言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「3つの教育」の不在

Posted on 2007年10月2日

(1)「言語教育」
日本語を知らない、英語もできない日本人が増えていると思う。大きな原因は「訓練」の不足だ。1970年代以後は、「詰め込みや暗記はダメ」「競争もダメ」と思い込んでいる教師が増えた。ことばによるコミュニケーションには、一定のルールがある。スポーツでもルールがなければ、ただの喧嘩になってしまう。そのルールは、練習試合をやりながら覚えるのが素人、つまり一般学習者には一番よい。練習試合のような訓練のない教育が横行しているのだ。しかも、「“自発的”訓練」が必要なところに実践の難しさがある。
(2)「映像教育」
家庭教育と関連して、テレビ視聴の是非はしばしば論じられてきた。しかし、「見せるか、見せないか」の話だけでは、あまり実際的ではない。何としても面白く見せようとする番組制作者による誘惑には負けてしまうことが多いからだ。見たものから何を学び取るかを教育することが大事なのだと思う。
教室にテレビ受像機が普及すると、英語教育の場合でも「音声だけの場合よりも、はるかに分かりやすい」という声が強くなった。ほとんどビデオを見せただけで終わりという授業さえある。学習者レベルの英語は、聞いただけでも、読んだだけでも理解できるようにしなければ意味がないのだ。
(3)「情報教育」
ある大学のカリキュラムの「情報教育」の内容を調べたら、パソコンを操作する方法を教えるだけのものだった。今は小学校、またはそれ以前からパソコンを操作できる子どもが少なくない。そうなると大事なのは、インターネットから、どういう情報を得て、それをどう利用するかという知恵である。そういう意味での「情報教育」が欠如している。一方では、「悪い情報を見せたら、変に関心を持ってしまう」という反論もある。つまり性教育に似た難しさがあるのだ。でも、悪い情報に惑わされ、事件に巻き込まれる事例が多すぎる。「情報に強い人間」の教育はどうあるべきかもっと真剣に考えるべきではないか。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:理想と現実

Posted on 2007年9月25日

『英語教育』(大修館書店)の2007年10月号の特集は「英語の授業はどう変わったか、これからどう変わるか」だ。各編とも読みでがあるが、浮かび上がるのは「理想と現実」である。次の2編についてのみ感想を述べてみたい。
(1)江利川春雄「指導要領から見た授業の変化と展望」
江利川氏の文章はいつも小気味良い。文科省には「小気味悪い」もの(こんな言い方はないが)なのであろう。本稿については、1つだけ異議を述べたい。改善懇の要望について「実現した要求も少なくない」としている点である。確かに、「文法・文型の学年指定の廃止」は実現した。しかし、中学と高校の枠は依然として存在しているし、これは文科省の進める「中高一貫校」の意義とも矛盾する。指定語の数は百語に減ったが、総語彙数制限は撤廃されていない。中学の時間数も、今度の改訂でやっと「週4」にもどりそうである。「小クラス」も学童数の減少の結果であって、文科省の積極的な政策ではなかった。江利川氏も最後に要望されているが、そもそも指導要領そのものが、「手引き」であるべきだというのが改善懇の当初からの意図であったと思う。
(2)松永淳子「高校の英語授業は変わったか」
中学は平成14年から、高校は15年から現行の指導要領になり、それ以後のの授業の変化とあり方を多角的に論じている。大学入試については次のように批判している。すなわち、センター試験はともかく、難関校の二次試験では「和文英訳」や「英文和訳」が多く、「要求するのは実践的コミュニケーション能力よりも日本語処理能力と言わんばかりの問題を取り揃えている」と指摘している。こういう批判はまず効果がない。なぜなら、出題者側が、齋藤孝・斎藤兆史『日本語力と英語力』(中公新書、2004)などを根拠にしていたら見解が全く対立してしまうからである。まずこの書物を論破しなければならない。ところが高校側の見解も割れていて、受験校はむしろ現状肯定であろう。前途多難なのである。そして、私自身もこの書物の主張を全面的に否定しようとは思っていない。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「きょくめんのだかい」(局面の打開)

Posted on 2007年9月20日

高校生の定義
A:バットで打った球の表面が破れること。
B:民営化で閉めてしまった郵便局の扉を開けること。
C:体調が悪いのを言わないで総理を辞めること。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:論理的であること

Posted on 2007年9月18日

 「論理的な考え方」については、前に三森ゆりか『外国語で発想するための日本語レッスン』を紹介して、考えたことがある。今回の話はそう難しいことではなく、安倍首相の辞任劇を例に「論理的な考え方、ものの言い方」を考えてみようというものである。
 安倍首相の突然の辞任は、「無責任だ」「職場放棄だ」と非難の声が強い。もともと、言語面でも首相の器ではなかったのだと思う。話し方が下手といっても、「言語明瞭、意味不明」というほどではない。一言で言えば、「単純すぎる」のである。例えば、参院選挙の街頭演説では、「野党は何をしましたか?野党は何もしていません!」と絶叫していたが、これはおかしな責め方だ。過半数を持たない野党は、政府批判以外にほとんど何も出来ないのは当然のことだ。首相には「審議拒否」のことがあったのであろうが、それではなぜあんなに強行採決をしたのかに答える義務が生じてしまう。教員や社保庁の職員のことについても「これからは悪い人は辞めてもらうことが出来るのです」と言っていたが、これも単純すぎる。「仕事ぶり」からだけ判断して、免職させられるかどうかは、そんなに簡単に決められる話ではない。辞任の弁では、「テロ特措法」のことばかりを後継者に期待していたが、まず公約を実行できなくなったことを国民に謝るのが先だ。
 身体的に無理があったならば、まず検査入院をして、医者の見解が出てから、「体力に自信がないので辞めさせてもらいたい」と言えば、同情こそされ、非難されることはかなり回避できたはずである。そういう手順を誤ったから、後継者問題にからんで、陰謀説だの、クーデター説まで出ているが、「一寸先は闇」と言われる政界に身を置くには、人が好すぎたのであろう。
 最後の自己反省を1つ。教員も生徒、学生にどう思われているかを常に気にすべきである。しかし、容易に本音を見抜かれるようなパフォーマンスだけは避けなければならない。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「せめて1時間くらいは」

Posted on 2007年9月11日

 「小学校の英語」の扱いがはっきりしないところに、参院選挙の結果で与党が不利になったために、指導要領の作成など万事遅れ気味になっていることは、このブログ(7月31日号)でも書いた。最近、中央教育審議会が小学校の授業時数を増やすことや、5,6年生に英語を「週1時間程度」教えることを決めたと報道された。「英語より先にやるべきことがあるのではないか」という文科大臣の一言で、足踏みをしていた小学校の英語教育が、こんな形で実行に移されるのであろうか。来年度予算としては 40億円くらいを要求しているようだが、これは昨年度のもの(わずかしか認められなかったが)と同じ額だ。文科省の意図はあくまでも「教科化」にあるのであろう。
 ところで、「せめて」「やはり」「さすが」のような英語になりにくい言い方を日本語の特徴として捉え、その背後にある日本人の考え方を論じたものに板坂元『日本人の論理構造』(講談社現代新書、1971)がある。「せめて」については、日本人の間では、ある限度であきらめる気持ちがより審美的により高貴なものと見なされ、「せめての論理が手段としてではなく目的に転化される点、やはりすぐれて日本的な価値意識として特筆されるべきであろう」と述べている。
 今のところ、誰かが「せめて週1時間」と言ったわけではなく、私の勘ぐりで使ったのだが、案を作った審議会の委員の頭の中にはこういった「あきらめ」と「満足感」が混在していたのではないか。それで実施されたときの問題点を考えていないとしたら、想像力の欠如としか言いようが無い。「教科」になれば、都会ではより良い成績を得るために、塾や会話学校に通わせるという悪習がより盛んになる。予算が通れば、テキスト代や臨時講師の手当てなどに使われるのであろうが、これまで議論されたはずの担当者や教員養成の問題は棚上げにされたままになるのであろうか。一方、「教育特区」では中学英語の前倒しが進んでいる。とても賛成できる案ではない。
(浅 野 博)