レベルでの実践を勧めるものだ。中高の英語教員は、英語力の他に、指導法、IT 関連の技能と知識、評価法など学ぶべきものが山ほどある。しかも、生活指導や保護者への対応などその任務は昔と比較にならないほど重い。だから「理系英語などやる余裕はない」とまで言うつもりはないが、「勉強しよう」とも言いにくい気がする。
 40年ほど前に開校した筑波大学では、1、2年の外国語は「一般外国語」と「専門外国語」があって、「専門外国語」は生物学、体育科学、文学などの教員が、その分野の論文や雑誌の記事を読む手ほどきをするもので、外国語の単位として認定されていた。「一般外国語」は、いわゆる語学の教員が基礎的な語学力を養うもので、購読ばかりでなく、ネイティブスピーカーの授業や LL授業もあった。
 私は、医学専攻の1年生のLL授業を担当したが、いろいろなトピックのある総合的なLL教材を使用した。その中には、「ビタミンの働き」とか「血液の話」などもあったが、授業のあとで一人の学生がやってきて、「今日のビタミンの話は、誤解を招く言い方がありましたよ」とのことだった。それで、どう書き換えたらよいかを次回までに示してくれるように頼んだことがある。教材の著者のネイティブスピーカーは、百科辞典の記事などをリライトしたのであろう。専門的なことをやさしく書くのはとても難しいと感じた。
 文系出身の英語教員が知るべきなのは、せいぜい英米の小学校2年生くらいまでの、算数や理科の英語であろう。こういう英語力が弱いことは認めるが、簡単に「高校の理系英語にチャレンジせよ」と私には言えない。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「基礎・基本」の考え方(その1)

Posted on 2008年3月26日

 英語教育の用語も定義が明確でないので、余計な混乱を招くことがある。指導要領では、「学習活動」に代わって「言語活動」(1969)が示されたので、「言語活動とは何か」という議論がしばらく続いた。その後は、「概要、要点」(1977)が強調されて、しかも、「概要」は2学年で、「要点」は3学年でと分けたので、余計混乱を招いた。もともと「あらすじ」のような教材で、「概要をとらえながら聞いたり、読んだり、話したりせよ」と言われても、どうしてよいか迷うのも当然だ。その後は「概要や要点をとらえる」と一緒になったが、それまでが、間違いだったと認めたくない苦肉の策である。
 そもそも「言語活動」は「学習活動」の後に続くもので、「音声や文型なども含めて、総合的に行わせるものであり、言語の実際の使用につながるものである」と説明されていた。その後「コミュニケーション(活動)」なども加わり、基礎的な練習としての「学習活動」はますます軽視されていったように思う。
 「基礎・基本」とは何かの議論もあったが、私は、微妙な相違点は類語辞典にまかせて、この場合は単なる同意語の繰り返しと考えている。「基礎的な訓練」が必要なのはどの教科も同じであろう。英語教育の場合は、それがどうも十分に実践されていない感じがするのはなぜであろうか。よく耳にする理由は「時間が足りない」だ。しかし、スポーツの選手が、時間がないからといって、基礎訓練をおろそかにすれば、勝てないばかりではなく、怪我をするような事故にあうことも多いはずだ。英語でも基礎訓練をしないでいきなり言語活動から始めたら、つまずくことが多くて、能率があがらないはずである。かつて指導要領は英語の授業時間を減らした対策に、「概要、要点がわかればよい」とした。円の面積を出すのに「円周率は3でよい」というのと似ている。間違いではないが、「正確さ」からは遠ざかる。とは言っても「英語の正確さ」の基準についてもコンセンサスがない。まさに混沌としている。
(浅 野 博) 

浅野:英語教育批評:「4技能+アルファ」のこと

Posted on 2008年3月18日

 学習指導要領(中学校英語)の総括目標では「…聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う」となっていることを2月19日号で問題にした。つまり、この「など」が何を想定しているのかがわからないからである。
 そうしたら、「英語教育」2008年4月号(大修館書店)が、「授業にプラスαの要素を!〜『5技能』組み合わせのすすめ〜」という特集をして、その実例を示してくれた。ただし、この特集は、指導要領(案)が示される直前に書かれているので、中央教育審議会の答申に基づいている。指導要領でその趣旨が変わったわけではないから、そのこと自体は問題ないが、私はこの特集記事にはかなり異論がある。
 まず「5技能」は何を表すのかという問題がある。実例として「4技能」+「考える力」(p.14)、および+「異文化交流力」がある(p.30)。それでは、「話すこと」を訓練するときは、何も考えなかったのか、How are you ? という挨拶を教えるときは異文化には全く触れなかったのか、といった疑問が沸く。異言語習得の段階には、「機械的な練習」も必要である。この段階では、変な理屈は言わないほうがよい。ある程度「型」が身についたら、状況に応じた適切な表現をするために、思考力や文化理解力が要求されることは確かだが、それらは、4技能それぞれについて廻るもので、切り離して考えるのには私は反対である。
 かつて指導要領は長年にわたって「4技能3領域」にこだわり、「聞くこと・話すこと」は1つの領域として指導することが望ましいとしてきた。そのために、特に中学校段階では「聞くこと」の指導は軽視されてしまった。それが、平成元年の改訂でやっと「4技能の指導」となったのに、答申では「4技能の総合的な育成」などといっているので、また元の木阿弥に戻る恐れがある。こうした傾向に安易に妥協することなどしないで、特に指導的な立場にある英語教員のいっそうの自重した対応を求めたい。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「空気を読む」について

Posted on 2008年1月29日

 最近は「KY」で「空気を読めない」を表わし、「あいつはKY だ」などと使う。「空気」が「雰囲気」を意味するのは昔からたが、「KY」などが流行るのは「空気を読めない」人たちが増えているからであろう。
 そういう人たちの好例は政治家だ。例えば、本会議での代表質問などはほとんど無意味に思えるが、改革しようという声は聞かれない。テレビに写る首相の顔を見ても真剣に聞いているとは思えない。答弁は用意された原稿を読むだけだから聞く必要がないのだ。議場は野次と怒号が飛び交うことが多く、居眠りをしたり、欠席をしたりしている議員も少なくない。そんなことに2日も3日も使う無駄を反省する議員もいないようだ。だから「国民の声は…」などと安易に言ってもらいたくない。
 「空気を読むこと」が必要なのは教師も同じだ。名簿順で分けたクラスでも雰囲気に違いが出ることが多い。授業のときはうるさいくらい活発なクラスもあれば、静かでおとなしいクラスもある。活発なクラスが試験をしてみると意外と成績が悪くてがっかりすることがある。ましてや個々の生徒の心の内を知ることは難しい。それでも日々指導の改善に努力している教師はいるはずだ。
 「英語教育」2008年2月号(大修館書店)は、「自律的学習者を育てるための教師の役割」を特集している。「オートノミー」がキーワードで、その定義や実践上の問題点が論じられ、それぞれ示唆に富む考え方や実践例になっている。
ちょっと気になったのは、「eラーニングで自律的学習者は育たない?」で、筆者の亀山太一氏は、「今の若者はゲーム世代だから、eラーニングなら学習意欲も高まり、自発的に学習する」というのは迷信である、と述べている。間違いではないが、機器と学習の関係は、機器の導入が本格化したLLの時代 (1970~) から問題にされたことで、一方では「機器が動機付けとして役立つ」ことも実証された点がある。人間教師に代わる万能な教材や機器はまだあり得ないが、もう少し視野の広い論評を望みたい。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「言語環境」のこと

Posted on 2007年12月25日

 政治家が失言をして弁明をするときには、「誤解を招いたが、私の真意は…」のようなことを言う。「誤解」というのは、「誤って理解すること」だから、誤解はするほうに責任がある。したがって、「誤解を招いた」は、責任転嫁のような感じがする。
 一般に母語というものは“自然に”習得すると考えられている。確かに、3,4歳になった子どもが、突然に難しい単語を使って話したりすると、周囲の大人はその成長ぶりに驚いてしまう。しかし、幼児の母語習得は、話し言葉のごく一部であって、語彙、読み書き、文法、表現法などは一生かかっても完全に習得するのは不可能なのだ。その習得を少しでも早めて、「誤解を招かない」使い方を身につけさせるためには、「正確に使われている言語環境」が不可欠なのだ。政治家の不用意な話し方は、そういう言語環境の破壊につながると考えざるを得ない。しかも、マスコミが繰り返すから悪影響が強まる。
 安倍前総理や竹中元大臣などは、やたらとカタカナ言葉を使う癖があったが、これも環境汚染の一因だったと思う。カタカナ言葉でないと言い表せない新しい概念を導入したいのなら、明確に定義を示してから使うべきだ。「年金問題」「政治と金」「食品表示の偽装」などは分かりやすいから国民の関心も高い。政治家は国民が分かると困るから、わざと分かりにくい言い方をするのではないかと勘ぐりたくなる。
 他人の批判はしやすいから、自己反省もしておこう。英語教師も「文法用語」という武器を使って、生徒を悩ませているのではないか。私は新米教師のころ、高校生の生徒に「先生、“単純未来”があるならば、“複雑未来”もあるのですか」と質問されてドキッとしたことがある。「“意思未来”以外をそう呼ぶのだ」と言ってごまかしたが、文法用語は現在でも悩みの種だ。新しく出た中教審の報告にも、「英語教育でも文法指導を重視せよ」という趣旨の文言がある。よほど覚悟して受け止めないと、相変わらず効果のない英語教育を続けることになるのではないか。
(浅 野 博)