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「英語教育批評」(その67)(「導入」のコツ)

Posted on 2013年3月29日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2013年4月号の特集は、「生徒を引き込む『導入』のコツ」です。「何を導入するのか」については、生徒の学習段階や学校の環境によって様々であると思いますから、こういう特集記事によって教えてもらえるならば有難いと思う英語教員は少なくないでしょう。

 

(2)最初の梅本龍太(関西大学初等部)「文字をどのように導入するか」では、まず文科省の示す例を挙げていますが、「Alphabet Chant を言う」とか、「Key Alphabet ゲームをする」と言われても、新人教員にはよく分からないのではないでしょうか。これは、“英語を教える小学校教員”の養成について具体策を全く示さない文科省の責任です。そういう問題にも触れて欲しかったと思います。

 

(3)小菅敦子(東京学芸大附属世田谷中)「小中連携を意識しての文法指導」は、このタイトルに疑問を感じました。「外国語活動」からいきなり「文法指導」なのか、と思ったからです。「文法指導を意識したこれからの小中の連携」ならば分かります。小菅氏がここで説く指導過程は、経験の豊富さが見える適切なものですから、もう少し言い方に留意して欲しいのです。

 

(4)前田昌寛(石川県立金沢桜丘高校)「『英語で授業』の事始め」は、いわゆる“教室英語”の使い方を説いているもので、そのステップには異論はありません。しかし、例として示されている英語表現にはもう少し配慮が欲しいと思います。例えば、”Which club do you belong to?”の “belong” については、『ジーニアス英和』の注意「運動部員については、”I am on the baseball team.”

がふつう」を参考にしたいところです。”Ask one question to him/ her.” も調べる必要があるでしょう。日本人教師が“英語で英語を教える”のは、簡単ではないのです。「話す」時はともかく、「書く」場合はより慎重であるべきです。

 

(5)加納幹雄(岐阜聖徳学園大)「多読をうながす授業づくりの基礎・基本」は、2012年の“全英連”の石川県での発表内容を基にした記述です。しかし、公立中学校の多くは、検定教科書を終わらせるのが精一杯のはずです。私が中学校を教えていた昭和30年代には、英語の時間は週4時間から5時間あって、副読本も使えましたが、“週3時間”になってからは、そうした余裕は全く無くなりました。現状はどうなのか、また科目がよく変わる高校の場合も同じような問題がないのか、といったことにも触れて欲しいと思いました。

 

(7)問題の多い高校のことを書いているのが、宮本順紀(茨城県立茎先高校)「CAN-DO リストで自立する学習者を育む」ですが、用語の説明が不親切だと思います。少なくても、“CAN-DO リスト”とか、“自律する学習者”の定義を示すべきでしょう。宮本氏が、「午前部、午後部、夜間部あわせて各学年4学級の3部制定時制単位制普通科」という複雑な学校に勤務しているならば、なおさら、細部にも配慮した記述をしてもらいたいのです。

 

(8)根岸恒雄(埼玉県熊谷市立大幡中学)「始めてみましょう、協同学習!」は、参考文献を示すだけでなく、「共同学習の理念、効果」「共同学習導入のポイント」など入門的な記述をしていて、同感出来ます。そこまで書くのであれば、うまくいかない実例やその原因まで書いてもらいたいと望みたくなります。

 

(9)赤池秀代(浦和明の星女子中学・高校)「タスクを効果的に取り入れるコツ」は、“タスク”の定義に始まって、実例、成功のカギなど具体的に説いていて分かりやすい記述です。欲を言えば、どのタスクにどのくらいの時間を必要とするかを具体的に示して欲しかったと思います。「短時間(15分以内)で行えるものであること」という注意がありますが、どこまで普遍性があるかをある程度実証したほうが良いでしょう。

 

(10)松本茂(立教大)「ディベートができる生徒を育てるための指導の発想と方法」は、まず「この場合の“発想”とはどういう意味なのだろう」と考えてしまいました。国語辞典では“発想”は「思いつくこと」と定義していますから、「ディベートでも指導しようか、と思いつくこと」を意味することになると皮肉を言いたくなります。記事には、「3年次の最終目標を達成するためには、1年次からの指導が大切」という趣旨のことが書いてあって、指導手順を丁寧に述べているのですから、分かりやすいタイトルにして欲しいと思いました。

 

(11)関 典明(成城学園中・高)「辞書指導 導入のコツ」です。この場合の“導入”も、どういう意味なのだろう、と考えてしまいました。「辞書指導のコツ」でいいではありませんか。特集のテーマ「生徒を引きこむ『導入』のコツ」にこじつけたための分かりにくさです。これは編集部の方針だと思いますが、記事の記述は、ベテランらしく指導の方法と注意点を述べていて、同感です。“完全な辞書”の実現は無理ですが、日本の英語学習者に適した「英語辞書」については、英語教員は更に批判的、かつ建設的な意見をもっと表明すべきだと思いました。(この回終り)

「英語教育批評」(その66の2)(「新学期のための準備」(続き)

Posted on 2013年3月21日

(1)大塚謙二(北海道壮瞥町立壮瞥中学)「デジタル教材を本当に効果的に活用しているか」は、仰々しい題名で、「効果的に活用などしていないくせに」とでも言っているような感じが私にはします。しかも最初の見出しには、「見切り発車が必要な ICT を活用した授業」とあります。最近は「見切り発車」と言うと、多くの乗客が窓や入口にぶら下がっているような満員列車が発車してしまうようなインドからのテレビ画面を連想します。大塚氏は、実際に学校を訪問してみると、最新の機器を眠ったままにしている学校が多く、そういう場合は、準備ができるまで待っていたら永久に使えないのだから、“見切り発車”が必要だということ言いたいようです。

 

(2)私は“見切り発車”を強要しているのは、文科省だと思うのです。予算があって各学校に必要な機器を配ることが出来るのであれば、講習会を開いて、必要な準備をさせるべきでしょう。大塚氏のここで説いていることに全て反対するつもりはありませんが、説明がやや乱暴で分かりにくい点があるのです。私の持論として、「英語教育」誌の記事は教職の未経験者にも分かるように書いてもらいたいと思っています。

 

(3)増渕素子(東京都渋谷区立原宿外苑中学)「指導要領改訂最前線を進む生徒たちに、どのようなケアが必要か」も、ものものしい題名で、生徒がまるで戦争中の軍隊みたいです。「指導要領の改訂の際に指導上注意すべき問題点」といった分かりやすいタイトルでは何故いけないのでしょうか。“ケア”も日常語としては、「高齢者の介護」について使うことが多いと思います。記事の内容は多くの統計資料を基に真剣に論じているのですから、分かりやすい題名にして欲しかったと思います。

 

(4)中野達也(東京都立白鴎高校)「高校新指導要領導入にあたり、これだけはやめようと思っている3つのこと」の“3つのこと”の最初は、「1. 旧課程にあてはめて考えるのは止める」で、「そんなこと当たり前ではないか」と言いたくなります。ちなみに、あと2つは、「2. 先生ばかり話し続ける授業はやめる」、「3. あれこれ迷うことはやめる」で、指導要領とは関係なく、やらないほうが良いことだと思います。ことば尻 をとらえるようですが、表題の「新指導要領導入」もおかしい言い方です。指導要領は教員が“導入”するものではなく、むしろ教員に“押しつけられるもの”と考えるべきです。記事の内容は、指導上の留意点を真面目に論じているものだけに、もう少しことば遣いに注意してもらいたいと思います。

 

(5)柴田まり(山形県立楯岡高校)「『英語で授業』をどうはじめるか」で、やっと分かりやすい表題になりました。内容も、生徒のほとんどが進学しない農業高校での経験談や、「英語で授業をやってみませんか」と呼びかけた時の一人の同僚が応じてくれた反応などを紹介していて、分かり安いと思います。欲を言えば、もっと英語の実例を示して欲しかったと思います。

 

(6)亀谷みゆき(岐阜県立東濃実業高校)「観点別学習状況の評価をどう実施するか」は、「観点別学習状況の評価とは?」ときちんと定義をし、その実践方法と問題点を述べている親切な記述です。細かい点では、生徒向きに、”Do you think animals can think? Why / Why not do you think so? と書いていますが(p. 35)、不正確な英語です。1つは、”closing quotation marks” が無いこと。後半は、”Why not think so?” とすべきでしょうが、口語的な表現であることに留意しなければなりません。

 

(7)田地野 彰(京都大学)「大学で専門英語を指導することになったら――ライティング指導を中心に」は、タイトルだけを見ると、中高の英語教員には、「専門英語とは何だろう」と思う者もいることでしょう。この記事では、“専門英語”とは何か、から始まって、“アカデミックライティング”とか、“ムーブ(move)”(文章の展開において特定のコミュニケーション機能や目的を果たすまとまり)といった専門用語の解説やその利用方法を丁寧に説明しています。英語教員であれば、ESP (English for Specific Purposes)(特別目的の英語) くらいは知っておくべきでしょうが、実践の方法は、大学や学部によって大きな違いがありますから、中高の英語教員は必要に応じて学べばよいことだと思います。 (この回終り)

「英語教育批評」(その66の1)(「新学期のための準備」のこと)

Posted on 2013年3月7日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2013年3月号の特集は「新学期前に確認しておきたいこと」です。2学期でも3学期でも、前の学期で出来なかったことを反省して、授業の始まりに備えるということは必要であり、大切なことだと思います。したがって、この特集のテーマの設定には異論はありません。経験者が何を語るか興味をそそられるテーマです。

(2)冒頭の記事は、塩井博子(栃木県宇都宮市立上戸祭小学校)「『外国語活動』を担当することになったら」です。これまで8年間の「外国語活動」指導の経験者の書いたものですから、同意出来ることが多いであろうと思ったのですが、すぐに疑問に思ったことがあります。「『外国語活動』の目標はコミュニケーション活動の素地を育成することであり、スキルの定着ではない」と述べているからです。

(3)小学5,6年生に、昔流行った“パタンプラクティス”のようなことばかりをやらせるのは確かに無謀ですが、ある程度“スキル”を身に付けないと、英語でのコミュニケーションなど出来ないと私は考えます。冒頭の記事であれば、「外国語活動は英語を教えることだ」と単純に考えがちな小学校の教師に対して、「“外国語活動”とは何か?」「なぜ“英語活動”ではないのか?」といった基本的な問題から説いて欲しかったと思います。

(4)東村広子(埼玉県所沢市立所沢中学)「小中の滑らかな接続を目指して」は、「滑らかな接続のための3つのポイントを挙げています。「(1)外国語活動の把握と生徒の現状の見取り」がその1つですが、新入生にアンケート調査などをして現状把握に努める方法は堅実です。ただし、その中学へ集まる小学校の数が3,4校にもなれば、現状分析も大変難しいことでしょう。「(2)音と文字のつながり」まで視野に入れると指導方法が絡んで、さらに大変です。どうやってその“大変さ”を克服するのかまで論じて欲しいと思いました。

(5)知見晴弘(山梨県大月市立第一中学)「中学校で増えた1時間を有効に使っているか」では、実例として、「フォニックス指導の充実」と「アウトプットの機会を増やす」を示しています。“フォニックス”は、それなりの考え方と教材を前提にするものなので、同じ検定教科書を使って、“フォニックス”を深めるのには無理があるのではないでしょうか?“アウトプットをさせる”ことは必要でしょうが、生徒の能力差が大きく出る面ですから、個別指導への配慮が欠かせません。そういう困難点にも言及して欲しいと思いました。

(6)肥沼則明(筑波大附属中学)「教科書(教材)のここをチェックしておく」は、「『いつ』『何』をチェックするのか?」に始まって、教材ばかりでなく、「指導過程のチェック」にまで言及しているのは親切な配慮です。「教科書の本文を詳細に読んでみると、本来であれば新出の文法項目として扱ったほうがいいような重要な表現が潜んでいることがある」とありますが、それを知るのは簡単ではないと思います。

(7)なぜならば、検定教科書には著者や編集委員会などの“意図”が含まれていますから、それを知るためには教科書会社が発行する「指導書」とか「マニュアル」といったものを読まなければなりません。ところが、「指導書」などは1学年分でも2,3万円以上もするので、入手しにくいのです。そういう困難点に加えて、文科省の予定変更で、新学習指導要領の実施がこれまでの予定とずれていることなども指摘してもらいたいところです。同じ教科書を使っている学校の教師だけが研究会を持っても、どうしても視野が狭くなります。この問題の解決には、教科書採択制度を見直すなど大問題の解決が必要なのです。(以下次回に続く)

(8)訂正とお詫び:前回の「英語教育批評」では、「センター入試の制度」のことを問題にしました。その中で、「共通1次試験」の始まった年を「昭和49年(1974)」と書きましたが、「昭和54年(1979)」の間違いでした。指摘してくれた久保野雅史氏(神奈川大)に感謝し、読者の方々にお詫びして訂正いたします。

「英語教育批評」(その65)(センター入試制度のこと)

Posted on 2013年2月13日

(1)今回は「大学入試センター試験」の制度の問題を考えてみます。約60万人もの受験生がいる「センター試験」というのは、どうして出来た制度でしょうか。その由来については、インターネットで「大学入試センター」を検索すると、詳しく書いてある項目が見つかりますから、ここでは制度の説明はそちらに譲って、いくつかの問題点の指摘をしてみます。

 

(2)「入試センター試験の目的」については、次のような文言があります。

 

「大学入試センター試験は、大学(短期大学を含む。以下同じ。)に入学を志願する者の高等学校段階における基礎的な学習の達成の程度を判定することを主たる目的とするものであり、国公私立の大学が、それぞれの判断と創意工夫に基づき適切に利用することにより、大学教育を受けるにふさわしい能力・適性等を多面的に判定することに資するために実施するものです」

(3)上の引用部分は、いかにも官僚の作文らしい抜け目のないものです。確かに、科目数が多く、選択できる外国語も英語だけではありませんが、2日間の試験(しかも、選択肢から答を選ぶ「客観テスト」だけ)で、「大学教育を受けるにふさわしい能力・適正等を多面的に判定する」ことができるのかと疑問に思います。各大学が独自に行う「二次試験」と合わせて合否を判定することを前提にしているのでしょうが、それなら最初から各大学に任せた方が、受験生にはすっきりするはずです。

(4)昭和49年(1974)に、「センター試験」の前身の「共通1次試験」が始まったのは、それぞれの大学に出題を任せておくと「難問、奇問が多くなり、受験生に不要な負担をかける」という苦情が高校から文部省に多数寄せられたので、それに応えるためだったのです。「共通1次」にしても、現在の「入試センター試験」にしても、英語の語彙数などは、「4千語レベル」(何を基準にするかにもよりますが)を守っていることは確かです。前回で取り上げた例のように、”to call the shots”(指揮をとる)の意味を問う問題がありますが、文脈で推測できるようにしてあります。しかし、客観テストの形式ですと、誤答を消去法で排除することがある程度できますから、本当の“英語力”を多面的に判定することにはならないと思います。

(5)それぞれの大学には、特に私学には、入学した学生をどういう人間に育てるのかという目標があるわけですから、大学が独自の試験を実施することが望ましいわけです。センター入試の制度は、「大学は信用できない」という不信感から始まったものですから、多くの矛盾が生じてくるのだと思います。一方、大学の教育改革がなぜ困難なのかについては、私は、2011年の10月、11月のブログで、2回論じています。要するに「大学」は、外部からは伺い知ることの困難な“閉鎖社会”なのです。

(6)入学希望者を集めるのに苦労している大学が、「センター入試」を必修にするのは全く時間と労力の無駄でしょう。運転免許取得のための学科試験のように、高校卒業生や卒業見込みの生徒は、現住所の近くで「センター試験」をいつでも受けられるようにするのも1つの方法かも知れません。「どこで、誰が管理して」という大きな問題が残りますが。

(7)監督者(主に大学教員)については、「共通1次」の頃から、全く信用されていませんでした。必要な問題の冊子を配り忘れたり、答案を集めそこなったりと、いつも問題が生じています。「人間不信」から始まれば、「人間不信」に終わるものです。不注意だけではなく、倫理観や道徳意識の低下が障害になっているとしたら、私には良い解決策が浮かびません。どうしたらよいでしょうか。(この回終り)

「英語教育批評」(その64)(センター入試の問題)

Posted on 2013年1月31日

(1)センター試験の問題を論じるには、少なくても、① 出題される問題の適否 ② 制度としての諸問題という2つの視点が必要だと思います。今回は、 ① について考えることにします。対象とする問題は追試などではなく、最初に実施されたものとします。

 

(2)第1問 A は、下線を引いた1文字が、同じ音を表すか否かを判断するものです。① generate ② genius ③ medium ④ meter では、もちろん① を選べば正解になるわけですが、私は、中高の英語の授業で、こうした観点からどういう指導がされているのかが気になりました。

 

(3)日本の敗戦の直前(1943)でしたが、私は旧制中学に入学する前に「アルファベット」を覚えて得意になっていました。しかし、「S(エス)」と覚えた文字が、”say” にしろ、”speak” にしろ、「エス」とは言わないことを不思議に思ったのでした。英語の先生は、「文字の呼び方と、単語の中での読み方は違うのだよ」と答えてくれましたが、納得は出来ませんでした。国語の先生が、「私…と言う時の“は”は、“わ”という音になる」と言われた時には、文字と実際の発音は違うということは分かりましたが、もやもやした気持ちが残ったのは同じでした。

 

(4)「“字母”は前後関係で発音が変わる」わけですが、問2の、① basic ② insurance ③ serious ④ symbol のうち、② を選ばせるものなどは、あまり意味がないと私は考えます。高校での授業の際に、”insurance” という単語が出てきたら、まず正しい発音を真似させて、意味を確認することが主眼であってよいと思います。”s” という文字がどう発音されるかを考えさせるのは、生徒の学習負担を増すだけの些細な問題だからです。

 

(5)「アクセントの問題」では、入試センターは、「音節」という用語を避けて、「第一アクセント(第一強勢)の位置が他と異なるものを選べ」としていますが、教室の指導では、「音節」という用語を使用している場合が多いと思います。しかし、英語の場合の「音節」という概念は、日本人には結構分かりにくいものです。センター入試では、「話すこと(speaking)」の試験ができないので、“発音に関するペーパーテスト”を出題するのでしょうが、私は止めるべきだと思います。

 

(6)作文力を試す問題では、第2問の問4は次のような会話文です。

Eric’s friends, Minoru and Sachiko, will be here at seven this evening. He (空所)doing his homework by then.

① has been finished ② has finished ③ will have finished ④ would finish

これなどは、「未来完了形」を無理に使わせる問題で、受験生に無駄な負担を課すための悪問だと思います。私の考えでは、“未来完了形”は、読む教材の中で出てきたら、意味が分かればよい程度の文法事項です。英文法の参考書は複雑な使用条件を示していますが、その1つには、「未来形で代用出来る場合がある」とあります。

 

(7)第3問は、会話の中で使われている “to call the shots” の意味を問うものですが、その選択肢は、① ask questions ② avoid trouble ③ have control ④ make friends です。私が受験生ならば、”to call the shots”(指揮をとる) の意味を知らなくても選択肢から消去法で正解を選べたであろうと思います。入試センターは、何故こういう出題の素材を「会話」にするのでしょうか。文科省の「コミュニケーション重視の話せる英語教育」の方針に迎合するためとしか思えません。「実用的な即効性」を求めるだけでは日本の英語教育は効果ないと思います。(この回終り)