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浅野:「日本の英語教育の考え方」を考える

Posted on 2011年8月17日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2011年9月号の特集は、「明日の日本の英語教育を考える」で、同社の「英語教育学大系」(全13巻)の刊行を記念してのものである。英語教育のことは、大きく分けて、(a) 他の国々と比較しての見方と、(b)日本独自の問題として捉える見方が考えられる。冒頭の寺内一(高千穂大)「日本の英語教育はCEFR をどのように受け止めるべきか」は(a) に属する。寺内氏は、CEFR は日本の言語教育関係者にかなり認知されるようになってきているとしているが、氏の主観的判断のように思う。

(2)寺内氏は、CEFR はCommon European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment の頭文字で、「外国語能力共通参照枠」であることなどを説明している。しかし、私は「英語教育」誌の性格から、題名にこうした用語を使うのは避けたいと思う。しかも、氏は次のように書いている:「例えば、ある実験結果を伝えるにしても、世間に広く知らしめるために一般読者に向けて書く新聞記事と、最新の実験結果を専門学術誌で公表する場合には書き方が違う。われわれの日常生活ではこうした使い分けを自然に行っている。この視点を外国語学習にも向ける重要性は限りなく大きい」。この引用部分にもやや不正確な表現があるが、このような“甘い見方”で英語教育を論じてもらいたくないと私は思う。

(3)本名信行(青山学院大名誉教授)「世界の英語教育・日本の英語教育」は上記 (a) と(b) を含んではいるが、 結論的に「日本では英語を使う社会的場面は少ないが、教育現場で工夫を凝らしたいし、そうすべきだ。同時に、日本人の英語は日本文化の影響を受けたものになるが、教育現場ではこの理論をしっかりと認識すべきだ」という趣旨のことを述べている。英語の多様化は否定できない事実だが、中学1年生の教室で、どういう英語を教えるべきかは具体的で切実な問題である。問題点の認識は大切だが、それだけで問題が解決するわけではないであろう。

(4)西堀ゆり「教育機器・メディアにふりまわされないための知恵」は、用語の定義があいまいだ。“メディア”は広義では、新聞、ラジオなど“マスコミ”のことを意味するし、やや絞って“教育手段”の意味では、“教育機器”も含まれる。ここでは、むしろ“メディア・リテラシー”を用いたほうがよいであろう。これは広辞苑にも「メディアの伝える情報を批判的に判断・活用し、それを通じてコミュニケーションを行う能力」と定義してある。

(5)その他の7氏の論考は、失礼ながら、特に新しい知見を得られるものはないように感じられた。日本文化的な慣習から言って、「刊行記念特集」となると、批判がましいことは言いにくくなるのは自然かもしれない。それにしても、これまでと同じことを繰り返すのではなく、教室の教師に「よし、やってみよう」といった意気込みを与えるような主張を望みたいと思うのは私だけであろうか?(浅 野 博)

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浅野:英語教育批評:「英語学習環境の破壊」を考える

Posted on 2011年8月10日

(1)私はかねてから、「日本人の英語学習環境は破壊されている」と主張してきたが、今回はその問題をいくつか具体的に指摘してみたいと思う。1つには「カタカナ語」の多用がある。カタカナは表音文字だから、耳から入った単語などを表記するには便利だが、その表す「音」は原音とはかなり差がある。そのことに気づかない学習者が多いが、これは教える側の責任であろう。

(2)第2次大戦後は、漢字の簡略化が盛んで、それに合わせて「送りがな」なども簡略化され、「ヴ」のような表記も廃止された。上田敏の訳詩の「秋の日のヴィオロンのため息の…」が、「ビオロンの」では全く感じが違ってしまう。「ヅ」も「ズ」に統一されて、方言に残るこの2音の区別を教えなくなってしまった。そうかと思うと、「漢字検定」などでは、日常生活ではまず使わないような漢字を出題している。教育だけではなく、どこか全体が歪んでいるのが日本の実情のように思える。

(3)次に挙げたいのは、中途半端な英語の使用である。これは国会議員から始まったようだが、「英語の乱用」が目立つ。“コンプライアンス”(compliance 法を守ること)などは、「順法」でいいではないか。テレビやラジオのコメンテーターまでもが、負けじと英語を多用する。“ファイナンスする”というのもあった。“ファイナンス(finance 金融、会計)でさえあまり知られていないと思うのに、「財政を管理する」といった動詞で使うなど、「自分さえ分かれば」というコミュニケーションの原則無視の態度はとても容認できない。

(4)日本人の英語学習者は、その多くが「英語を話すのは難しい」と感じているが、そもそも基盤の軟弱なところに家を建てようとするようなもので、個人の力ではどうにもならない面がある。そうした逆境を利用しようという試みもあった。例えば、脇山怜『和製英語から英語を学ぶ』(新潮選書、1985)とか、河口鴻三『和製英語が役に立つ』(文春新書、2004)などで、これなら、「和製英語」と「英語」の両方を学べる。ただし、初心者向きではない。初心者は「和製英語」が印象にの残ってしまうことがありがちだからである。

(5)教室の問題に戻って、「音(おん)」について、教員はどのくらい指導しているであろうか。「アイウエオ」を扱うにしても、なぜ「五十音図」と言うかを知っていれば、音に触れざるを得ない。国語音声学といった書物もあるが、難解な専門用語を使っての記述が多くて、実用的でない。文科省の学習指導要領もこの点では役に立たない。教育は八方塞がりの状況であると思う。(浅 野 博)

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浅野:英語教育批評:「本から学ぶこと」を考える

Posted on 2011年7月21日

(1)「英語教育」誌(大修館書店、2011年8月号)の特集は、「夏休みは洋書三昧~思い出の本・おすすめの本」である。3月11日の東日本大震災の前からだが、学校教員の勤務条件は厳しくなっていて、夏休み中でも自由な時間が取りにくいという声がよく聞かれた。しかし、なんとか個人的な努力で時間を生み出して、本を読んで勉強しようというのであれば、反対する理由はない。
 
(2)この特集のようなテーマで多くの執筆者に依頼すると、同じような書物が列挙されたり、個人的な趣味に偏ったりしがちである。今回の特集では、テーマや話題を整理してあるために、そういう弱点は避けられている。読者にとっては有難い配慮である。内容も、科学者のもの(池内了「学者の2つの顔」)、歌人のもの(井辻朱美「二世かけて」)また、近代デザイン史研究家のもの(柏木博「豊かなアメリカ生活様式」)など多彩である。それだけに「洋書(三昧)」という言い方は、西欧文明にあこがれた明治時代の名残があるので、ここで使うのはふさわしくないと私は思う。
 
(3)さて、私自身も英語教員としてお世話になった書物は多いが、1冊だけならば、丸谷才一『日本語のために』(新潮文庫、1978)を挙げたい。英語教師は日本語に弱いという傾向があるので、自省を含めてもっと日本語を勉強すべきだという思いがある。また、この1冊には、教育問題への言及が多いことも選んだ理由になる。例えば、小見出しには、「子どもに詩を作らせるな」「よい詩を読ませよう」「中学で漢文の初歩を」「文部省にへつらうな」などがある。そして、「総理大臣の散文」というのがあって、“現代の話題ではないか?”と思わせる。
 
(4)実はこの書物が書かれた頃の総理大臣は田中角栄で、彼は日中国交再開を祝って、北京で漢詩を書いた。それは、「国交途絶幾星霜。修交再開秋将到。隣人眼温吾人迎。北京空晴秋気深。」というもので、この漢詩について丸谷氏は、「新聞広告の『美邸瓦水日当良』という文句を思い出した」と言い、しかしながら、「田中首相のザックバランな人柄が嬉しいと喜ぶこともできよう」とも述べている(p. 91~)。
 
(5)アメリカの政治家が日本へ来て、自ら作った和歌か俳句を披露したならば、それがいかにつたないものでも、日本国民は拍手喝采して喜ぶのではなかろうか。しかし、それで外交交渉がうまくいくという保証にはならないであろう。中国は、田中角栄を最後まで“恩人”として敬したようだが、この辺りは日本人と感覚が違うようだ。最近のように、自ら混乱と政治不信を招く言動の首相も困るが、成熟した民主主義社会の国民はもっと大人にならないといけないとも思う。(浅 野  博)
 
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浅野:英語教育批評:「話すこと」ことの指導を考える

Posted on 2011年6月20日

「話すこと」ことの指導を考える
(1)「英語教育」誌(大修館書店、2011年7月号)の特集は、「4技能統合におけるスピーキングの指導」である。スピーキングは、中学生から成人まで、日本人が一番苦手に思っている技能のようだ。1つの理由は、「独習がしにくく、しかも話す機会を失うとすぐに衰えてしまう技能」だからであると思う。この問題について、どういう解決方法を示してくれるであろうか、と期待をして今回の特集を読ませてもらったが、かなり失望した。その理由を述べていきたい。

(2)冒頭の記事は、向後秀明(文科省教科調査官)「4技能統合におけるスピーキング指導はどうあるべきか」であるが、指導要領に書いてあること以上のものは得られなかった。そして、次のような記述にはちょっと驚いた。
「話すことに関する活動は、言語材料などについての十分の理解があって初めて成り立つものである、という考え方に捉われすぎると、常にインプット→アウトプットという指導順序を意識し、結局英語を使って発信するための時間が確保できなかった、といった事態になりがちである」(p. 11)

(3)廻りくどい文章だが、次のようなことを言いたいのであろうと私は推測した。
1. 言語材料などについては、十分な理解は必ずしも必要ではない。
2.「インプット→アウトプット」の順序は、常に意識する必要はない。
3. 何よりも、スピーキングのための時間を確保すべきである。
私はこうした考え方には賛成できない。ちなみに、竹下厚志(神戸市指導主事)「スピーキング活動につなげるインプット活動」という記事もある。ここにもかなり飛躍した記述があるが、「インプット→アウトプット」という手順は重視しているように思われる。(ただし、実例は高度な高校用である。)

(4)原田尚孝(熊本市立桜山中学)「英語が苦手な生徒に話させる工夫――スモール・ステップを踏んだ指導のプロセス」は、まず次の5段階を示している。
ⅠFree Conversation、 Ⅱ.Asking Questions、Ⅲ Pair Work、Ⅳ Skit Presentation、Ⅴ Show and Tell
Free Conversation の実例:
T : What is the date today? S1: It’s July 7th. T : What’s your favorite class? S3: It’s English. T : What time did yo go to bed last night? (以下略)
こんな会話が出来る生徒が「英語が苦手」なのであろうか。それにしても、この問答は、スピーキングを教えているとは思えない。まるで、不審者を捕まえた警官の尋問のように感じるのは私だけであろうか。

(5)他の記事でも実例のレベルが高く、小学校と高校との板挟みで、一番苦労の多いはずの中学校向きの記述がない。英語を話すことの基礎は「発音」であろうと私は思う。安木真一(鳥取県立鳥取西高校)「様々な発声練習法」では、音読指導のステップは示しているが、(個々の音などの)発音練習には触れていない。もっと読者のレベルと内容のねらいを明確にした特集にしてもらいたい、と要望したい。(この回終り)

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浅野:英語教育批評:「英語力の比較」を考える

Posted on 2011年6月8日

「英語力の比較」を考える
(1)昨年の8月に、吉田愉美子さんから、私のブログに関連して、「スウェーデンの友人は、英語圏でもないのに英語を上手に書いたり話したりする。参考になるのではないか」との趣旨のご指摘を頂いたが、その後だいぶ時間が経ってしまった。お答えにはならないかも知れないが、この問題を考えてみたい。

(2)ただし、私は、スウェーデンの実情についてはほとんど知らないので、一般論として、アメリカ合衆国の場合と日本の場合を比較するときの問題点について考えてみたい。よく聞かれる声に次のようなものがある。テレビ画面を見て、「あのアメリカ人は、日本に来て2年にもならないのに、日本語を話すのがとても上手だ。私たちは10年以上も英語を教わってきて、日常会話もできない」。

(3)しかし、そのアメリカ人が実際にどういう勉強をしてきたのかは、簡単には想像できない。「アメリカ人は集中的にものごとをやるけれど、日本人は集中力に欠ける」ということもよく指摘される。それが事実だとしても、「だから日本人は英語ができないのだ」と結論はできないであろう。日本人でも英語を話すのがうまい人は決して少なくはない。同じ外国語を学校で10年以上も学ぶというのはアメリカではまず考えられない。アメリカ人も(母語としての)英語を小学生から学びはするが、特に大学で学ぶのは、論文を書くのに必要な「書き言葉」としての英語だ。(話を単純化しているが、移民の多いアメリカの実情はもっと複雑である。)

(4)どこの国の人でも、外国語を学ぶにはかなりの時間をかけるはずだ。しかし、その大部分は、「自分の努力に頼っている」のではなかろうか。したがって個人差が生じるのは避けられない。自分はどうも話すことは得意ではない、と思ったら、読むことや翻訳に熱中すればよいのだ。他の選択肢を選ばないで、「英語が話せない」と悩む日本人が多いのは異常だとさえ思われる。

(5)しかしながら、実際は高校でも大学でも、入学試験ではほとんど英語が課されるから、選択する余地がないのも確かだ。したがって、「日本人と英語」の問題を解決するためには、少なくとも「制度」「教え方」「学び方」の3つの観点から考える必要がある。そして、中、高生が個人として責任が持てるのは、「学び方」の面だけであろう。その場合でも、教師が「よく勉強しろ」と言うだけではダメだから、教室でも「英語の勉強の仕方」を教えることが必要となる。  

(6)また、いくら個人が頑張っても、「制度が悪い」「教師の教え方が悪い」ということになれば、英語の力もつかないであろう。その他に、私の持論である、「日本における英語学習環境の破壊」という現象がある。その1つは、安易なカタカナ語の氾濫である。こうした問題を機会あるごとに私のブログで考えていきたい。(浅 野 博)

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