言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「英語教育」2009年1月号のこと(その1)

Posted on 2009年1月6日

 「英語教育」(大修館書店)1月号の特集は「変わるもの・変えられないもの」だ。この表現は幾通りにも解釈できて、「変わるもの」は「変わって当然なもの」「望ましくないが変わってしまうもの」「変わりにくいが、変えるべきもの」などが考えられる。編集部が執筆依頼の際にどう説明したかはわからないが、執筆者の解釈にはずれがあるようだ。それはともかく、冒頭の1編を取り上げてみたい。
三浦孝:学習者の成長欲求に応える英語教育
「成長欲求」は分かりにくい言い方(専門用語の訳は概して稚拙)だが、本文には解説があるので、私が問題にしたいのは、学校英語教育の目標に関してである。1月号が出た直後に高等学校の指導要領案の発表があって、マスコミがこぞって話題にしていた。しかも、多くが「英語の授業は英語で行う」ことに関してで、「英語を話せるようになりたいという国民的な要求に応えられる英語力が現在の英語の先生にあるのか」という問題提起がなされていた。ところが、三浦氏の記事では、「国民的要求」の捉え方が違うようだ。すなわち、永倉由里(2006) の調査を根拠に、保護者や教師の英語教育の目標に関する回答は、「実利的目標」より「人間形成的な目標」をより高く評価しているとしている。人間形成的な目標とは「自己と他者を適切に理解し、自己と他者の間に良好な関係を育てる」とある。詳しい調査方法を知らないであえて言うが、こういう項目を示されたら、「ああ、結構ですね」と考える回答者は多くなるであろうと思う。アンケート調査の難しい点だ。
 三浦氏も「英語運用能力養成」と「人間形成的目標」を二者択一で捉えるべきではないと注意しているが、難しいのはこの両者のバランスの取り方であろう。かつてグレゴリー・クラーク氏は「日本人は話す技術よりも、話す内容が大切だと言うが、それは話せないことの言い訳に過ぎない」と評したが、私はこの見解についてのまともな反論を聞いたことがない。中・高の英語教育はもっと技能教育に徹したほうがよいと私は思う。運動競技の監督やコーチは、選手並みの運動能力がなくても、的確な指示を与え、隠れた能力を引き出せることがあるので、英語教師もこういうコーチ力を持つべきだと考えている。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「中学指導要領解説(外国語)」のこと

Posted on 2008年10月28日

 文科省から表記の解説書が発表されたので、それについて考えてみたい。前回のブログでは「日本の教育は全体的に破壊状況に向かっている」と書いたが、「それだけにもっと視野を広くして考えよう」というのが、私のねらいで、「悲観的になろう」ということではない。まず具体的な対策としては、毎回の授業の改善が考えられる。そのために指導要領は大きな役割を果たす。教員が無関心でも、各地区の指導主事などは、拡大解釈をしてまでその徹底を図るような指導をすることが多いからである。
 私が問題にしたいのは、この「解説」は誰を対象に書かれているのかということである。「対象は英語教師に決まっているではないか」と言われそうだが、あまりにも内容が平凡で、少し経験の長い教師にはわかりきったことしか書いてない。しかも、英語教員になりたての人や、英語教員志望の大学生などが読んでもほとんどわからないであろう。指導要領で用いられている用語について、「言語活動とは何か」とか、「現代の標準的な発音とはどういうものか」といった疑問に対する回答は見つからないからである。しかも、文献からの引用もなく、そのリストを示すことさえしないから、無味乾燥な、言い換えにすぎない記述ばかりになるのである。こんな解説書は税金の無駄使いであると言いたい。
 時間数が「週3時間」から「4時間」に増加したことについても、「週3」は誤りでした、とは言わない。「身近な事柄について一層幅広いコミュニケーションを図ることができるようにするため」などと述べている(p.3)。「週3」がいかに中学校の英語授業をダメにしたかは、隈部直光氏が15年も前に詳しく指摘している(「週3時間問題が残したもの」「英語教育」1993年8月号参照)。氏が「残したもの」と書いたのは、この時期の改訂で、「週4」になることがほぼ確定したからである。その後、また「週3」に戻り、今度また「週4」にするというのである。こんなに方針がぐらつく文科省に日本の教育をまかせてよいものであろうか。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:英語教育批判について

Posted on 2008年10月23日

 「英語教育」(大修館書店)2008年11月号の FORUM には、3編の英語教育に関する投稿があるが、その1つを取り上げたい。それは「費やす時間とエネルギーに見合った英語習得プログラムを」と題する米原幸大氏(元コーネル大学客員日本語講師)によるものだが、私にはこのタイトルがよくわからない。このタイトルで連想するのは、「中学の英語の時間が週4時間になっても十分でないなら、4時間でできることをやればいい」といったことである。学習者についても、「お前はあまりがんばれないから(つまりエネルギーがないから)、今の程度でいいよ」ということになる。
 しかし、米原氏の論点はそうではなく、文科省は「中学・高校で英語でのコミュニケーションができること」および「大学卒業後、仕事で英語が使えること」を目標としており、財界もそういう要求をしているのだから、それに見合った英語習得プログラムにして実践せよと言いたいのだ。英語教員は「こういった目標は夢物語にしか過ぎない」と言うであろう、彼らの多くはそうしたレベルの英語力をつけていないからだ、とも書いている。
 米原氏の矛先は、そこから大学の英語教育へ向けられるわけだが、大学教員の言い分として、「英語は手段であり、英語で何ができるのかが重要であって、英語力向上そのものが目的になるプログラムは本末転倒である」というのがよく使われるとある。私はこんな言い分は、寡聞にして聞いたことがないし、もし聞いたとしても、「何を言いたいのかわからない」と無視するであろう。大学の英語教育も反省すべき点は多々ある。そのため東大、ICU、早稲田などで改革が進められてきた。でも現在では私立大学の4割くらいが、定員確保ができていない。したがって、英語重視の学科でも英語力がないとわかっている生徒を受け入れている。今の独立法人大学でも起こりつつある現象である。つまり、日本の教育は全体的に破壊状況に向かっていて、英語教育だけの問題ではないという認識がまず必要なのである。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「数の概念」について(その1)

Posted on 2008年10月6日

 「英語教育」(大修館書店)の 2008年10月号に「日本英語ウオッチング日記」というコーナーがある(編集の手違いかこのページは目次にない)。翻訳家のポール・レクター(Paul Rector) 氏が日本人英語学習者に英文を音読させると、複数形の S が消えてしまう現象について書いている。His friends や holidays の語尾の S が消えてしまうが、his とか Dallas や Texas の S は消えない。このことから、「ただ彼らは複数形の英単語は感知できないといっても、逆に他の単語の最後の S を残すことにより、英単語の複数形の充分な認知力を発揮していると思う」と書いている。
 この推測に私は賛成できない。学習者は、「この単語は複数形だ。日本語では複数形で言わないから S を落とそう」などという意識があるわけではないからだ。なぜ複数形の S だけが消えるのか。私の仮説は「単なる練習不足」ということだ。初期の英語教室では、先生が大きなカード(「フラッシュ・カード」)を使って、新語の発音や意味を導入することが多いが、「his」「has」「Texas」などは、文字のイメージと音がそのまま結び付きやすい。しかし、普通名詞でも規則的な複数形を練習することは少ないようだ。
 一方、英語を母語として獲得していく幼児でも発話の過程では、「3単現の(e)s」や「複数形の(e)s」を落とすことがよくある。日本語の幼児ことばの場合は、「マンマちょうだい」「ワンワン来た」のように助詞が抜けてしまうことが多い。文法的に重要な要素でも、コミュニケーションの目的が優先される段階では、許容されるのである。このコラムの筆者レクター氏は、日本語の初心者の頃は、複数形を意識すると「鉛筆達」「車達」と何にでも「たち」をつけてしまったとも述べている。これも中間言語としては自然な現象である。したがって、日本の大人もその点では同じだ。『明鏡国語辞典』は「人・動物以外にも使うことがある」として「花たち」「貨車たち」の実例を示している。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「文学教材」のこと

Posted on 2008年7月31日

 「英語教育」8月号(大修館書店)に、珍しく「教材論」の記事があった。「珍しく」と言ったのは、私は英語教育ではまともな教材論が存在しなかったのではないか、という印象をもっているからである。もちろん、無数といってもよいほど数の多い「論文」の中には、立派な教材論もあるのであろうが、浅学でその例を知らない。したがって、この雑誌の「英語教育—研究と実践」のようなページは有難い。この号では、2つの論文が紹介されている。大学と短大レベルにおける「文学教材」の使用とその効果についての論考で、紹介者は上田明子氏である。
 まず初めに、私が疑問に思うのは、いわゆる「英文科」出身の英語教師がだんだん少なくなっていく現状で、「文学教材」とか「英米の文学作品」といった言葉で、どの程度共通の認識が持てるかということである。昔は出身大学が違っても、英語教師であれば、「エッセーはだれだれ」とか「短編小説はだれだれ」といった共通点が少なくなかった。コミュニケーション重視の英語教育のなかでは、「ビジネス英語」の存在が大きくなっている。経済や経営を専攻した英語教員には、共通理解をもつのは困難ではないであろうが、逆に英文科出身者には、新聞英語(時事英語)などには関心があっても、商売上の取引の英語などはほとんど縁がない。私は、英語教師の背景が多様化することは、生徒、学生にとっても悪いことではないが、全体的な視野から構成したカリキュラムがないと、学習者の混乱を招くであろうと心配する。以前から大学の「一般英語」の授業では、あるクラスはシェークスピア、隣のクラスは英字新聞、また別のクラスは会話教材と内容も、評価基準もばらばらだったことがある。
 上記論文では、ある期間の指導の後のアンケート結果も紹介されているが、ほぼ80% 以上が「文学教材」の使用を支持している。ただし、回答者が10名と極端に少ない。本当は、1年後に自分で選んだ文学作品を自力で読んだといった結果がないと効果的とは言えないであろう。
(浅 野 博)