言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「<安・楽・簡>の学習法」のこと

Posted on 2009年4月3日

 前回、“かんたん”のことを書いたときに、英語教育でもそんな言い方をしていたのではないかという記憶があったので、調べてみた。「英語教育」誌(大修館書店)の2004年8月号の特集が「<安・楽・簡>夏休み学習法」となっていて、英語教員を対象に、安く、楽に、簡単に英語を学ぶ方法を説いているものだった。そこには、携帯電話、電子辞書、パソコンなどの使用を勧めているものが多いので、やはりデジタル化と無縁ではないわけだ。
 冒頭の松本青也『安くて楽しく簡単な英語学習法』は、あまり賛成できない。私は松本氏の英語文化論には敬意を表しているが、ここでは、「楽」を「楽しい」としており、英語が話せないのは Input ばかりで、Output のレベルが極めて低いからだとしている。そして、「対策はただひとつ、Input された情報をすぐに Output してみることだ」と述べている ( p.9 )。そのためには、利用できるインターネットの様々なプログラムやメールがあるではないか、というわけだが、ここでまたデジタル化にぶつかる。英語教員は機器の使用には、得手、不得手の差が大きく、得意でない者には決して「楽な方法」ではないであろう。母語の習得を見ても、Output ができるまでの Input の期間は長く、その量もとても大きい。教科書の予習程度で、 Input の量がほとんどない者が、Output がうまくいくはずがない。
 どうもデジタル機器に強い教員には、「こんな簡単なことはだれにもできるはず」という思い込みがあるようで、前回も指摘したように、この態度は指導される生徒にも悪影響を与える場合があると思う。外国語の学習は、どこかで「苦しい努力」を乗り越えなければ、「楽しいもの」にはならないことも教えるべきだ。情報化時代だから、確かに安い情報が周囲にあふれていて、それを利用することは、教師の義務とも言えるだろう。しかし、それならば、教員養成の方法から考え直す必要があるわけで、現状のままで、「デジタル機器を活用すべし」という結論だけを押しつけるのは効果的でないということを強調しておきたい。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「きんけんせいじか」(金権政治家)

Posted on 2009年3月30日

「欽ちゃん塾」出身の政治家たちのことで、「良い子、悪い子、普通の子」のように、「良い政治家、悪い政治家、普通の政治家」に大別される。最近は「悪い政治家」が増えて、欽ちゃんも「困ったよう」と嘆いている。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:“ かんたん”ということ

Posted on 2009年3月26日

 今の世の中、すさまじい勢いでデジタル化が進んでいる。テレビ、録音・録画機器、携帯電話、パソコンなどは当然だが、こういうものは自分が使わなければデジタル化とは無縁でいられる。しかし、駅で乗車券を買うとか、銀行で自分の貯金を下ろすとなると無縁ではいられないことになる。多くの年寄りには(必ずしも年齢には関係ない場合もあるが)、これがとても厄介だ。知っている人に尋ねると、「そんなの“かんたん”ですよ」と言われてしまう。
 デジタル機器の広告ならば、わが社の製品は使いやすいですよ、という宣伝の意味で“かんたん”を使うのもわからないではないが、実際は“かんたん”でないことが多いのである。テレビだって、買えばすぐに映るものではない。人気グループのSMAP が、テレビのコマーシャルで、一人はテレビを買って困っている役を、別な一人が「そんな“かんたん”なことを知らないの?」といった態度を演じている。今までの常識が通じないのがデジタル化の世界だ。
 これを教育問題に転化して考えてみると、教師も“かんたん”と言ってしまうことがある。数学の教師が、複雑な数式を解いてみせて、「ほら、簡単だろう」などと言うと、わからない生徒は「自分はおバカさんではないか」と思ってしまうだろう。英語教師も、「こんな簡単な構文がわからないのか」と言ったりする。そのような教師は、今はやりの言い方をすれば、「“生徒の目線で”教える内容を見ていない」と言えるだろう。
 いつの時代でも、「知っている者」と「知らない者」との格差は存在した。しかし、前者が「知っていること」を後者に伝えることによって人類は成長してきた。現在は、デジタル化の知識は得たものの、礼儀作法といった常識を失って、そういう成長が止まってしまったと思わざるを得ない。私は学会活動として、語学ラボラトリー学会(LLA)および、それが改称した外国語教育メディア学会(LET)などに長年関係してきたから、デジタル化のすべてに反対しているわけではない。要は、人間の創り出したもの故に、そのことに対する人間的な姿勢が大事なのだと考えている。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:外国語学習開始の年齢のこと

Posted on 2009年3月19日

 「英語教育」(大修館書店)の2009年4月号の特集は「今年の授業開き〜生徒にこんな<ことば>を投げかけたい〜」である。各執筆者がその経験を生かして工夫をした、自分の生徒に投げかける<ことば>には、感心こそすれ、ケチをつける気はない。「『やる気』という木に『根気』という木を接木して、毎日『ナニクソ』という肥やしをやり続けるていると、勉強の木にいつか立派な実(=成果)がなります」(海木幸登氏、p.10)などは、思わず笑ってしまう。
 ただし、経験の浅い教員や英語教員志望の大学生などが、こういう実例を読んで、そっくりそのまま真似することは止めたほうがよいのは当然であろう。自分の生徒は他の生徒とは違うということを意識して、その生徒にふさわしい<ことば>を経験を積みながら考えていくことがことが大切なのだ。
 ところで、この号からピーター・ロビンソン教授(青山学院大)が、第2言語の習得について1年間連載されるとのこと。第1回は、学習開始年齢と外国語教育の成果の度合について、カナダの “immergion program” と”Barcelona Age Factor (BAF) project” の紹介をしている。前者は日本でも実践の記録があるが、やはり一般化するには特殊過ぎる。後者は、このことを取り上げた書物があるようだが、8歳の児童と 11歳の児童の比較では、週3時間の授業をして、聴解テストでは差がないものの、クローズ・テストでは、11歳児のほうが成績が良く、全体的により速く、より高い英語のレベルに到達したという。11歳くらいになると、8歳児よりは知的能力が高くなるので、特に「読むこと」の能力を要求されるクローズ・テストでは成績の良いのはむしろ当然であろう。母語のテストで、小学2年生が5年生より成績が良かったら、異常事態である。
 日本ではやたらと英語を早く学ばせようとする傾向があるが、せいぜい小学校の5,6年でよいのだ。しかしながら、年間で35時間の授業ではほとんど期待はできないのではないか。その点、文科省の管正隆氏の連載記事(小学校「外国語活動」発進!p.39)は問題意識が薄いように感じる。「外国語活動」と言うからには、他の言語でも、「英語ノート」に当たるものを作成しているのか?どういう外国語にどのくらい予算を割いているのか?こういうことを明確にしてから、「外国語活動」を語ってもらいたいと思う。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:オバマ大統領と麻生首相の英語

Posted on 2009年3月10日

 朝日新聞(3月3日)の「声」欄に「首相の危うい英語での会談」と題する投書が載っていた。投書者は67歳の無職の男性で、30年以上英語を教えた経験があるとのこと。論点は2つあって、① 平等であるべき外交の場で、相手の言葉でへらへらと挨拶をするのは、「矜持」がないということ、② 麻生首相がいくら英語が堪能でも、オバマ氏の百分の一、千分の一レベルなので、日本語さえ堪能でなく、海外では思いつきで話す傾向がある首相が何を話し合ったのか心配だというもの。
 私は① にも②にもに異論がある。まず英語で挨拶することだが、異言語の国へ行ったら、そこの言葉であいさつをすることは必ずしも“へつらい”とは思わない。儀礼的な心遣いだ。日本に来る俳優や歌手が、たどたどしい日本語で挨拶をすることがあるが、すべてが日本人にへつらっているわけではあるまい。昨年の日本人のノーベル賞授賞式では、司会者がわずかな部分だが、日本語を使っていた。たとえローマ字表記の棒読みだとしても、不快感をもった日本人がいたとは思えない。
 首相の英語は放送された部分で判断する限り、普通の中学生並みで、決して堪能などと言えたものではなかった。だからなおよかったと私は思う。警戒すべきは、彼の英語力ではなく、政治的、外交的な姿勢であろう。小泉元首相のように、日本では強気の姿勢で威勢のいいことを言っても、ブッシュの言うことにはすぐに賛成してしまう姿勢はそれこそ危うかった。麻生首相がホワイト・ハウスに招かれた最初の外国の首脳などと得意になっても、何ひとつ重要な結論を得た会談ではなかったと思う。
 オバマ大統領の演説が受けるのは、英語が母語であるばかりではない。複数のゴーストライターがいるようだが、日本の大臣のように官僚の作文をそのまま読んで答えるのとは違って、話す内容を自分のものにしている感じが強い。彼の経済政策や外交政策(特に対イスラエル問題)には弱点もあろう。しかし、何よりも大多数の国民の支持がある。国民の支持をほとんど失った麻生首相の問題を言葉の問題に矮小化してはならない。
(浅 野 博)