言語情報ブログ 語学教育を考える

2.確かに「秀才」はいる

Posted on 2010年10月3日

大学を出てすぐに務めた都立高校は,受験校で,生徒は東大を初め一流大学を目指していた。私は通信教育を主に担当することで採用されたので,全日制課程の生徒は1年生だけしか教えなかった。

1年の最初からPOD(Pocket Oxford Dictionary)を使っている子がいた。「難しいだろう」と聞いたら,「いいえ,これしか使ったことがないから。」と言われて驚いた。柔道部や水泳部で朝夕猛烈な練習をしているにもかかわらず,週1回のスモールテストがいつも満点,といった女性の先生方が惚れこんでしまうような子がいた。クラスに2,3人,頭の構造が俺とは違うな,はるかにできがいい,こういうのを「秀才」というのだろうと思う子がいた。

そのいっぽうで,東大に入ったから,東大を出たからといって必ずしも「秀才」ではない。この50年間,高校,高専,大学と,私の職場にはいつも東大卒がたくさんいた。母校の千葉大も入った頃は東大色が強く,教授会でも「東京大学では・・・」と発言する東大出身の教授が多かった。そういう先生に限って頭が固く,普通の大人として見ると,「中」よりは「下」じゃないかと思うほど,ものわかりが悪かったりした。東大卒もいろいろで,必ずしも「秀才」とは限らないようだ。

あれほどの難関を突破して入った東大生がやがて玉石混交になってしまうとしたら,これはどうしたことであろう。学校と世の中は違うので仕方のないとも言えるが,もしかしたら,「教育がおかしい」からではないかと思うに至った。
(村田 年)

everyとsomeの相互関係で両義的

Posted on 2010年10月1日

 (10)Every student is fond of some professor.のsome professorがsome professorsの誤りと見えるかもしれませんが、誤りではなく、この(10)は一義的ではありません。
 まず、(4)Each of my sisters loves a man from Texas.が、X「 私の姉妹は、それぞれ別のテキサス出身の男性を愛する。」と、Y「 私の姉妹は、一人のテキサス出身の男性を愛する。」とに、両義的であることを、お浚いしましょう。ここで、便宜上、姉妹を二人と仮定しましたが、三人、四人、…と増える可能性があり、三人以上の場合に、XとYに加えて、XとYの両面性を備えた解釈の可能性が存在可能なのです。
 では、(10)Every student is fond of some professor.の両義性を考えましょう、every studentは、(4)each of my sistersに相当し、「どの学生も」という意味を担い、これに対して、誤りではないsome professorは(4) a man from Texasに匹敵し、「ある教授」という意味になります。XとYと平行的な解釈が、それそれ、次のAとBです。
A: どの学生にも好きな教授が1人ずついる。
B:  どの学生にも好かれている教授が1人いる。
 (4)で姉妹が三人の場合、姉妹の内二人が一人のテキサス出身の男性を愛し、他の姉妹一人が別のテキサス出身の男性を愛するという、前者がXで後者がYである両面性を備えた解釈が可能であるように、AとBの両面性を備えた解釈が、every studentの学生数が増えれば増えるほどに、some professorに生ずる解釈可能数増加によって、増えるものの、最大数Aと最少数Bを把握して、両者の混交という両面性を指摘させて頂きます。
 次回は、次の(11)で、形容詞の意味が既習なら、中学3年生でも、その両義性解釈可能でしょう。
(11)Simon must be polite.

浅野式辞典:「せんかくしょとう」(先覚諸島)

Posted on 2010年10月1日

「せんかくしょとう」(先覚諸島)
 政府は問題になっている尖閣諸島を今後は「先覚諸島」と書き表すことにした。「先覚」とは、「人より先に物事の道理を見抜くこと、またその人」(明鏡国語辞典)とある。歴史的な教訓にしようというわけだが、「検察が政治問題にまで言及したのはなぜか」と問われて官房長官は「そのあたりはゴケンサツ願いたい」とオヤジギャグで逃げた。

「秀才」は雑草だ!

Posted on 2010年9月30日

日本の教育はいわゆる「秀才」の扱いを間違えているのではないか,教育が「秀才」をつぶしてしまっているのではないか,という観点から「秀才」の扱い方について検討してみたい。

1.はじめに
「すべての草花は同じです。雑草などというものはありません!」とある先生に言われた。おっしゃる通りと賛成するいっぽうで,でも雑草は強くて,花がみんなやられちゃうんだよね,とも思った。

秋まきで早春から咲くパンジーのような花の鉢に,2月頃になるとハコベが出てくる。どんどん育つ。抜き捨てるのもかわいそうだと根のあたりで切り捨てる。また出てくる。また切り詰める。雑草のハコベは本命のパンジーの5倍も元気である。

つる性のパンダスミレ(スミレモドキ)は強い。1本小さな鉢に植えたら,どんどん伸びて道路に出て,いっぱいに茂り,なるほどパンダに似た花をたくさん咲かせた。どぶ板の上を這っていき,咲き誇った。強くて虫もつかない。これはスミレというより雑草だと思った。

しかし,4,5年経ったら,ある蝶が盛んに飛んできて花にとまるようになり,やがてたくさんの黒い毛虫が湧いた。割りばしで毎日取った。殺虫剤も撒いたが,とても駆除できなくてスミレもすっかり弱ってしまった。

ふと見ると,ミントに似たハーブのような草が出ている。いい香りがする。毛虫も食べないようだ。あっという間にこの草がどぶ板の上全面に広がった。これは強い。日中は熱くなるコンクリの上で,水もほとんどなく,肥料もなくて,何もしてやらないのにどんどん育つ。おかげでパンダスミレは全部なくなってしまった。これこそ「雑草」だ。
(村田 年)

副詞の解釈が両義性に関わります

Posted on 2010年9月27日

  (9)A drunken man clumsily dropped his purse.において、副詞の解釈が両義性に関わります。clumsily「ぶざまに(も)」が、何を修飾するかが、決定的なのです。
  まず、典型的に、副詞は、A:動詞(句)を修飾し、副詞clumsily「ぶざまに(も)」が動詞句dropped his purseを限定します。考え易いと言いますか、考え難いと言いますか、主語a drunken manが、clumsily「ぶざまに」dropped his purseしたということで、dropped his purseに、「ぶざまに」対「ぶざまにではなく」という対立があって、「ぶざまにではなく」というより「ぶざまに」と限定されているのです。
  これに対して、場合によっては、副詞が、B:文全体を修飾し、clumsily「ぶざまに(も)」が文全体B drunken man dropped his purse.を限定します。こちらの解釈では、clumsilyが、dropped his purseを、「ぶざまに」であれ、「ぶざまにではなく」であれ、修飾し、副詞clumsilyが動詞句dropped his purseをどのように限定するかは、問題外で、動詞句dropped his purseが副詞clumsilyに直結するのです。
  両義性は、次のように、まとめられます。
A: 酔っぱらいはぶざまに財布を落とした。
B: ぶざまにも、酔っぱらいは財布を落とした。
  それにしても、Aに該当する方は、ご自分を「酔ってない」をおっしゃらないでしょうか、また、酔ってない方々が、Bを発するのでしょうか?

  次回は、(10)で、(4)Each of my sisters loves a man from Texas.より、抽象的です。
(10)Every student is fond of some professor.