「『英語教育誌』誌(大修館書店)批評」(その22)(英語教師のためのおすすめ本100冊+(プラス))
(1)「英語教育」誌2015年8月号の特集①は、「英語教師のためのおすすめ本100冊」です。私が中学校に勤めていた40年ほど前は、同じ学校の先輩や同僚から、「この本面白いから読んだほうがいいよ」といったことをよく言われたものです。
(2)今日では、「同僚同士でも、あまり話し合いたがらない」といったことを耳にしますから、「英語教育」誌で、わざわざ特集を組んだのかと、勘ぐりたくなりますが、雑誌の特集でも、それを題材に、“話し合いをする”ならば、結構なことだと思います。
(3)今回の特集では、最初に「現場でシェアしたい教育書」と題する座談会を掲載しています。「誌上大放談」とも題していますが、それほど大袈裟なものではないと思います。 その座談会では、ある発言者が、若林俊輔先生に大きな影響を受けたことを述べています。私は、若林氏とは、よく酒を飲みながら議論をした仲なので、彼が話題になると、どうしても主観的になりがちです。
(4)若林氏の指摘はなかなか鋭くて、影響を受けた教え子も少なくないであろうことはよく分かります。ただし、私は彼と全て同意見だったのではなく、教材内容については、意見を異にする点が多くありました。
(5)教え子としては、強烈な個性のある恩師を超えることは難しいでしょうが、1つの見解だけを同僚などに伝えるのではなく、もっと視野の広い見方も伝えるべきだと私は思います。故人になられた若林氏は、もう反論は出来ないのですから、ここではこれ以上論じることは止めますが、“教え子”としては、恩師の教えたことだけを伝えるのではなく、それぞれ異なった教師の特徴を仲間に伝えるように努力すべきだと私は考えます。
(6)この特集には、「心が疲れたときに読みたい本―生徒や自分の心を感じてみる」という内田 利広氏(京都教育大)の一文があります。この題名は私にはよく分かりません。「どうして心が疲れたとき」なのでしょうか?心が疲れているときは、あまり良い考えは浮かばないと思いますが。「やる気のない生徒の気持ちを推測してみよう」と言うほうがずっと分かりやすいのではないでしょうか?
(6)次に江藤 裕之(東北大)の「英語の知識をさらに深める本―「さすが先生」と思わせるプロの秘密の道具」という長い題の文があります。要するに、「語源のことなど英語の文化史に関わる知識を生徒に話してやること」を述べているのですが、この場合も、「生徒の実力をよく考えて、必要に応じて」という注意が必要でしょう。「先生はこんなことを知っているのだぞ」といった態度では、生徒はついて来ないでしょう。そういう配慮にも言及して欲しかったと思います。
(7)その他の記事としては、タイトルだけを示しますが、私としては、同意出来る点も出来ない点もあります。「教師の英語力アップに役立つ本」「英語力アップ」のような日本語を多用する教師を私はあまり信用しません。他には、「異文化理解・背景的知識を補強する定番書―教室の外につながる10冊」という長い題の文章もあります。「定番」と言うと、「いや私は別の本を推したい」という意見も出ることでしょう。
(8)「生徒に多読をススメたい!本コンシェルジェのテクニック」というのもありますが、用語の使い方から見ても、一人よがりの傾向が感じられます。最近の日本語の乱れは、ひどいものがあって、拙宅のマンションでも、女性事務職員のことを「コンシェルジュ」と呼んでいます。中学生や高校生に、何語か分からない言語をやたらと多用することは慎みたいと思うのは、私だけでしょうか?
(9)本号の第2特集は、「小学校での音と文字の指導を考える」です。小学校での英語教育については、これまでも、いろいろな議論がなされてきました。私としては、反対論のほうに軍配をあげたくなるのですが、いずれにしても、あせらずに十分な時間をかける姿勢が大切だと思います。A,B,Cが書けても、発音が、エ―や、シーになるのでは、意味がありません。あせらずに、ゆっくりと、時間をかける方針を強調して欲しいと思います。
(この号終わり)
「『英語教育誌』誌(大修館書店)批評」(その21)(小学校『外国語活動』発!授業作りへのヒント)
(1)『英語教育』(大修館書店)2015年7月号の「特集1」は、表記のようになっています。私はこれを見て、「順番が逆ではないのか」と不思議に思いました。長い歴史と伝統のある“中学校の英語教育”が、うやむやのうちに始まってしまった『小学校の外国語活動』から、「ヒントを学べ」というのは、私には納得出来ないからです。
(2)“異言語の学習”という難題を考える場合に、中学校の英語教育を軽視してはならない、と私は思うのです。異言語の学習に関して、一般の人たちが考えそうなことは、「英語の学習はなるべく早く始めたほうが良い」ということでしょうが、日本人が日本語の環境の中で、異言語を習得するのは、そう簡単なことではないはずです。
(3)そのような問題はともかくとして、まず7月号の特集記事を読んでみることにします。最初の記事は、粕谷 恭子「その先の小学校英語教育のために:いま『外国語活動』でできること」ですが、私にはよく分からないタイトルです。いつ小学校の『外国語活動』が、“英語教育”になったのでしょうか?粕谷氏は、小学校の英語が教科化されたことを前提として話を進めていますが、それで良いのでしょうか?
(4)たまたま、私の手元に政府・自民党寄りとされる『産経新聞』(平成27年7月4日朝刊)があります。トップ記事は「学習指導要領解説書の在り方」で、「道徳教科書対立意見を併記―国の定義『歴史共同体』」と報じています。しかし、“道徳の教科化”は「3年後の平成30年度以降」としています。どんな科目にしろ“教科化”は簡単に出来るものではないのです。その理由を述べることは、ここでは割愛いたしますが、特集記事についてはは、失礼ながら寸評を加える程度に留めさせて頂きます。
(5)久埜 百合(元中部学院大客員教授)「子どもの学びの姿に寄り添う授業つくり」。特に英語の“音”についての留意点を述べているのは良いことだと思いますが、これはどの段階でも必要なことです。英語の学習について思い出を語る機会があると、多くの日本人は、無理に暗記させられた“文法用語”や、“単語数”のことを思い出すようで、発音に関する印象はとても弱いのです。“発音のことは印象に残るほど強く教えられていない”と推測出来ます。
(6)Paul Inker(湘南白百合学園小)「身の回りの話題で教材作り」。写真入りで分かりやすい記事ですが、多忙な教師がどこまでこのような実践が出来るか疑問に思います。試みる価値はあるでしょうが、学期末や学年末には成績をつけるとなると、小学生の頃から“英語嫌い”を生み出してしまわないか、と私は心配になります。小学生から英語を教えるのは、条件の恵まれた一部の私立学校ならば可能だと思いますが、憲法の保証する平等の権利のことを問題にする人も出てくるでしょう。日本では、“エリート教育”には、抵抗がとても強いのです。
(7)有友 敬子(岡山市立石井小)「表現の楽しさを共に創る授業づくりと評価」。“桃太郎”のように、どの生徒の知っている話を素材にして、その役を演じさせる方法は、特に低学年には有効だろうと思います(この学校のある岡山は特に“桃太郎”とは縁が深いとのことです)。しかし、“ループリック表”とか、“ループリック評価”のような、多くの英語教師が知らないと思われる用語については、もっと丁寧な解説が必要だと思います。
(8)田中 真理(佐倉市立根郷小)「身体で英語を楽しむ 特別支援学級での外国語活動」。何らかの“発達障害”を持つ生徒たちへの英語教育の実践報告です。こういう記事は、「特集」ではなくても、より多くのページを使って、分かりやすく解説する必要があると思います。私は、英語学習が不得意な学生の多い、理工系の学生を教えたことがありますが、リズム感のある“ジャズチャンツ”のような教材を使って効果をあげている同僚から多くのことを教わりました。この記事にも教材については言及がありますが、もう少し丁寧な説明が必要でしょう。
(9)鬼丸 晴美(明星中学・高校)「多聴多読による言語活動の活性化」。英語をたくさん聴かせる、読ませるための実践に何が必要かを解説した記事です。各種助成金の獲得方法も述べてありますから、「やってみよう」とする学校にはとても参考になるでしょう。私としては更に一歩突っ込んで、その際の問題点を論じて欲しかったと思いました。
(10)畑江 美佳(鳴門教育大)「小学校でどのように文字を導入するか:Hi, friends!の補助教材から考える」。幼い生徒が、母音、子音など、日本語と違う音声をいかに聴き分け、発音出来るようになるかについて、実証的に論じているもので、その意図と方法については同意出来ます。ただし、(9)の場合と同じように、どこまで実践が可能かについては疑問が残ります。終りのほうで、「バランスト・アプローチ」といった表記がありますが、カタカナ書きだけではなく、英語(balanced approach)を併記すべきでしょう。
(11)特別寄稿として、小林 万里子(文科省初等中等教育局国際教育課長)「文部科学省による小学校英語教育への支援策について」という記事があります。文科省が、「小学校の英語教育」と述べているのですから、私が最初の方で表明した疑念は吹き飛ばされてしまいました。反対論が多くても、一切無視して、粛々と、“小学校英語教育”を推し進める姿勢は、安倍政権のやり方と同じです
(12)本号の第2特集は、「アクティブ・ラーニングに向けて:論理的思考力を育む英語指導」です。“アクティブ・ラーニング”については、文科省の用語集に解説されているそうですが、重要な用語を次々と自作して、「英語教育はこのように実践せよ」という姿勢は、やはり安倍政権方法に似ています。こういう重い特集を2つ続ける意図が私には分かりません。私は、「高度な英語指導の技術論はするな」という言意味ではなく、重たい記事は各号に分散して掲載したほうが読みやすくなる、と言いたいのです。(この回終り)
「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その20)(“タスク”入門)
(1)『英語教育』誌の2015年6月号、最初の特集は、「日々の授業に活かせる『タスク』入門」です。“タスク”という用語は、英語教員であればよく耳にすると思いますが、いざ、定義をしようとすると戸惑う人も少なくないでしょう。したがって、「まず入門してみましょう」という誘いは適切なものと思います。
しかし、最初の記事、松村 昌紀(名城大)「そもそもタスクとは何か、タスクの活用によって何が期待できるのか」を読んで、私には「タスクとは何か」ということがよく分からなくなりました。「それはお前の勉強不足のせいだ」と言われればそれまでですが、次のような文章は私にはとても理解困難です。
(2)「現代の外国語教育の文脈において『タスク』という言葉は、その訳語である『課題』という語が通常持つより狭い意味で用いられています。タスクとは、比較、順位づけ、合意に到る交渉など、私たちが日常言語を用いながら行っているのと同質の作業を、生徒たちに英語(より一般的には目標言語)を使って行うよう促すもので、さらに次のような条件を(すべて)満たすものです(“3つの条件”は割愛させて頂きます)。
(3)結局、松村氏の主張は、「実際的な英語運用能力をつけさせる必要がある」ということではないでしょうか?それなら、『タスク』という用語などと関係なく、これまでも、度々議論されてきたことです。“特集”の意図に固執しているので分かりにくい文章になっていると思います。そして、ここでは“英語教育”に限定して論じるべきでしょう。“外国語教育”にまで枠を拡げてしまうと、フランス語やドイツ語の教員が読もうとしても、失望するだけだと思います。
(4)私は現役の時代には、“課題”という日本語の問題として考えてきました。
『明鏡国語辞典』によれば、「課題」とは、「解決しなければならない問題」とあります。特に難解な用語ではありません。例えば、高校2年生に、「今日は“現在完了”について少し学んだけれども、良く分からなかったという人は何人くらいいるかな?」と問いかけると、7人くらいが手を挙げたとします。そして、「説明の仕方のどこが悪かったのだろうか?」と反省をして、次の授業での改善策を考えます。「英語教育」誌は、学会などの紀要論文集ではないのですから、日頃授業で行っていることを難しく表現する必要はないと思います。
(5)2番目の記事は、島田 勝正(桃山学院大)「教科書本文をタスク化する」ですが、私には“タスク化する”という意味が良く分かりませんでした。鹿田氏は、「コミュニケーション重視の英語教育の背景に、タスクを用いた指導法が脚光を浴びています」と書き出していますから、「実用的な英語力をつけるには、教科書をタスク化する必要がある」という主張のようで、私には、やはりよく分かりませんでした。
(6)小川 知恵(立教大)「タスクの効果的な設計とは?」は、小見出しの1つに、「相互交流を活発にさせたい場合」を挙げていますが、クラスの生徒を幾つかのグループに分けて、生徒同士で問答をさせるような指導をしている教員は少なくないと思います。その際に“タスク”のことなどあまり意識していないでも、上手く活発化させている例を私はよく見てきました。“タスク”を意識するあまりに、視野を狭くする必要はないと思います。
(7)赤池 秀代(文教大(非常勤))「教室で行うタスクを選ぶコツ」は、幾つかのクラス内の活動の例を示して、親切に書いてある記事ですが、内容は上記(7)で指摘したようなことで、新鮮さは感じられません。そうなると、今回の記事のほとんどは、編集部の意向に沿うように執筆者が苦労をしているだけで、新しい指導法の紹介とは言えない気がします。
(8)最後の2編は、「小学校の外国語活動」と、「評価も問題」を扱ったもので、これまでも繰り返し論じてきたことです。そして、まだ問題は山積しているのに、“タスク”のことなどを含ませたならば、指導現場は混乱するだけでしょう。編集部は英語教育の実施上、どういう問題が残されているのかを整理されて、「特集」を組まれることを要望したいと思います。本誌には、特集記事以外にも、すぐに役に立つ記事が沢山あるのですからなおさらです。 (この回終り)
日本語における「主語省略」の問題(5)
●(2)日本文学英訳における勘違いを検討する日本文学の小説とその英訳をいろいろと見ていて、ときどき省略されている主語が英訳では誤訳されていることに気がついた。
そこで、太宰治の『斜陽』とドナルド・キーン氏による英訳を取り上げて、その前半の5章について、原作と英訳とを突き合わせてみた。その結果、10数か所、英語の代名詞にして30数個の誤訳を見つけた。
「お母さま、おいでになる?」と私がたずねると、 「だって、お願いしていたんだもの」ととてもたまらなく 淋しそうに笑っておっしゃった。
“Are you going, Mother” I asked.“I must,” she said, smiling in an almost unbearably pathetic way. “He asked me to.”
適当な家をさがしてと頼んでおいたら、家が見つかったと言ってきた。だから「[私が]お願いしていたんだもの」で、英訳の最後は、 He asked me to. → I asked him to.とならなければならない。
当初私は、省略の補いは文脈(コンテキスト、意味の前後関係)によってなされると考えた。じっくり読めば、読解力によって省略はわかるはずだと考えた。しかし、ドナルド・キーンさんほどの当代一流の翻訳者がどうしてわからないのだろうと、この点がどうしても解決がつかなかった。
何年かが過ぎて、述語(動詞+助動詞・助詞)が力を貸していることに気がついた。
a) [私が]お願いしていたんだもの。
b) [あちらさんが]お願いしてきたんだもの。
c) [私は]出かけた。
d) [あなたは]お出かけになる?
e) [彼は]お出かけになった。
このように述語を見れば、主語は1人称か2人称かの区別がつくことが多い。これが前後の意味関係を大いに助けているのだろう。
さらにもう1例見てみると。
「かず子がっかり。だってお母さまはいつだったか、かず子は頸すじが白く綺麗だから、なるべく頸すじを隠さないようにっておっしゃったじゃないの」「そんなことだけは覚えているのね」「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覚えていたほうが、たのしいもの」
“I’m disappointed. Didn’t you once tell me that my neckline was so pretty that I should try not to hide it? Didn’t you?”“Yes, I seem to remember something of the sort.”“I never forget a syllable of praise addressed to me. I’m so glad you remembered.”
「そんなことだけは覚えているのね」は[あなたは]となるので、“I”は“you”にしなければならない。
f) [あなたは]そんなことだけは覚えているのね。
g) [私は]そんなことだけは覚えているのね。
述語の使い方としてf)がふつうだが、g)もダメだとは言い切れない。しかし、どちらにするかは文脈、前後関係ですぐにわかるはず。こんなやさしいのをどうして間違えたんだろうと思う。
「覚えていたほうが、楽しいもの」も[私]のことであって、“you remembered”とはどうしてもならない。“you”とするためには、
h) [あなたが]覚えていてくれたほうが、[私は]楽しいもの。
となって、述語が変わってこよう。ここも、こんなやさしいのを間違えるとは驚きだ。
(つづく)
「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その19)(生徒のやる気にスイッチ!)
(1)本号の「特集1」は、「生徒のやる気にスイッチ!動機づけ研究の成果から」となっています。“動機づけ”は、かなり以前からよく話題になった問題点だと思います。しかし、いきなり学問研究の視点から説かれても、戸惑う教員は少なくないと心配します。
(2)子どもから大人までよく読まれている“ドラえもん”の漫画のことを私は思い出しました。何か困ったことになると、すぐにドラえもんを頼りにする男の子のび太が主人公ですが、作者の藤子・F.・不二雄氏は、この作品に大きな教育問題を含めて、提起していると私は考えきました。
(3)のび太はどうして自分で問題解決をするという“やる気”を起こさないのでしょうか。いつも母親から、「部屋をかたづけなさい」とか、「宿題をやりなさ」と叱られています。この点は、“サザエサン”のカツオにも共通点があります。“やる気を起こさせる”のは、とても難しいことなのだと思います。
(4)最初の記事は、八島 智子(関西大)「SLA 理論から見る動機づけのメカニズム」ですが、学術論文としては価値のあるものでしょうが、前号でも書きましたように、本誌の性格や使命から言って、相応しい記事とは思えませんでした。日頃、英語教員が感じている問題点とは大きな差があるように感じられるからです。
(5)次の大塚 謙二(北海道壮瞥町立壮瞥中学)は、「小さな成功体験が教師と生徒のやる気スイッチを押す」という題ですが、「教師もやる気が無い場合」を前提にしているのでしょうか?教師に教える気が無ければ、生徒が乗ってくれるはずがあません。その逆も、いつも真とは限りません。一生懸命に教えても、生徒が乗ってこないことはよくあることです。生徒の小さな成功をほめてやることは、実践している教員も多いと思います。もう少し理屈の通った分かりやすい記事にしてもらいと思いました。
(6)次は久しぶりの英文記事です。Ema Ushioda, Motivation in the English Classroom: Global and local perspectives
まずこの記事から学ぶべきことは、視点の広さと的確さです。日常の生徒の問題でも、国際的な視点と結びつけて論じています。“教室の動機づけ”について、“その教室の教師を強力な主体者”(local agent)と位置づけています。説得力のある記事だと思いました。
(7)その他の9点の記事は、実践記録などとしては価値のあるものと思いますが、いずれも、「特集の“動機づけ”にこだわり過ぎている気がしました。もっと日頃の考えや実践を自由に書かれたほうが、特徴のある記事になったであろうと残念に思いました。編集部にもこのような点を再考されるよう要望させて頂きます。
(8)「特集の2」は、「授業見学のポイント」で、前号の続きになっています。私は、むしろこちらを「特集1」にしたほうが、読みやすくなったように思いす。研究会などで、他の教員の授業を見学する機会はよくありますし、部分的にでもすぐに真似して、実践出来るのです。本号には、そういう意味で参考になる記事もたくさんありますので、読者の方々には、「特集」ばかりでなく、全体によく目を通してくださることを期待いたします。(この回終り)