言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野式辞典:「びんじょうねあげ」(便乗値上げ)

Posted on 2008年5月12日

 首相は「ガソリンの便乗値上げを監視するように指示した」と能天気なことを言ったが、ちなみに中学生にこの意味を尋ねてみた。その傑作2つ。
A:有料トイレの値上げのことだよ。
B:大勢で乗るからタクシーの運転手が悲鳴をあげること。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:「おばかタレント」考

Posted on 2008年5月8日

 「おばかタレント」(“ばかキャラ)がどこの民放でも引っ張りだこだ。「面白くなければテレビでない」とばかり、テレビは何でもお笑いにしてしまう。何かの能力がないことを笑いの対象にすれば、社会的な批判を受けるはずだが、彼らはむしろ大変な人気者だ。「芝居や歌などに努力しているし、バカではない」とか「学校の成績が悪くて沈んでいる人たちには励みになる」といったコメントをする人もいるが、私はそのまま同意する気にはなれない。
 放送向きの人材は、何千倍という競争の中から選ばれているので、少数の成功者がお手本になると考えるのは安易すぎる。スポーツでもそうだが、成功には懸命な努力が前提にあるはずで、結果的には“幸運”もあろう。誰もが簡単に真似できるものではないはずだ。
 教師として「おばかタレント」を観察すると、興味深いことも見つかる。それは、“思考方法の違い”という点だ。そういう意味では彼らは“変わり者”である。例えば、算数の問題を解く場合に、彼らは足し算、引き算まではともかく、割り算になるととても迷う。その結果、常人とは違う発想で答えを出そうとする。加減は具体的に説明しやすいが、乗除はそうはいかない。ましてや分数の乗除はわかりにくい。英語学習では、「3単現の (e)s」が越えるべき峠となる。多くの生徒は「わからない」と思ってしまう。教師の工夫のしどころだ。
 「おばかタレント」は、記憶力、判断力が劣っているわけではない。これらは生きるためには重要だから、彼らは「生きる力」はあるのだが、基礎力がないのだ。NHK では進化論のダーウィンのことを放送していたが、彼は学校の勉強よりも虫を追いかけ観察することが大好きだったという。つまり“変わり者”だったのだ。家庭が裕福だったということも無視できないが、どこかで読み書きの基礎力はつけていたはずだ。“変わり者”は嫌われることが多いが、排除はできない。教育というものは、結果だけでなく、過程も大事だということを忘れずにいたい。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「みなしひけつ」(みなし否決)

Posted on 2008年5月2日

 「みなし」は典型的なお役所、政治用語の1つだ。「まだ現役ですが65歳で“みなし退職”ということで、年金を支給します」などは許せる。ところが学生は「みなし合格」とか「みなし卒業」が流行るのではないかと期待している。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:「保守」ということ

Posted on 2008年5月1日

 この言葉は「保守党」など政治に関することでなじみが深いが、原義は「伝統的なものを重んじて、考え方、やり方などをあまり変えないこと」で、反意語は「革新」である。「保守的な英語教師」とは、訳読式にこだわり、古い英語でも受験に必要だと十年一日のごとく教えているタイプであろう。では「革新的な英語教師」はどうであろうか。今は組合的な発想はあまり受けないので、明確なイメージが浮かびにくい。言語学や英語学の分野では、外国の新しい理論をさも自分の見解のように紹介するだけで得意になっている“進歩的な学者”が少なくない。それに追随してやたらと新しいしい指導法を説く教師もいないではないが、教室では実践を要求されるから化けの皮がはげやすい。
 教育では1つの効果的な指導法の存在は、理論的にはあり得ても、実践上では極めて難しい。実施上の環境や条件が違えば効果がないからだ。したがって、昔から「折衷法」という教え方が提唱されていた。これは19世紀末頃、ヨーロッパで「訳読式」と音声重視の「直接法」を折衷させる方法だったが、日本では、戦後のめまぐるしい指導法の変化の中で、それぞれの方法の長所を生かすような「折衷法」を工夫してきた教師が少なくないと信じたい。
 そもそも学校教育という営みは、本来“保守的な”ものだと私は考えている。教育の目的の1つに「知識の伝達」というものがある。その「知識」の大部分は「道徳」も含めて「伝統的なもの」だ。敗戦後は「教える」という「教師中心」の考え方から、「生徒中心」へという視点の移動は大きな転換であった。革新的と言えないことはないが、ヨーロッパにはルソー(1712−’78) やペスタロッチ(1746−1827)などの先達がいて、幾多の考え方の変遷を経験している。これも1つの伝統であろう。英語教師であれば、簡単に「保守的」とか「革新的」といった言葉に左右されず、じっくりと生徒と向かい合って適切な方法を実践していくことが望ましいのだ。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「わからない」と言うこと

Posted on 2008年4月22日

 私が小学5年生のときは日米開戦の直前だったが、まだ学校には自由な雰囲気があった(先生の個性にもよることはずっと後でわかったが)。ある時「今日は先生が答えるから、何でも質問しなさい」と言われた。生徒の勝手な質問に先生が簡潔に次々と答えられるので、「先生って偉いんだなあ」と感心した。「おならはなぜ出るんですか」といった質問もあって、先生は説明のあと、「おならは他人には迷惑だが、身体のためにはしたほうがいいんだよ」と言われたのが印象に残っている。教室には笑い声も起こって、先生との距離がさらに近づいた感じがした。
 生徒の年齢にもよるが、先生も時には「先生もわからない」と正直に言ったほうがよい場合がある。例えば、「目的語は動詞の動作を受けるもの」と言われたって、break やeat の場合はわかるような気がするが、see the moonと look at the moonの違いになると説明しにくい。生徒には、「先生もよくわからない。我慢して英語を読んだり聞いたりしていくと、もう少しわかるようになるから」と言ったほうがよいだろう。
 ところで、福田首相は国会で「野党の言われることはよくわからない。私はかわいそうなくらい努力しているんですよ」といった趣旨の発言をした。これは戴けない。野党が政府のすることを批判したり、法案に反対したりするのは当たり前のことだ。「わからない」とぼやく暇があったら、「自分はこういう考えでこう提案する」と自分の意図を説明すべきだ。その結果は選挙や世論調査で明らかになる。首相のぼやきばかりを繰り返し放送する民放テレビも同罪だ。
 官房長官の発言もよくわからない。名古屋高裁の「自衛隊のイラク派遣は違憲」という判決に、「政府は考え方が違いますから」と無視する姿勢だった。ところが「聖火リレーでは中国からの警備員は断る。わが国は法治国家ですから」とも言う。こういう状態では、国民は無関心や批判から独裁者待望へと変化する恐れが多分にあると思う。
(浅 野 博)