言語情報ブログ 語学教育を考える

「入試と文法の問題」を考え直す

Posted on 2012年11月1日

(1)英文法指導や入試問題のことはこれまでも何回か考えてきましたが、“厄介な問題”ですから、何度でも繰り返してよいと思います。今回は、池上嘉彦『<英文法>を考える』(1991、筑摩書房)を参考にして考えてみることにします。だいぶ前の出版ですが、内容は少しも古くなっていないと思います。それと個人的なことですが、池上氏とは「大学入試センター試験」の前の「共通一次試験」(1980年頃)の問題を他の仲間たちと一緒に作ったことがあって、それ以来、彼の英語力と考え方の幅の広さに敬服してきたからです。

 

(2)池上氏は最初に、「いわゆる五文型の不十分さ」と題して、なぜ“不十分”なのかを説明しています。いまどき「五文型」に固執している英語教員はいないとは思いますが、① He arrived at the station early in the morning. が教科書にあると、既習の ② We reached the hotel at midnight. と比べて、「① は、S+Vだが、② は、S+V+O の文型だ」のように説明している高校の授業を数年前に見たことがあります。説明自体は間違いではないでしょうが、コミュニケーションのために重要な要素(副詞句の部分)が生徒の関心から抜けてしまうのが問題なのです。

 

(3)実は池上氏の上記の書物には、小さい文字で、「(文法)と(コミュニケーション)の間」という副題がついているのです。 このことから、この書物が、単なる“文法の解説書”ではないことがわかります。英語教員は、入試問題などを解説する場合に、① Happiness consists in contentment.(幸福は満足にあり)とか、② Our club consists of 45 members.(私たちのクラブは45人の会員からなっている)のように、前置詞の違いだけを強調するような説明をしがちです。

 

(4)このような例は、池上氏も最初に指摘していて、「consists (  ) の空所に “in” を入れる問題」を校閲者の英米人が答えられなかったこと、及び辞書の記述を示しても、「それは古い用法だ」と彼らが言ったことを紹介しています(p. 4)。そして、インフォーマントとしての英米人に、語法上の問題を尋ねる場合の問題点や留意点に言及しています(「付録―コンテクストとインフォーマント・テストによる文の妥当性の検討」p. 201~)。AET(英語指導助手) 一人の見解を根拠に、「この教科書の英語は間違っている」と主張する日本人英語教員がいますが、「語法」というものは、そう簡単に一人の例だけで結論が出せるものではないことを意識しておくべきだと思います。

 

(5)数年前に、ある民放のテレビ番組では、センター試験が終わった後で、英語の問題を複数のアメリカ人にやらせたら、「入試センターが正答とした答えと違っていた」と大騒ぎをしていました。「問題が不適切」という場合もありますが、「英語話者でも正解を得られないことがある」と考えるべき場合もあるのです。例えば、「日本人なら、センター入試の国語の問題ですべて正解を得ることができる」とは限らないでしょう。国語や英語の入試問題は、問題の難易や適否とは別に、「出題者のねらい」を考えなければならないのです。ですから私は最初に、入試は“厄介な問題”と言ったのです。

 

(6)入試は選抜試験ですから、「何点以下は不合格」という線を設けざるを得ないわけですが、大勢の受験者を対象にしたセンター試験では、自動車運転免許試験のように、「何点以上は合格」といった一種の資格試験にすることも考えてよいでしょう。定員割れの大学が増えている現状では、入試の在り方を根本から考え直す時機ではないかと思います。(この回終り)

“英語教育とグローバル化”のことを考える

Posted on 2012年10月16日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2012 年11月号の特集は、「グローバル人材を育てる英語教育」です。私はまず「グローバル人材養成」と「英語教育」はどう結びつくのか疑問に思いました。特集ページの表紙には、「近年、政府や自治体、学校現場において『グローバル人材』育成事業が強化されている」とありますが、私には、国際人の養成が「強化」されているとはあまり思えないのです。

 

(2)最初の記事は、文部科学省官房国際課による、「グローバル人材育成への取り組み」で、今年の6月に公表された「グローバル人材教育戦略」の説明をしています。小見出しには、「大学の国際化の飛躍的推進」とか、「学生の双方向交流の推進」など威勢のいい文言が並んでいますが、こうした掛け声だけで「日本の教育のグローバル化」が進むと考える人はいないでしょう。文科省の立場で発言するならば、予算(要求を含めて)などの裏付けのある主張をしてもらいたいと思いました。

 

(3)時あたかも、山中伸弥教授がノーベル賞を受賞して、テレビも日本人が喜びに沸く場面を繰り返し放映していました。しかし、山中教授は、講演や記者会見で、「自分の研究に関わり、助けてくれた大勢の若い人たちの身分が極めて不安定です」と訴えていました。教育や研究にはお金がかかるのです。このことを抜きにして、スローガンだけ掲げても意味がないと思います。

 

(4)昨夜(10月14日)の朝日テレビは、池上彰氏による時局解説を5時間にわたる特別番組で放送していました。その中で、デンマークの教育がなぜうまくいっているのかという話題があって、私立でも公立でも無料で、指導方針として、小学校の低学年から、「自分が学びたいことを自分で決める」教育をしていることを紹介していました。池上氏は2人のタレントとデンマークの学校を訪問して、授業の実際も映像で見せていました。

 

(5)国情が違いますから、デンマークの教育方法をそのまま真似することは出来ないでしょう。しかも、日本のように学習指導要領で画一的な教育を強要しておいて、“グローバル人材を養成している”などと言えるのでしょうか?私は言えないと思います。一方では、政治家たちは、「臨時国会を始めろ」「始めない」とか、「党首会談をやれ」「やらない」といったレベルの言い争いをしているのです。雑誌向きに教育問題の一般論を書くにしても、スローガンだけでは意味が無いのです。

 

(6)水口景子(公益財団法人国際文化フォーラム)「グローバル社会を生き抜く外国語教育―隣語教育からの提案―」では、まず「外国語=英語?」と疑問を呈して、もっと隣国の言語(隣語)を学ぶ必要性を主張しています。そして、高等学校の831校が中国語を、420校が韓国・朝鮮語を開講していますが、履修者の数は極めて少ないことを数値で示しています。そして、「こういう現実を見逃すわけにはいきません」と述べています。グローバル化の問題に限らず、日本の教育の現状はあまりにもお寒いのです。

 

(7)加藤ゆかり「データで見る『今の若者は本当に内向き志向?』」は、グラフで海外の留学生と日本人の留学生数の変化を示しながら、今の若者たちが、必ずしも海外志向の気持ちを失っているのではなく、「そのきっかけに出会っていないだけなのです」と結論しています。このあたりは、人によって見解が分かれるところでしょうが、いずれにしても、「グローバル人材の養成」は簡単ではないことだけは確かだと思います。(この回終り)

“アメリカとの距離の置き方”を考える

Posted on 2012年10月9日

(1)「このタイトルはどういう意味なのか」といぶかる方もおられると思いますので、その説明から始めます。英語が好きで英語教師になった人が多いでしょうから、英語話者の住むイギリスやアメリカが大好きだという人も少なくないと思います。しかし、“惚れ込んで”しまうと、弱点や欠点が見えにくくなってしまいがちです。“教える立場”の教師としてそれでよいのであろうか、という疑念が私にはあるのです。

 

(2)日本文学の研究者である林 望(はやし・のぞむ)氏は、イギリスに留学してから、『イギリスは愉快だ』(平凡社、1991)とか、『イギリスは楽しい』(平凡社、1991)といった書物を出版しました。研究者、評論家としての幅の広さは私など驚嘆に値するものと思いますが、イギリスに“惚れ込んで”しまった姿は、少なくとも教師向きではないと思えるのです。教師という立場は、学習者に先入観を与えないように、教える対象物からは“一定の距離を保つ”ことが望ましいと私は考えるからです。

 

(3)では、もう1つの国、アメリカとはどういう距離を保ったらよいのでしょうか。ここでは、佐伯啓思『新「帝国」アメリカを解剖する』(ちくま新書、2003)を参考に、「アメリカとの距離」を考えてみたいと思います。この本は、マンハッタンの高層ビルにハイジャックされた旅客機が突っ込んで、多数の犠牲者が出た惨劇(2011年9月11日)から説き起こして、その原因や結果を論じています。

 

(4)私もあの衝撃的なテレビ画面には恐怖を感じましたが、日時が経つにつれて、アメリカはあの事件が何故起こったのかということの追及を十分にしたのであろうか、という疑念が湧きました。「テロはひどい」「憎むべき犯罪だ」と考えた人が多く、当時は国力のあったアメリカが、ブッシュ大統領の意向で、アフガニスタンを攻撃したり、イラクに侵攻したりしたのは当然と考えた人が多いようでした。

 

(5)しかし、イラクでは、フセイン大統領は独裁者ではあったのですが、大量殺りく兵器の製造の証拠も、9.11 のテロの首謀者とされたウサーマ・ビン・ラーディン(メディアによって表記が違います)と関係があったという証拠も見つかりませんでした。この間の経過は、上記の書物に詳しく書いてあります(ただし、その後、ホワイトハウスはテロ攻撃を知っていたという“2.11テロ陰謀説”なども出ています)。アメリカの大統領は独裁者ではありませんが、大きな権力を持っていて、他国との戦争も始められるわけです。ベトナム戦争(1965~1973)への介入などは、全国的な批判を浴びて、ヒッピー族などの反戦風俗を産んだことは、まだ記憶している人も多いでしょう。どこの国にも、その歴史が長くなれば栄枯盛衰があるわけですから、どの面を評価するかによって、大きな差が生じるものです。

 

(6)日本でも大統領制にすべきだとの声がありますが、その前に「民主主義とはどういうものか」をもっと考えるべきでしょう。英語教育について言えば、英語教師の間でも、目的も方法論もしっかりしたコンセンサスを得られない現状をまず直視して、もっと活発な意見交換をする必要があると思うのです。(この回終り)

“ふり返り”の特集号を読んで思うこと

Posted on 2012年9月24日

(1)「英語教育」(2012年10月号)の特集は、「『ふり返り』でつくる、もっと良い授業」ですが、私はまず“ふり返り”って何だろうと思いました。明鏡国語辞典(大修館書店)によれば、“ふり返る”は、「過ぎ去った事柄を思い返す。回顧する」とはありますが、名詞の“ふり返り”はありません。広辞苑も同様です。間違いではないのでしょうが、啓蒙的な雑誌の特集では、できるだけ一般的な言い方をしてもらいたいと思いました。

 

(2)最初の記事のタイトルは、高橋一幸(神奈川大)「授業改善はじめの第一歩:自分の授業を reflection しよう!」です。”reflection” は、英和辞典では、「熟考して得た考え、意見、反省」などの定義がしてありますが、“ふり返り”とはすぐには結び付きません。明鏡辞典の「ふりかえる」には、「今日の試合を振り返って反省にふける」という例文があって、“ふり返る”には、“反省する”という意味は含まないように思えるからです。「これまでの授業の反省を、明日からの授業に活かすために」といった特集であれば、分かりやすかったのにと思います。

 

(3)2番目の記事は、金森強(松山大)「アクション・リサーチ(AR)で取り組む授業改善とSelf-study による教師の成長」ですが、本文を読んでみても、このタイトルと「特集」との関係がよく分かりません。“アクション・リサーチ”は、1つの指導法として立派なものと私は認識していますが、それならば、他の指導法にも言及すべきではないでしょうか。”Self-study” という英語を使用する意図もよく分かりません。『ジーニアス英和』には、“内省”という意味もあるのですが、やはり一般的な意味は、“独学”でしょう。廻りくどいタイトルは避けるべきではないでしょうか。

 

(4)太田洋(駒沢女子大)「授業中、コミュニケーションのために英語を使っていますか?―英語を使う場面とその姿勢、そのための英語の力をつける練習法」も長いタイトルですが、言わんとするところは分かります。教室英語(classroom English)を使用することは私も賛成ですが、その際は、「目的とタイミング」が明確であることが必要です。「何でも英語で言えばよい」といった考えでは、生徒の学力差を大きくしてしまうだけだと思うからです。

 

(5)太田氏の記事は、細かいところに配慮をしながら、熱心に自分の信じるものを説いていますが、まず“教室英語”の定義を明確にすべきでしょう。その他の記事でも、各執筆者は指導方法や問題点に関しての博識を披露しながら熱心に自説を述べていますが、「特集」としてのまとまりが感じられないのです。これは編集方針の責任でしょうから、もっと分かりやすい特集にしてもらいたいと編集者に要望しておきます。(この回終り)

(浅野 博)

“ESD とは何か?”を考える

Posted on 2012年9月14日

(1)昨日(2012年9月11日)、東京書籍発行の教育情報誌『教室の窓』(vol. 37)が届きました。その特集は、「持続可能な社会を構築する力を育てる―ESD の取り組み」となっています。まず、「“ESD”とは何だ?」と思う英語教員は少なくないと思いますので、まず、この用語の意味することを考えてみます。

 

(2)冒頭の記事は、三宅征夫(国立教育政策研究所名誉所員)「総論『学校における ESD に関する研究』の概要」を読んでみました。私は持論として、「啓蒙的な雑誌の記事はやたらと新語を使うべきではない」と考えていますが、教育学は1つの学問として、日進月歩の進歩をしていますから、新しい概念やそれに伴う用語が生まれて当然だと思います。

 

(3)しかし、私はこの最初の記事のタイトル「学校における ESD に関する研究」を見て、「教育現場で、ESD の研究がそんなに進んでいるのであろうか」と疑問に思ったのですが、記事をよく読んでみて、私の誤解であったことが分かりました。真意は、「“教育現場で ESD を活用するための”研究」といった意味だったのです。日本語でも英語でも、誤解しないように読む、または、誤解を与えないように話したり、書いたりするということは難しいことだと今更ながら思いました。

 

(4)三宅氏の記事によりますと、そもそも、ESD (Education for Sustainable Development:持続可能な発展のための教育)は、日本が 2002年に国連に提案して採択されたものとのことです。日本からの提案が、国際社会で認められるということは大変結構なことだと思いますが、私は、「提案内容にふさわしい教育実践がなされているであろうか」という不安を覚えるのです。文科省の教育方針を調べていると、文科省のサイトでは、「生きる力を育むために」という文言が踊っていることに私は疑問を感じました。

 

(5)そもそも、「生きる力」というものは、学校教育で教えられるものであろうか、ということです。教員が生徒の前で、「命は大切だ」とか、「生きることこそ立派なことだ」と語っても、どれだけ生徒の琴線に触れることが出来るのでしょうか?昔は、家庭で可愛がっていたペットが死んだとか、祖父や祖母の死亡を体験することで、命の大切さを実感することが普通だったのです。現在は核家族になって、そういう体験がしにくくなったからといって、学校教育で命の大切さを教えられるものであろうかという疑問はどうしても拭えません。

 

(6)文科省では、家庭科を「持続発展教育」の1つに挙げて、その内容の充実を目指しているようですが、TBS の番組(噂の東京マガジン)に、海水浴や買い物を楽しんでいるギャルたちに、「ドライカレー」とか、「アジのたたき」などを作らせるコーナーがありますが、とんでもない失敗作がほとんどで、うまく出来る人は10人中、1人か2人というのが、毎回の成績です。中学1年生程度の英語が言えない人が多いのといい勝負です。「持続発展」などとんでもないのです。

 

(7)文科省は、もっと地道に教育現場の実態を調べて、その状況に応じた対策を進めるべきだと思います。選挙ではあるまいし、耳に感じ良く響くスローガンを並べ立てることは止めてもらいたいと思うのです。教育現場を知らないお役人が作った文章ということは、読めばすぐに分かるのですから。(この回終り)

(浅野 博)