言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:小学校の「英語活動」のこと

Posted on 2008年8月26日

実現が危ぶまれた「英語活動」は、大臣が交代したらすぐに実現へと動き出した。それにしても、「5,6年生に週1時間程度」というのは、いかにも日本らしい妥協の産物だ。一方では、中学校の外国語(英語)が、週3時間では効果が落ちるということで、週4時間にもどるというのに、週1時間程度でどれほどの効果が期待できるのであろうか。
「英語教育」9月号(大修館書店)は、「小学校で英語をどう教えるか」という特集をして、主に「英語活動」の準備、実践の立場からの情報を提供している。冒頭では、管正隆氏(文科省教科調査官)による、「英語ノート」誕生の経過や意図、指導上の注意が述べられている。しかし、時間数については触れられていない。一方、新里真男氏(東京国際大学)による「中学校への連携をどうするか」では、研究開発校である成田市の小・中校を例に連携の在り方を述べている。しかし、小学校の場合でも、20分授業を1学年から週5回と、週1回の授業よりも時間が長い。平成8年からの実施だというから、そうした実績は、今回の実践には反映されていないのであろうか。
それと、もう1つの疑問は、小学校の英語授業導入の反対理由としてかなり強かった「国語」の問題にはほとんど言及がないことだ。「英語活動はこうやるべき」とか「こんなに楽しく実践されている」と言うだけでは、理論的にも、制度的にも進歩は期待できない。
さらに、管氏の記述には、「『英語ノート』では、フランス語、ロシア語、スワヒリ語、中国語、韓国・朝鮮語、ポルトガル語、ヒンディー語、マオリ語、モンゴル語、アラビア語、スペイン語などに触れさせるとともに、ハングル文字、タイ文字、キリル文字、アラビア文字にも触れさせるように構成されている」とある。「おやおや、大変だ。これが英語活動なの?」というのが私の率直な印象である。いくら、英米一辺倒はいけないとしても、これではよくばり過ぎていないだろうか。「過ぎたるは及ばざるがごとし」と昔から言うではないか。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「コミケ」(コミケ)

Posted on 2008年8月20日

 「コミックマーケット」のことだが、ニュースになるのは、マンガの主人公や人気キャラクターの服装をした人たちを見ようと何十万人もの人出があるからだ。同じテレビが「生活苦で国民は怒ってます」と報じても真実味が感じられない。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:声の大きさ

Posted on 2008年8月11日

 夏休みになると、電車とかファミレスなどが子どもの声でとてもうるさい。どうして必要以上の大声を出すのだろうか。そばにいる親もそういう環境で育ってきたせいか、注意を与えることもない。だいたい日本人は、昔から声の大きさに無関心で、むしろ「声の大きいやつに悪人はいない」などと声が大きいことを自慢する風潮さえある。
 英語指導のことを考えてみても、「もっと大きい声で!」と注意をする教師が少なくない。確かに、40人もいるクラスで、ぼそぼそと小声で答えられたのでは、教師のほうもいらいらするのはわかる。しかし、そういう指導が「いつも大声で話す」という習慣を助長していることも考えたい。隣のクラスへの配慮も必要だろう。そもそも声の大小は、時と場合によって使い分けるもので、そういうことを訓練する機会がないことが問題だと思う。
 声ばかりでなく、音響機器の音量にも配慮が必要だ。一般にスピーカーの音はかなり遠くまで届くのである。学校では隣の教室へ行って、聞いてみるとよい。生徒がいる時といない時では音の通じ方が違うが、放課後など試しておきたい。家庭でも、テレビの音声をふすま越しに聞いてみるとよい。その部屋に野球中継などに関心のないお年寄りがいたら、かなりの苦痛になるはずである。
 音量というものは、臨機応変に調整すべきもので、柔軟な対応が必要である。日本人の考え方にはどうもこの柔軟性がない。数年前の現官房長官が文科大臣だったときの、大クラス(40人)か小クラス(30人)かという問題でも、「大クラスは必要だ」「いや、小クラスのほうが教育効果が上がる」「そんなことは実証できるのか」といった議論に終始していたように思う。実際は、「どういう教科で、どういう指導をするときに大クラスがよいのか、それとも小クラスがよいのか」といった発想の柔軟性が必要なのである。どの教科も、どのような指導法を用いても、同じ規模のクラスで、といった硬直した考え方では問題は解決しない。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「しゅうちしん」(羞恥心)

Posted on 2008年8月4日

 羞恥心の意味さえ知らなかったこのグループの歌が大人気だ。世の中どうやら逆さになってきたらしい。それなら、野球やサッカーのチーム名は「カチシラーズ」とか「ヨワムシーズ」としたい。新内閣は「政治家目線内閣」とか。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:「文学教材」のこと

Posted on 2008年7月31日

 「英語教育」8月号(大修館書店)に、珍しく「教材論」の記事があった。「珍しく」と言ったのは、私は英語教育ではまともな教材論が存在しなかったのではないか、という印象をもっているからである。もちろん、無数といってもよいほど数の多い「論文」の中には、立派な教材論もあるのであろうが、浅学でその例を知らない。したがって、この雑誌の「英語教育—研究と実践」のようなページは有難い。この号では、2つの論文が紹介されている。大学と短大レベルにおける「文学教材」の使用とその効果についての論考で、紹介者は上田明子氏である。
 まず初めに、私が疑問に思うのは、いわゆる「英文科」出身の英語教師がだんだん少なくなっていく現状で、「文学教材」とか「英米の文学作品」といった言葉で、どの程度共通の認識が持てるかということである。昔は出身大学が違っても、英語教師であれば、「エッセーはだれだれ」とか「短編小説はだれだれ」といった共通点が少なくなかった。コミュニケーション重視の英語教育のなかでは、「ビジネス英語」の存在が大きくなっている。経済や経営を専攻した英語教員には、共通理解をもつのは困難ではないであろうが、逆に英文科出身者には、新聞英語(時事英語)などには関心があっても、商売上の取引の英語などはほとんど縁がない。私は、英語教師の背景が多様化することは、生徒、学生にとっても悪いことではないが、全体的な視野から構成したカリキュラムがないと、学習者の混乱を招くであろうと心配する。以前から大学の「一般英語」の授業では、あるクラスはシェークスピア、隣のクラスは英字新聞、また別のクラスは会話教材と内容も、評価基準もばらばらだったことがある。
 上記論文では、ある期間の指導の後のアンケート結果も紹介されているが、ほぼ80% 以上が「文学教材」の使用を支持している。ただし、回答者が10名と極端に少ない。本当は、1年後に自分で選んだ文学作品を自力で読んだといった結果がないと効果的とは言えないであろう。
(浅 野 博)