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「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その7)(「新学年を迎える」と「英語外部試験」)

Posted on 2014年3月19日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年4月号の特集は、第1特集「新学期 まずは目の前の生徒を把握したい」と第2特集「英語外部試験の実態に迫る」の2編になっています。最初から表現の揚げ足を取るようですが、第1特集では、“新学期”ではなくて、“新学年”と言うべきでしょう。“新学年”>“新学期”の関係にあるのですから。

 

(2)第1特集の最初の記事は、静 哲人(大東文化大)「新学期・目の前の生徒の現状を理解するために」ですが、新学年を迎えた生徒を理解することが必要なことは分かります。ただし、「まず生徒に一斉の “read and look up” をやらせて、その音声を聞き、口元を観察するとよい」という趣旨の提案には首を傾げたくなりました。なぜ“一斉に”なのでしょうか?個々の生徒がどういうことを教わってきて、何が出来るのか、出来ないのかを知ることが大事だと私は思ったからです。静氏が細かい指導法を説けば説くほど、「自分の生徒の場合と違っている」と感じる教員は増えるのではないかと思いました。

 

(3)2番目の記事は、大鐘 雅勝(千葉市立花園中)「『自己紹介アンケート』で把握する」です。アンケートに答えてもらうのは1つの方法だとは思いますが、この記事のように、小学校の英語学習歴は、5年生からが26名、4年生からが1名、などと細かく報告されても、「そういう例もあるであろうが、私のクラスの場合は違う」ということになってしまえば、あまり役に立たない資料になってしまうのではないでしょうか?

 

(4)高校1年生の場合ならば、“When did you start learning English?” のように、英語そのものの復習を兼ねて、個々の生徒に尋ねてみる方法もあると私は思います。時間がかかり過ぎる場合は、用紙に書かせて提出させればよいでしょう。とにかく英語の指導時間は不足しがちなのが一般的な実情ですから、自分の生徒とあまり違う資料を詳しく示されても、参考にならないことが多いのではないかと私は思いました。

 

(5)他の記事も着眼点は良くても、「自分の生徒には合わない」と感じる場合が多いのではないかと思いました。コラムを含めて9編の記事がありますが、「生徒・学生を知るための方法論」は、中学の場合、高校の場合、大学の場合と3つもあれば十分で、細かい留意点を説けば説くほど役に立たない記事になってしまうことを心配しました。編集者にもこの点にもっと配慮をして欲しかったと思いました。

 

(6)第2特集「英語外部試験の実態に迫る」については、私は、誰かがTOEFL の作成本部にでも潜入して、その秘密を暴くのだろうかと期待してしまいました。記事としては2編だけで、“受験の手引き”のようなものでしたので、がっかりしてしまいました。まさに “be disappointed”(がっかりさせられている) 状態でした。奇抜なタイトルで読者を引き付けるのは、芸能週刊誌にでもまかせておけばよいでしょう。

 

(7)ところで、この号の「英語教育時評」は、持田 清氏(四天王寺大)によるもので、SET(Super English Teacher)という制度を紹介しています。これは大阪府が始めているもので、特に優れた英語教員を採用しようとする制度だそうです。私は初めて知りました。しかし、人格的に立派で、かつTOEFL で100点以上の優秀教員を3年間だけ採用するような制度は大きな問題があることを持田氏は指摘しています。私も全く同感です。それと、英語教育の専門雑誌であっても、制度から生じる政治的な問題には常に批判的な姿勢を持つことが大事なことだと思います。(この回終り)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その6)(英語辞書を愉しむ)

Posted on 2014年2月17日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年3月号の特集は、「英語辞書を愉しむ」です。私は、この特集記事を一読して、今回は“批評”にはならないと思いました。その理由は、次の通りです。

 

(2)「愉しむ」というのは、“各個人の好み”に関することで、他人の好みに口出しすべきではないのが原則だと思います。子供がコンピュータゲームが大好きで、勉強をおろそかにしていたならば、親は、「好きなことばかりしていないで、勉強をしなさい」と叱る権利はあるでしょう。

 

(3)今回の特集の記事は、立派な肩書がある執筆者が、「自分はこういうふうに好きな辞典のことを考えている」と書いているのですから、批判する余地はないと私は考えたのです。また、歴史的に先達の英語辞書に関する記事を紹介しているものもありますが、それがどのくらい事実に忠実に書いているかは、今の私には確認する余裕はありません。ですから、間違いはないと信じています。

 

(4)このように言うと、今回の特集にけちをつけているようですが、英語教員としては、特集の記事のような内容は、「知らないよりは知っていたほうが良い」ことは認めます。ただし、毎日の授業で、英和辞典の引き方や読み方を教えるのに苦労している英語教員にとっては、あまり身近な問題とは思えないのではないでしょうか。このことは、2011年12月号の特集「英和・和英辞典の今~進化を探る~」についても私が書いたことで、拙著『浅野博のブログ放談』(リーベル出版、2013)に再録してあります。

 

(5)最初の記事は、江利川 春雄(和歌山大)「日本の英語辞書を築いた巨匠たち」ですが、斎藤 秀三郎(1866-1929)の “idiomology” の研究を紹介しています。この語は斎藤氏の造語ですが、ウェブスターの辞書には、”the study of idiom” と紹介されているとも書いてあります。

 

(6)私的なことですが、私は旧制中学の1年生の頃(1942)に、五歳上の兄が、『熟語本位英和中辞典』(豊田 實改訂増補版)を持っていたので、時々引いてみたことがあります。この記事にも紹介してありますが、”Mind your own business.” には、「己が頭の蠅を追へ」とあって、私は、英語を学ぶためには日本語をもっと一生懸命に勉強しないとダメだと思ったものでした。

 

(7)私がブログで度々書いていますように、最近の評論家や政治家は、立派な日本語があるのに、わざわざ発音のおかしい英語を使って、いかにも物知りであるような態度を取る人物が多過ぎるように思います。そういうことを批判する記事も欲しくなりました。歴史上の業績に学ぶのであれば、その業績がどう現代と関わっているか、現代の教育の諸問題解決にどう役立てるかに触れても良かったのではないでしょうか?

 

(8)英語教育の観点から言えば、単に古いことを教えればいいのではなくて、それが現在とどう関係しているかに触れるべきでしょう。それが、全ての記事に必要だとは言いませんが、一編くらいは、「英和辞書の先達と現代の英語教育」といった記事が欲しいと私は思いました。(この回終り)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その5)(“引き算”の授業)

Posted on 2014年1月17日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年2月号の特集は、「“引き算”の授業改善で指導にゆとりを」です。私はこれを見た時に、「新しい指導法が生まれたのか?」と疑問を感じて、「それは“ゆとり”を生み出す魔法のような方法かも知れない」と思ってしまいました。

 

(2)目次の解説には、指導手順を見直して家庭学習などを通して、「本当に必要なことだけに絞る“引き算”の目線で授業改善を」という趣旨のことが書いてあります。それでも私には理解しにくい点が残りました。私だったら、「自分の授業手順をよく見直して、本当に必要なこととムダなことを見分けましょう」とでも言いたいところです。

 

(3)最初の記事は、太田 洋(駒沢女子大)「『引き算』目線で授業を見直す」で、若い頃に ALT から、「よく働くね」とか、「がんばるね」とか言われたことを紹介して、「先生ががんばる授業」から「生徒ががんばる授業」への転換を説いています。この“ねらい”は私にも分かります。

 

(4)私の記憶では40年ほど前にも、「先生中心から、生徒中心の授業へ」といったことが言われたことがあります。そして、“教授法”よりも“指導法”という言い方が優勢になりました。例えば、パーマー式の Oral Introduction (口頭導入)をする場合は、先生の独擅場になることが多く、生徒はもっぱら聞き役になりがちでした。太田氏もこの点に触れて、「場面を示す程度に留めて、内容につて質問をしてから後は生徒に教科書を読ませてはどうか」と提案しています。私もこの点は賛成です。

 

(5)2番目の記事は、畠山 喜彦(一関工業高等専門学校)「引き算でできたゆとりはこう使おう!――ゆとりを活用した授業デザイン」です。「ゆとりの活用」の例としては、「生徒とのインタラクション」「音読活動」「リスニング活動」などを挙げています。私はこれらにも反対ではありませんが、「平常の授業からゆとりを生みだすことは、そんなに簡単なのだろうか?」という疑念を払しょく出来ませんでした。中学でも高校でも、「教科書を終えることが難しい」という声をよく聞くからです。

 

(6)今回の特集では、11編の記事がありますから、全部を批評・紹介することは出来ませんので割愛させてもらいますが、「“現状分析”と“問題点の指摘”が欠けているのではないか」という疑問がどうしても残りました。そして、出来るならば、こういう特集では、中学、高校、中高一貫校それぞれの場合のように対象を分けてもらえると有難いと思いました。

 

(7)この号の「英語教育時評」は、森住 衛氏(桜美林大)の担当で、私が上記で指摘したような問題点が見事に論じられています。すなわち、「朝日新聞」の英語教育に関する記事を引用しながら、ご自分の賛否の態度を明確にしているのです。「ことばの学習は、“そのまま覚える”という受け身の要素を抜きにしてはならない」ことも指摘しています。学習段階では、理屈ばかり言っていては能率が悪いのは確かですが、森住氏の主張は生徒の目線を無視しろという意味ではなく、世間の英語教育に対する批判には、英語教師が答えるべきだということも述べています。

 

(8)こうした問題点の議論は、森住氏が担当している英語教育関係の授業で、学生相手に実践しているとのことですから、説得力があると思います。今回でこの欄の担当は最後だそうですが、もっと続けてもらいたいと私は思いました。英語教育を非難する声の中には、“個人差”とか、“個人の努力”といった視点が欠けていることがありがちです。したがって、もっと個人指導が徹底出来るような文部行政側の実践を強く望みたいですし、「英語教育」誌にも、このような視点からの特集をしてほしいと要望して終わることにします。(この回終り)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その4)(英語教育の現状)

Posted on 2013年12月16日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年1月号の特集は、「日本の英語教育は今どうなっているのか」です。英語教育に関心のある人であれば、一番知りたいことでしょうから、時宜を得た特集だと思いました。冒頭の大谷 泰照(大阪大学名誉教授)「日本人と『英語』との距離―言語教育のあり方を考える前に」は大局的な観点からの記事と思ったので、2番目の金谷 憲(元東京学芸大学)「英語教育をめぐる議論を整理する―正しい理解のために」をまず読んでみました。

 

(2)金谷氏は、「英語教育」という複雑な営みは、それぞれの人が自分の立場から見ることが多いので、正確な見方が出来にくいことを指摘しています。私もこの点は同感で、特に政治家や官僚たちは、「最初に結論あり」という自分たちの立場だけから英語教育に口を出す傾向があります。

 

(3)それでは、“正しい見方”というのは、どういうものでしょうか。金谷氏は例として、「英語の授業は英語で行う」という文科省の方針を取り上げて、これについても、様々な見方と考え方があることを指摘しています(p. 14~)。極端な場合は、英語ばかりの授業から、全く英語を使わない日本語だけの授業まで存在するとしています。

 

(4)私は持論として、外国語を話すことは、日常的に行う環境に居ないと、すぐに衰える能力だと考えています(少数の天才的な人は存在しますが)。したがって、中学や高校で(小学校を加えても)、週に5時間程度の英語だけの授業があっても、「話すこと」にはほとんど効果は無いと信じています。金谷氏も結論的に、小学校では結構楽しく学んでいるのに、「中学へ行くと文法ばかりでつまらない」という生徒の間違ったイメージが強調されてしまう傾向を指摘しています。そして、今後は十分に時間をかけて、アイディアを出し合い、同僚や保護者の誤解などを解く努力をすべきだ、つまり「急がば回れ」だとしています。これも私は賛成します。

 

(5)三番目の記事は、斉田 智里(横浜国立大)「英語力はどう測るのか―テストの経年比較から分かること」です。テストの結果というのは、生徒はもとより、親も教師も関心が強いものですから、このテーマも多くの人たちが知りたいことだと思います。そして、斉田氏も指摘しているように、誤解されることの多い問題です。誤解の最大のものは、平均点だけを比較して、「日本人の英語力は弱い」とか、「国際比較でビリのほうだ」といった騒ぎになることです。

 

(6)テストの結果処理の方法として、「項目反応理論(IRT)」というものが、1970年頃から開発されました。ごく簡単に言えば、受験者が違ってもその結果を比較することに意味があるようにする方法論です。私は筑波大時代の同僚で、言語テストの先端的研究者であった大友 賢二教授(現名誉教授)にいろいろ教えてもらって勉強したことがあります。大友氏は後に、「日本言語テスト学会」を創設して、活発な活動を続けられました。

 

(7)斉田氏の記事でも、「項目反応理論」に言及していますが、私が気になったのは、「生徒の英語力を測る目的は、学習指導要領目標に照らして生徒の学習状況を把握すること」(p.18)と述べている点です。最近は「英語教育特区」という「指導要領の制限を超えた英語教育を実践している地域」があるのですから、指導要領を前提にしていたのでは、生徒の実態は掴めないと思います(英語教育特区の状況は、インターネットで検索すれば知ることが出来ます)。

 

(8)冒頭の大谷氏の記事も実は「学力の比較」を論じているのですが、英語力だけではなく、数学力の国際比較や、日本人が韓国語や中国語を現地で学ぶような場合の習得結果についても資料を示して考察しています。日本にいる英語教師は、生徒の英語力を考えるべきですが、時にはこうした記事を読んで、視野を広げる努力をすべきです。大谷氏の考え方について詳しく知りたい方には、『日本人にとって英語とは何か―異文化理解のあり方を問う』(大修館書店、2007)を薦めたいと思います。(この回終り)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その3)

Posted on 2013年11月20日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)2013年12月号の特集は、「授業に活かす言語学」で、副題は、「文法、語彙、発音、作文、テスト作成から家庭学習まで」と大変欲張った特集です。“欲張った”というのは編集者や執筆者に失礼な言い方かも知れませんが、私は、「学習者の視点が軽視されていないか」という懸念をこの長いタイトルを見た時に抱いたのです。

 

(2)冒頭の記事は、大津 由起雄(明海大)「英語教師が知っておきたい言語学とは?」です。大津氏の発言は常に論理性や説得力のあるもので、私は常に敬意を感じていますが、英語教師にとって、「なぜ言語学の研究の成果が必要なのか」を丁寧に解説しています。

 

(3)大津氏は、言語学は、(A)ことばの普遍性、(B)英語の個別性、(C)日本語の個別性の3つについての知識を英語教師が持つことが必要なことを教えてくれるという趣旨のことを述べています。英語教師は生徒の訳した日本語がおかしいと、「そんな日本語があるか」と叱ったりしますが、その理由は説明しないことが多いように思います。センター入試の正解表だけを与えるようなもので、学習者は恐らく疑問や不満を感じていることでしょう。

 

(4)一方、ビジネス英語を専門に教える英語教員は、「言語学などの説く理論など現実性がない」と、もっぱら体験したことを重視する傾向があります。特に非英語圏で商売のための英語を使う立場では、学問的な理論は役に立たないのは確かでしょう。しかし、教室で教える立場ではあまり極端な態度を取ることは学習者のためにならないことも知っておくべきだと思います。

 

(5)今回の特集では大津氏のもの以外に、それぞれの学問分野について、9名の執筆者が書いています。全てを取り上げるのは無理ですので、その分野だけを紹介させてもらいます。①語用論、②音声学・音韻論、③語彙意味論、④応用言語学(指導編)、⑤応用言語学(学習編)⑥心理言語学、⑦社会言語学、⑧脳科学、⑨理論言語学、の9編です。このように並べますと、学術論文集のような感じがしますが、どの執筆者も「授業に活かす」という特集のテーマを意識して、教室での指導を視野に入れた解説をしています。したがって、読者は自分の関心の薄かった分野について学べることが多いと思います。

 

(6)私の手元に、佐久間 淳一『はじめてみよう言語学』(研究社、2007)という書物があります。本書の帯には、「『たこ焼き』が『焼きたこ』でないのはなぜだろう?」と書いてあります。この例で分かるように、本書は日本人の身近な言語問題について述べているものです。3人の人物(言語学者の先生、高校3年生の“はづき”、及び日本人の母親を持つフィンランド人“ペトリ”)の話し合いを通じて言葉の諸問題を解説している分かりやすく興味深い本です(“アマゾン”で検索すれば購入可能です)。

 

(7)中高生の教室では、教師は今回の特集記事や佐久間氏の本で得た知識を折に触れて話してやるといいと思います。生徒はそういう余談を期待以上に覚えてくれるものです。教師は“あまり欲張らずに”時に余談として、自分の知識を披露してやることが大切なのだと思います。(この回終り)