言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:英語教育と「語法(研究)」のこと

Posted on 2009年9月3日

(1)言語を教える場合には、その言語の「語法」や「語法研究」が重要であることは否定できない。「語法 (usage)」は、「言葉の使い方」または「使われている状態」のことだ。「ことば」は一筋縄ではいかない生き物なので、その研究は大事だが、学習者に必要な“語法の知識”とは別なものと考えなければならない。
(2)ごく一般論だが、中学の英語教師は指導法に関心が強く、高校の教師は語法に強いと言われたものである。生徒の学習段階から言っても当然の傾向かも知れない。語法に関心があるのは悪いことではないが、「こだわり過ぎる」としたら、あまり感心できない。
(3)例えば、「…に遅刻する」という言い方では『ジーニアス英和』では、前置詞はfor, to, with が示してあって、例文では、「学校に遅れる」は”for school” 「支払いが遅れる」は “with the payment” を示している。『フェイバリット和英』では、「彼は約束の時間に遅刻してきた(He came late to the appointment.)」を示している。前置詞にこだわる教師は、こういう区別を厳しく教えて、試験問題にも出したりする。
(4)しかし、“コミュニケーション”の視点からは、to でも for でも通じる場合が多い。私が昔教わったアメリカ人の先生は、 “Don’t be late to class.” と言っていた。こういう点では日本語のほうが、許容度が大きい。母語の場合は、お互いに“ことばを超えた”理解し合う力が働くから、特に「話しことば」では、「どちらでもよい」という姿勢が強くなる。したがって、英語のような異言語を学び始めて、語法に厳密な指導を受けると、何かすっきりした気分になって、自分が教師になって教える立場になると、上記(3)の教師のようになる可能性が大きい。
(5)英語教育で“コミュニケーション能力”を伸ばそうというなら、正しい前置詞を選ぶような試験問題ではなく、ある程度の長さの英文を書かせて、「何を伝えようとしているか」「それが英語母語話者にどこまで通じるか」という観点から採点するような配慮が必要であろう。
もっともこの問題は、昔から “Accuracy or Fluency?”(正確さか、流暢さか)ということで論じられてきたのである。議論をしてしっかりした結論を出すということを嫌う日本人の性格が無駄な時間の経過を生み出しているのだと思う。(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「<安・楽・簡>の学習法」のこと

Posted on 2009年4月3日

 前回、“かんたん”のことを書いたときに、英語教育でもそんな言い方をしていたのではないかという記憶があったので、調べてみた。「英語教育」誌(大修館書店)の2004年8月号の特集が「<安・楽・簡>夏休み学習法」となっていて、英語教員を対象に、安く、楽に、簡単に英語を学ぶ方法を説いているものだった。そこには、携帯電話、電子辞書、パソコンなどの使用を勧めているものが多いので、やはりデジタル化と無縁ではないわけだ。
 冒頭の松本青也『安くて楽しく簡単な英語学習法』は、あまり賛成できない。私は松本氏の英語文化論には敬意を表しているが、ここでは、「楽」を「楽しい」としており、英語が話せないのは Input ばかりで、Output のレベルが極めて低いからだとしている。そして、「対策はただひとつ、Input された情報をすぐに Output してみることだ」と述べている ( p.9 )。そのためには、利用できるインターネットの様々なプログラムやメールがあるではないか、というわけだが、ここでまたデジタル化にぶつかる。英語教員は機器の使用には、得手、不得手の差が大きく、得意でない者には決して「楽な方法」ではないであろう。母語の習得を見ても、Output ができるまでの Input の期間は長く、その量もとても大きい。教科書の予習程度で、 Input の量がほとんどない者が、Output がうまくいくはずがない。
 どうもデジタル機器に強い教員には、「こんな簡単なことはだれにもできるはず」という思い込みがあるようで、前回も指摘したように、この態度は指導される生徒にも悪影響を与える場合があると思う。外国語の学習は、どこかで「苦しい努力」を乗り越えなければ、「楽しいもの」にはならないことも教えるべきだ。情報化時代だから、確かに安い情報が周囲にあふれていて、それを利用することは、教師の義務とも言えるだろう。しかし、それならば、教員養成の方法から考え直す必要があるわけで、現状のままで、「デジタル機器を活用すべし」という結論だけを押しつけるのは効果的でないということを強調しておきたい。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:外国語学習開始の年齢のこと

Posted on 2009年3月19日

 「英語教育」(大修館書店)の2009年4月号の特集は「今年の授業開き〜生徒にこんな<ことば>を投げかけたい〜」である。各執筆者がその経験を生かして工夫をした、自分の生徒に投げかける<ことば>には、感心こそすれ、ケチをつける気はない。「『やる気』という木に『根気』という木を接木して、毎日『ナニクソ』という肥やしをやり続けるていると、勉強の木にいつか立派な実(=成果)がなります」(海木幸登氏、p.10)などは、思わず笑ってしまう。
 ただし、経験の浅い教員や英語教員志望の大学生などが、こういう実例を読んで、そっくりそのまま真似することは止めたほうがよいのは当然であろう。自分の生徒は他の生徒とは違うということを意識して、その生徒にふさわしい<ことば>を経験を積みながら考えていくことがことが大切なのだ。
 ところで、この号からピーター・ロビンソン教授(青山学院大)が、第2言語の習得について1年間連載されるとのこと。第1回は、学習開始年齢と外国語教育の成果の度合について、カナダの “immergion program” と”Barcelona Age Factor (BAF) project” の紹介をしている。前者は日本でも実践の記録があるが、やはり一般化するには特殊過ぎる。後者は、このことを取り上げた書物があるようだが、8歳の児童と 11歳の児童の比較では、週3時間の授業をして、聴解テストでは差がないものの、クローズ・テストでは、11歳児のほうが成績が良く、全体的により速く、より高い英語のレベルに到達したという。11歳くらいになると、8歳児よりは知的能力が高くなるので、特に「読むこと」の能力を要求されるクローズ・テストでは成績の良いのはむしろ当然であろう。母語のテストで、小学2年生が5年生より成績が良かったら、異常事態である。
 日本ではやたらと英語を早く学ばせようとする傾向があるが、せいぜい小学校の5,6年でよいのだ。しかしながら、年間で35時間の授業ではほとんど期待はできないのではないか。その点、文科省の管正隆氏の連載記事(小学校「外国語活動」発進!p.39)は問題意識が薄いように感じる。「外国語活動」と言うからには、他の言語でも、「英語ノート」に当たるものを作成しているのか?どういう外国語にどのくらい予算を割いているのか?こういうことを明確にしてから、「外国語活動」を語ってもらいたいと思う。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「自分を見つめ直すこと」について

Posted on 2009年2月19日

 スポーツ選手はたいてい30代で引退するから、それからの長い人生をどう過ごすかを考える必要があることはよくわかる。「自分を見つめ直すために長い旅に出る」などと、引退した選手が言うとカッコいいとも思う。でもそんなことが出来る選手は極めて数が少ない。まずお金と時間の余裕が必要だ。だから多くの英語教師には夢のような話だ。学校では30代になると、校務は増えるし、家族もいる。2,3年留学したいと思っても困難な場合が多い。
 こんなことを考えたのは、「英語教育」(大修館書店)の2009年3月号の特集「英語教師として自分を見つめ直す方法」を読んだからだ。まずそんな「方法」があるのかと疑問に思った。
主要記事のタイトルから、専門用語と思われるものを抜き出してみると次のようになる。
「リフレクティブ・プラクティス」「アクション・リサーチ」「ポートフォリオ」「言語教師認知研究」「FDの挑戦」「Can-Do フィードバック」「教師バーンアウト」
 私などへそ曲がりだから、この特集は「こういうことを知っているか?知らなければ勉強せよ」と言っているような気がして、「やれやれ反省するのも大変だ」と思ってしまう。私なら、「短時間でも禅寺で座禅を体験してみよう」とか「高い山の頂上で大自然を眺めてみよう」とか言ってみたい。多少でも余裕があるなら、行ったことのない、英語圏以外の国へ行って、全く違う言語を話す人々の雰囲気に触れるのもよいであろうと思う。大昔から、「己を知れ」と言われてきたのは、それがいかに難しいかを語っているのではなかろうか。
 まるで、教育ママにせかされる子供のように、免許更新だ、研修会だ、TOEIC だ、英検だ、とせかされている教員に「もっと勉強せよ」とは言いにくい気がする。もちろん、英語教師に勉強が不必要とは言わないが、勉強は強制されたのでは効果が上がりにくいということは、教師が一番知っているのではないかと思う。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「英語教師はまず英語力をつけよ」について

Posted on 2009年2月12日

 英語教師はどういう資質を持つべきかは、大きなな問題だが、教科別に担当する教師は、まずその教科についての知識を持ち、それを教える能力が必要なのは当然であろう。「英語教育」(大修館書店)2009年2月号の「英語教育時評」で、斎藤兆史氏は結論的に次のように書いている。
 
 昨今の英語教育をめぐる学理的な議論では、何とか「仮設」やら何とか「ストラテジー」やら、小難しい抽象概念ばかりが飛び交っていて、肝心の「英語」そのものがさっぱり見えてこない。(おっとまた説教癖が出てしまった)。2009年こそ、英語を学び、英語を教えることの原点を見つめ直すべき年にしようではないか。(p.41)

 私としても大賛成である。もう30年も前に、変形文法が盛んだった頃、恩師の安井稔先生は、「チョムスキー読みの英語知らず」ということを言われた。チョムスキーの理論は解説できても、英語そのものが読めない、書けないという研究者を批判されたわけだが、そういう研究者は、少なくとも英語を教える資格はないであろう。
 ただし、そういう偏った英語教師を産出しているのが、大学ではなかろうか。ここ10年ほど前からはは、教育実績ということも評価の対象に加えらるようにはなったが、大学教員の採用でものを言うのは、「仮説・実験・結論」といった形式のととのった学問的な論文である。教育実績というものも客観的評価は難しいが、論文の数だけを重視したのでは良い英語教員は採用できないであろう。
 「教え方のうまい」教員は、実例をすぐに思いつくから、抽象的な言辞を弄することはしない。好例として、太田洋『英語を教える50のポイント』(光村図書、2007)を挙げたい。著者は長年の中学校における英語教育の経験を生かして、現在は駒沢女子大学の教員だが、こういう先生に教わる大学生は幸せだと思う。英語学習者の年齢に応じた理屈も必要だが、まず英語そのものを教えられる教員を増やさなければ、英語教育の効果は期待できないのではないか。斎藤兆史氏の主張する「原点」をそう解したい。
(浅 野 博)