言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:異言語の習得は難しい

Posted on 2008年12月22日

 「コミュニケーション」に明け暮れしている英語教育界でも「やはり基本的な文法を教えなければダメだ」という声が強くなりつつあるようだ。もともと、大学受験を目指す“進学校“では、「これを覚えろ」式の文法・訳読式授業が主流で、学習者に“意欲”さえあれば、教え方はどうでもよいということを実証してきている(ただし、本当の英語力がついているかどうかは不明)。日本語を習う外国人にも同じようなことが言える。成功者の多くは、自分で努力しながら文法を真剣に学習しているはずだ。助詞の「は」と「が」の難しさはよく知られているが、動詞の変化も難しい。「行く」「行けば」「行け」などは、漢字で読めば日本人にはどうとうこともないが、これをローマ字で表記すると、”i-ku” “i-keba” “i-ke” となって、“i” だけが語幹で、後は全部変化するのだから、これを覚えるのは大変だということがわかる。それに加えて、やっかいな敬語や代名詞の問題がある。
 旧友の田崎清忠君の娘さんは、マイアミの大学で日本語を教えおられて、最近書かれた記事を読ませてもらったが、ある女子学生の期末試験の答案に小さなカードが添えられていて、そこには次のように書かれていたとのことで、その感想が書かれてあった:

 「せんせい、ありがとう。あなたはわたしのともだちです!アンデレスさん」あんなに「自分のな名前にはサンはつけないように!」と教えたのにつけているのでガックリ。でもこういうカードが一番うれしいものです。

 自分の名前に「さん」をつけてしまうのも問題だが、先生に「あなた」を使うのもよくある間違いだ。しかし、これはとても教えにくいことで、日本語の2人称の代名詞は種類が少なく、この場合は「先生」という名詞を代用しなければならない。このように成人が異言語を学ぶというのはとても難しいことで、かなりの個人的努力が要求されることをもっと一般の人たちにも知ってほしいと思う。こんなことを言うと、英語教師の不遜な態度と言われてしまうのであろうか。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:教員養成制度のこと

Posted on 2008年12月11日

 どのような教科でも、その教科の内容に関する理解力や知識が不足していたらうまく教えられないということは常識的にもわかることだ。英語教育の場合も、まず教師が「英語力があること」、それから、「教える技術」があること、という順番になる。ところで、斎藤兆史氏は次のように述べる。「…過去30年ほどの英語教育改革は、日本人が学校教育で思うように英語力が身に付かないのはもっぱら教え方が悪いせいであるとの間違った認識に基づいて進められてきた。そのため、英語教育関係者の関心が教授法に集中するようになった」(「英語教育時評」「英語教育」2008年10月号、大修館書店)。
 英語教師の傾向を厳密に指摘することは難しいが、私は中学校と高校では違いがあると考えている。中学の場合は、生徒の反応が教師の教え方1つですぐに違ってくるから教え方に関心を持たざるを得ない。もちろん高校生についても同じようなことが言えるが、どちらかと言うと、教師の知識や能力に影響されやすい。そこで、高校教師は語法研究とか教材研究のほうに力を入れる傾向があるのではないか。
 どちらにしても、“教師力”が強いとは言えない現状だ。元を糺せば教員養成制度の不備に帰せられる。どうして戦後 60年も超えているのに、整備、充実がなされないのか。1つには、戦後のアメリカ占領軍による「師範学校解体」のショックがあると思う。占領軍は「師範学校制度」を目の敵にした。「軍国主義の温床」とみなしたからである。小学校や中学学校の先生というのは、インテリであり、しかも上の命令には忠実に従うタイプだ。これが軍国主義のようなイデオロギーの普及に利用されたことは確かだ。戦後は逆に左翼思想に利用されて日教組などが強大になった。どちらにしても両極端はうまくない。現在は、無党派層の教員が多いとされるが、どうも安定はしていない。もっと教員養成の在り方を議論して明確にすべきだ。ところが自民党の有志議員による日教組に反対する会合などが開かれて、問題発言で辞めた国土交通省の前大臣も参加している。時代錯誤も甚だしい。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「さいばんいんせいど」(裁判員制度)

Posted on 2008年12月9日

 希望してもなれないが、選ばれても拒否されることがある厄介なもの。
「なるべきか、ならざるべきか、それが問題だ」とその昔ハムレットが悩んだのが始まり。違うの?「生きるべきか、死ぬべきか」だって?そうか、死刑の判決は迷うものね。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野式辞典:「みぞう」(未曾有)

Posted on 2008年12月4日

 首相が「みぞゆう」と読んだことで有名になった語句。そこで中学3年生に次の語句を読ませたら;
① 未曾有→みそあり ② 踏襲→ふみだい ③ 煩雑→らんぞう
[ この首相にして、この国民あり]

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:英語教育の効果を上げる方法とは?(その2)

Posted on 2008年11月26日

 今回は具体的に問題点を考えてみたい。例の文章は前回示したので、お手数でも前回のブログを参照願いたい。
 現行の中学校の指導要領で示している言語活動の「読むこと」ではまず(ア)文字や記号を識別し、正しく読むこと、とある。例の短い文章の中でも、「同格のカンマ」や「実例提示のコロン」、それに「best-known のような造語的ハイフン」が使われている。大学生でもこうした記号をよく知らない。したがって、この程度の教材でも、指導要領の示す目標を達成しようとすると、大変に時間がかかるのである。
 次に単語の問題がある。最初の ‘a master of abstract art’ の master を訳させると「主人」とか「マスター」ですませてしまう。辞書指導が十分でないと生徒は最初の訳語を当てるだけで満足しがちである。外来語(カタカナ語)の扱いは国語教育の指導の問題だが、これも十分ではない。master については、英英辞典が示す ‘someone who is very skilled at something’(何かが非常に巧みにできる人)といった「原義」をわからせておくと応用がきくであろうが、「原義」が応用できるためには、多くの実例に触れる必要があり、これも時間がかかるのである。
 一方、例に示したような教材については、「こんなわかりきった文章では生徒をひきつけられない。もっと感動を与えるような物語を教材にすべきだ」といった批判が聞かれる。だから私は日本の英語教育は欲張りすぎていると言うのである。「這えば立て、立てば歩めの親心」という言い伝えがあるが、英語教育では、よちよち歩きの生徒に、百メートル競走で記録を出せと言ってるようなものだ。もちろん中学生は赤ん坊ではない。だから知的発達に応じたことは母語でしっかり指導すべきだ。外国語習得の過程としては赤ん坊なのである。
 とても1回や2回で論じきれる問題ではないが、「外国語の習得には時間がかかること」「自学自習が必要なこと」を強調して終わりたい。
(浅 野 博)