言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「スカウト」のこと

Posted on 2008年4月14日

 用語としては、英語のscout のカタカナ語だが、昔はもっぱらプロ野球で使われていた。高校野球や大学野球の試合を見て、「有望な選手を見つけること」、または「それを専門にする人」のことである。その後、芸能界などの新人を発掘することも盛んになった。この意味では talent scout が使われることもある。
 グラビアアイドルはともかく、ドラマのヒロインなどは、一目見ただけでスカウトできるものであろうか。この3月で終わったNHK のテレビ小説「ちりとてちん」のヒロイン貫地谷しほりは、東京の新宿駅でスカウトされたということだが、女性落語家としての成長が演技の向上と重なって結構楽しませてくれた。タレントスカウトは、何百人、何千人という候補の中から成功するのは一人くらいだから、確率は非常に低いのだが、教師は生徒の将来性をどのくらい予見できるものであろうか。前に述べたことがあるが、教師はどうしても学校の成績で人物を見る傾向があるから、多様な才能を見出すことは得意ではない。また生徒の年齢にもよるように思う。高校生の場合より、中学生の将来を予測することは難しい。卒業して、30年も40年も経ってクラス会などで会ってみると、若い頃の面影はあっても、あの生徒とがそんな立派な仕事をしているのかと驚くことがある。ということは自分の先見の明のなさを嘆くことにもなるわけだが。
 テレビは人材の宝庫であるばかりでなく、使い捨ての場所でもある。視聴率の取れるタレントは引っ張り凧になる。ドラマに、トーク番組に、クイズにと使いまわす。いつ消えるかとうい危機感も笑いにして引き伸ばす。でも、いったんお払い箱になるとどこの局も使わない。学校の教師から見るとうらやましい状況だ。公立学校、特に義務教育段階では、生徒を退学させることはできない。なんとか指導して卒業させなければならない。「この先どういう人間になるか」といった予測などもしていられない。とにかく目の前の処置に追われてしまう。教育問題の根は深い。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「いっぱんざいげんか」(一般財源化)

Posted on 2008年4月10日

ある高校生のぼやき:うちじゃ親父の小遣いは特定財源なんだよね。月給から自分で天引きしているんだ。おれの小遣いは家計と一緒の一般財源だから、母ちゃんが買い物しすぎると減らされてしまう。親父の小遣いも一般財源化してもらわないと不公平だよ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:「テレビ」が怖い

Posted on 2008年4月8日

 これは落語の「饅頭怖い」と同じではない。本当に「怖い」ということを言いたい。少年の凶悪犯罪が起こると、その原因の1つはテレビゲームにあるとよく指摘される。つまり仮想の世界と現実の区別がつかないのだと言われる。しかし、なぜ区別がつかなくなるのかはよくわからない。人間の心理は複雑怪奇で、まだまだ解明できないことが多い。
 それをよいことに、テレビは勝手な映像を送り出す。悪影響があるという批判があっても、絶対的な因果関係の証明ができないから、「私たちの意図のように受け止めていただければ悪い影響はない」という言い訳が通ってしまう。それにテレビには「言論の自由」という錦の御旗があるから、攻めるほうも攻めづらい。しかし、報道番組でもその局独自の取材というのはごく少なくて、新聞や雑誌の記事の紹介がかなりの部分を占めている。そして、局で自作の“テロップ” には漢字や内容に誤りがよくある。キャスターがあわてて訂正をしたりするが、お粗末な話だ。しかも、使わなくてもいい英語を使ったりして間違えている。ドラマのタイトルや番組名もずいぶんといいかげんだ。だれにでも間違いはあるが、どうやってそれを防ぐかは経営者の態度次第だ。伝統的に、新聞は誤植が極めて少ない。それは、専門の校正係りがいて、よく見張っているからであろう。そうした校正者の苦労話や疑問をまとめたのが、毎日新聞校閲部編『新聞に見る日本語の大疑問』(東京書籍、1999)である。テレビのディレクターたちもこういう本をもっと読んで日本語を勉強してもらいたい。
 民放に視聴率を気にするなといっても無理なら、NHK に期待せざるを得ない。しかし、その予算や決算の政治家による審議を深夜放送で視聴すると、なんともじれったい。いっそのこと、NHK の予算は全額税金から出して、政府や政治家とは関係のない第三者の審議会で監査をしたらよいと思う。このような放送制度の抜本的な改善方法が議論されるべきだと思う。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「タスポ」(taspo)

Posted on 2008年4月2日

高校生A:やばいよ。タスポなんていうのができたぞ。
高校生B:なんだい、それ? 新しいメキシコ料理か?
高校生A:違うよ。このカード(タバコ・パスポート)がないと自販機でタバコが買えないんだ。
高校生C:うちは大丈夫だ。親父が甘いから、おれも使えるよ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:「基礎・基本」の考え方(その2)

Posted on 2008年4月1日

 基礎的な訓練が不足している1つの理由に「時間が足りない」を挙げたが、もちろんこの他にもいくつか考えられる。週5時間以上教えているクラスでもずいぶん時間を無駄にしている場合もある。その1つはALTなどとのコミュニケーション活動をしている場面である。例えば、好きなスポーツについて話し合っている場面で、「発音を間違った」とか「そこは文法的に正しくない。こう言いなさい」などと注意をし、練習をさせたりしたら、活動が中断されてしまう。したがって、そういう活動の場面では「矯正や練習はしない」ことになる。こういう方針には裏づけがあって、例えば、クラッシェンなどが説くナチュラル・アプローチでは、教師の役割として、「学習者に発話する準備ができるまで発話を強要しない、学習者のエラーを訂正しない」といった注意をしている(リチャーズ&ロジャーズ著/ アルジェイミー&高見澤監訳『世界の言語教授・指導法』(東京書籍、2007)p.234)。しかし、こういうところだけを日本の一般的な中学校の環境で応用しようとすることには無理がある。
 一人または1つのグループがクラスの前で活動をしているときは、他の生徒はそれを見たり聞いたりしている。意欲のある生徒ほど、「あの発音は間違いではないかな」とか「複数形の s を付けていない」のように発表者の英語に注意を向けている。その疑問に応えてやることも必要である。活動が一段落したところでは、総合的なコメントをして、「box の複数形はどうなるかな。みんなで言ってみよう」のように細かいところにも注意を払いたい。1分か2分くらいかければよいのだ。
 もう1つの問題は、基礎的な訓練はすぐに飽きられてしまうことであろう。英語学習では、同じような訓練を1時間も2時間も続けたら、飽きるのは当然で、上に述べたように、言語活動の中で、少しずつ触れながら継続すれば、進歩も自覚でき、基礎訓練の重要性も認識されるようになるであろう。
(浅 野 博)