“英語教育とグローバル化”のことを考える
(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2012 年11月号の特集は、「グローバル人材を育てる英語教育」です。私はまず「グローバル人材養成」と「英語教育」はどう結びつくのか疑問に思いました。特集ページの表紙には、「近年、政府や自治体、学校現場において『グローバル人材』育成事業が強化されている」とありますが、私には、国際人の養成が「強化」されているとはあまり思えないのです。
(2)最初の記事は、文部科学省官房国際課による、「グローバル人材育成への取り組み」で、今年の6月に公表された「グローバル人材教育戦略」の説明をしています。小見出しには、「大学の国際化の飛躍的推進」とか、「学生の双方向交流の推進」など威勢のいい文言が並んでいますが、こうした掛け声だけで「日本の教育のグローバル化」が進むと考える人はいないでしょう。文科省の立場で発言するならば、予算(要求を含めて)などの裏付けのある主張をしてもらいたいと思いました。
(3)時あたかも、山中伸弥教授がノーベル賞を受賞して、テレビも日本人が喜びに沸く場面を繰り返し放映していました。しかし、山中教授は、講演や記者会見で、「自分の研究に関わり、助けてくれた大勢の若い人たちの身分が極めて不安定です」と訴えていました。教育や研究にはお金がかかるのです。このことを抜きにして、スローガンだけ掲げても意味がないと思います。
(4)昨夜(10月14日)の朝日テレビは、池上彰氏による時局解説を5時間にわたる特別番組で放送していました。その中で、デンマークの教育がなぜうまくいっているのかという話題があって、私立でも公立でも無料で、指導方針として、小学校の低学年から、「自分が学びたいことを自分で決める」教育をしていることを紹介していました。池上氏は2人のタレントとデンマークの学校を訪問して、授業の実際も映像で見せていました。
(5)国情が違いますから、デンマークの教育方法をそのまま真似することは出来ないでしょう。しかも、日本のように学習指導要領で画一的な教育を強要しておいて、“グローバル人材を養成している”などと言えるのでしょうか?私は言えないと思います。一方では、政治家たちは、「臨時国会を始めろ」「始めない」とか、「党首会談をやれ」「やらない」といったレベルの言い争いをしているのです。雑誌向きに教育問題の一般論を書くにしても、スローガンだけでは意味が無いのです。
(6)水口景子(公益財団法人国際文化フォーラム)「グローバル社会を生き抜く外国語教育―隣語教育からの提案―」では、まず「外国語=英語?」と疑問を呈して、もっと隣国の言語(隣語)を学ぶ必要性を主張しています。そして、高等学校の831校が中国語を、420校が韓国・朝鮮語を開講していますが、履修者の数は極めて少ないことを数値で示しています。そして、「こういう現実を見逃すわけにはいきません」と述べています。グローバル化の問題に限らず、日本の教育の現状はあまりにもお寒いのです。
(7)加藤ゆかり「データで見る『今の若者は本当に内向き志向?』」は、グラフで海外の留学生と日本人の留学生数の変化を示しながら、今の若者たちが、必ずしも海外志向の気持ちを失っているのではなく、「そのきっかけに出会っていないだけなのです」と結論しています。このあたりは、人によって見解が分かれるところでしょうが、いずれにしても、「グローバル人材の養成」は簡単ではないことだけは確かだと思います。(この回終り)
浅野式でたらめ現代用語辞典(再開その5)
「いくめん(育メン)」日本人の妻が夫にしてもらいたい家事は、朝のゴミ出し、夕食後の食器洗いなどが上位を占めるようで、“育児をする父親”が理想とのこと。ところが実状は?
知ったかぶり老人:「イケメン」?わしも若い頃はイケメンだったよ。エッ、イクメン?そんなの知らんね。昔の女性はわしの言うことをよくきいたもんじゃよ。
高校生ギャル:うちの父ちゃんは恐妻家だよ。母ちゃんの言う通りにしている。でも、母ちゃんは、父ちゃんが甘いから、私がわがままなんだってよく言う。私はそんなことの責任取れないよ。
50歳の父親:冗談じゃないよ。誰のために1日中働いていると思ってるんだ?外で働く父親には家は“くつろぐところ”だ。余計なことをさせるな。(この回終り)
「浅野式でたらめ現代用語辞典」(再開その4)
“iPhone 5” が発売されたというので、この日は日本中が大騒ぎでした。日本は平和でお金持ちが多い国と安心していてよいのでしょうか?
知ったかぶり老人:今は電話のことを“フォン”と言うんじゃな。“アイフォン5”は、恋人に5分間だけかける“愛の電話”だよ。おれはもう必要ないがね。
高校生ギャル:うちのお兄ちゃんは、5日間も銀座の店の前で順番待って手に入れたよ!お母さんに、「私も欲しい」と言ったら、「そのうちに飽きるから、それを貰いなさい」だってさ。いつでも私はお古なんだよね。
憂国の青年:“iPhone 5”は、反応が速いし、画面も大きく、しかも軽量で使いやすい長所のあるすばらしいものです。でも中高生たちは、こういう機器の正しい使い方をいつ教わるのでしょうか?危険なソフトのワナに引っかかる犠牲者が出ることを心配します。外国では、フェイスブックの使い方を間違っただけで、警察が出動して、けが人や逮捕者が出る大騒ぎになったそうです。他人ごとではありません。(この回終り)
“アメリカとの距離の置き方”を考える
(1)「このタイトルはどういう意味なのか」といぶかる方もおられると思いますので、その説明から始めます。英語が好きで英語教師になった人が多いでしょうから、英語話者の住むイギリスやアメリカが大好きだという人も少なくないと思います。しかし、“惚れ込んで”しまうと、弱点や欠点が見えにくくなってしまいがちです。“教える立場”の教師としてそれでよいのであろうか、という疑念が私にはあるのです。
(2)日本文学の研究者である林 望(はやし・のぞむ)氏は、イギリスに留学してから、『イギリスは愉快だ』(平凡社、1991)とか、『イギリスは楽しい』(平凡社、1991)といった書物を出版しました。研究者、評論家としての幅の広さは私など驚嘆に値するものと思いますが、イギリスに“惚れ込んで”しまった姿は、少なくとも教師向きではないと思えるのです。教師という立場は、学習者に先入観を与えないように、教える対象物からは“一定の距離を保つ”ことが望ましいと私は考えるからです。
(3)では、もう1つの国、アメリカとはどういう距離を保ったらよいのでしょうか。ここでは、佐伯啓思『新「帝国」アメリカを解剖する』(ちくま新書、2003)を参考に、「アメリカとの距離」を考えてみたいと思います。この本は、マンハッタンの高層ビルにハイジャックされた旅客機が突っ込んで、多数の犠牲者が出た惨劇(2011年9月11日)から説き起こして、その原因や結果を論じています。
(4)私もあの衝撃的なテレビ画面には恐怖を感じましたが、日時が経つにつれて、アメリカはあの事件が何故起こったのかということの追及を十分にしたのであろうか、という疑念が湧きました。「テロはひどい」「憎むべき犯罪だ」と考えた人が多く、当時は国力のあったアメリカが、ブッシュ大統領の意向で、アフガニスタンを攻撃したり、イラクに侵攻したりしたのは当然と考えた人が多いようでした。
(5)しかし、イラクでは、フセイン大統領は独裁者ではあったのですが、大量殺りく兵器の製造の証拠も、9.11 のテロの首謀者とされたウサーマ・ビン・ラーディン(メディアによって表記が違います)と関係があったという証拠も見つかりませんでした。この間の経過は、上記の書物に詳しく書いてあります(ただし、その後、ホワイトハウスはテロ攻撃を知っていたという“2.11テロ陰謀説”なども出ています)。アメリカの大統領は独裁者ではありませんが、大きな権力を持っていて、他国との戦争も始められるわけです。ベトナム戦争(1965~1973)への介入などは、全国的な批判を浴びて、ヒッピー族などの反戦風俗を産んだことは、まだ記憶している人も多いでしょう。どこの国にも、その歴史が長くなれば栄枯盛衰があるわけですから、どの面を評価するかによって、大きな差が生じるものです。
(6)日本でも大統領制にすべきだとの声がありますが、その前に「民主主義とはどういうものか」をもっと考えるべきでしょう。英語教育について言えば、英語教師の間でも、目的も方法論もしっかりしたコンセンサスを得られない現状をまず直視して、もっと活発な意見交換をする必要があると思うのです。(この回終り)
“ふり返り”の特集号を読んで思うこと
(1)「英語教育」(2012年10月号)の特集は、「『ふり返り』でつくる、もっと良い授業」ですが、私はまず“ふり返り”って何だろうと思いました。明鏡国語辞典(大修館書店)によれば、“ふり返る”は、「過ぎ去った事柄を思い返す。回顧する」とはありますが、名詞の“ふり返り”はありません。広辞苑も同様です。間違いではないのでしょうが、啓蒙的な雑誌の特集では、できるだけ一般的な言い方をしてもらいたいと思いました。
(2)最初の記事のタイトルは、高橋一幸(神奈川大)「授業改善はじめの第一歩:自分の授業を reflection しよう!」です。”reflection” は、英和辞典では、「熟考して得た考え、意見、反省」などの定義がしてありますが、“ふり返り”とはすぐには結び付きません。明鏡辞典の「ふりかえる」には、「今日の試合を振り返って反省にふける」という例文があって、“ふり返る”には、“反省する”という意味は含まないように思えるからです。「これまでの授業の反省を、明日からの授業に活かすために」といった特集であれば、分かりやすかったのにと思います。
(3)2番目の記事は、金森強(松山大)「アクション・リサーチ(AR)で取り組む授業改善とSelf-study による教師の成長」ですが、本文を読んでみても、このタイトルと「特集」との関係がよく分かりません。“アクション・リサーチ”は、1つの指導法として立派なものと私は認識していますが、それならば、他の指導法にも言及すべきではないでしょうか。”Self-study” という英語を使用する意図もよく分かりません。『ジーニアス英和』には、“内省”という意味もあるのですが、やはり一般的な意味は、“独学”でしょう。廻りくどいタイトルは避けるべきではないでしょうか。
(4)太田洋(駒沢女子大)「授業中、コミュニケーションのために英語を使っていますか?―英語を使う場面とその姿勢、そのための英語の力をつける練習法」も長いタイトルですが、言わんとするところは分かります。教室英語(classroom English)を使用することは私も賛成ですが、その際は、「目的とタイミング」が明確であることが必要です。「何でも英語で言えばよい」といった考えでは、生徒の学力差を大きくしてしまうだけだと思うからです。
(5)太田氏の記事は、細かいところに配慮をしながら、熱心に自分の信じるものを説いていますが、まず“教室英語”の定義を明確にすべきでしょう。その他の記事でも、各執筆者は指導方法や問題点に関しての博識を披露しながら熱心に自説を述べていますが、「特集」としてのまとまりが感じられないのです。これは編集方針の責任でしょうから、もっと分かりやすい特集にしてもらいたいと編集者に要望しておきます。(この回終り)
(浅野 博)