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浅野:英語教育批評:「大山鳴動して・・・」

Posted on 2007年5月29日

 5月中旬に、人気テレビ番組の1つ「学校へ行こう」(TBS系)では、武庫川女子大附属中学高校を紹介していた。女生徒のみ2,500名という大きな学校だが、特に部活が活発で、マーチングバンドやバトントワーラーの演技など見事だった。授業でもいろいろな試みがなされていて、「スーパー・サイエンス・ハイスクール」として理科教育では特別な実践をしているようだった。
 5月20日の早朝には、「表 博耀(おもて・ひろあき)の華麗なる挑戦」(フジテレビ系)を見た。このアーティストは“温故創新”をモットーとしていて、茶道や衣装などの新しい創造美は、イタリアやフランスでも注目されているとのこと。
 こういう活躍を知ると、日本も捨てたものではないという気持ちになり、若い人たちへの期待も高まる。ただし、現在の日本は良いところばかり見て喜んでいられないという現実がある。英語教育だけに限ってみても、戦後60年の歩みは、なんと紆余曲折の道のりだったことか。英語教師に主体性がないからだという批判は甘んじて受けよう。しかし、指導的立場にあった人たちにも責任はあろう。サマセット・モームは『サミング・アップ』の中で、「バートランド・ラッセルは文章がすばらしく、好みの哲学者だった」としながらも、読み進むにつれて、彼の注文が次々と変わる様子を述べて、首尾一貫していないと指摘している(行方昭夫訳『サミング・アップ』岩波文庫、p.296)。
 英語教育を導いてきたのは、一人の人間ではないが、「注文が変わる」点は似ている。「訳読式でよい」「実用的な英語を」「せめて会話ができるように」「コミュニケーション能力を」「英米一辺倒からの脱却を」「文法をがっちりと」「国際英語を学ぼう」「英語教育は小学校から」「小学校ではもっと国語を」などなど。「大山鳴動してねずみ一匹」である。これはやはり教育政策の失敗、つまり政治の責任ではないか。もっとも、年金問題と同じで、過去の責任はだれも取ろうとはしないのが政治なのであろうが。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:“授業以前”のこと

Posted on 2007年5月15日

 国会での最低賃金などの議論を聞いていると、政府・与党の姿勢として、「働く意欲のない者を国が援助をすることはない」という姿勢が読み取れる。これは何も今に始まった考え方ではなく、昔から「働かざる者食うべからず」と言われてきた。最近では「働く気がない人に税金を使うなんて」というタイトルの記事が週刊誌に出ていた。野党もそう考えているであろう。ただし、「働くことのできない人たち」への配慮にはかなり違いがあるように思える。いずれにしても、教師の立場からは、政治家は気楽なものだと言いたくなる。なぜなら、学校の教師が「勉強する意欲のない者は学校へ来るな」などと言ったら世間から猛烈な非難を受けるであろう。つまり、教師は学ぶ意欲のない生徒には学ぶ意欲が湧くようにしむけるのが当然だと思われている。 
 「英語教育」(大修館書店、2007年1月号)の「菅先生に聞こう!授業の悩み Q & A(第22回)」では、“授業以前の生徒”(勉強などする意欲のない問題の生徒)のいるクラスでの対応の仕方をいくつか提案しているが、すぐに授業に入れない生徒は生活習慣が身についていないことを指摘している。国立教育政策研究所の調査によると、「朝食をとる生徒」や「学校へ持参すべきものを事前に確認する生徒」は、そうでない生徒よりも全体的に学力が高いとのこと。生活習慣というのは、就学前から家庭でしつけなければなかなか身につかないものだが、遠足とか給食とかの場面は、学校としての責任を果たす機会でもある。でも、遠足に弁当を持たせないとか、給食費を払わないといった“しつけ以前”の親の問題があるのが現在の社会だ。
 菅正隆氏は「授業内の活動にも時間制限を設けるなど、メリハリのあるものにする」ことを提案している。これは当たり前のようで、大事な指摘だと思う。毎日の授業を同じような方法で繰り返していると、ついマンネリ化してしまう。「メリハリをつける」というのは、教師自身にとって大切な要件だ。まずできることから始めたい。
(浅野 博)

浅野:英語教育批評:新入社員の傾向とは

Posted on 2007年5月8日

 オリコンの調査によると、今年度の新入社員には、「上司にタメ口をきく」、「ガムを噛みながら会社の電話に出る」、「勤務時間中も自分の携帯電話でメールをする」といった困った傾向があるという。そこで「ザ・ワイド」(日本テレビ系)では、各社の先輩社員 300名に、そういう無作法を経験したかどうかを調べたら、約三分の一が「ある」と答えたとのこと(4月24日放送)。
 団塊の世代が次々と退職していくなかで、新人がこういう状態では、会社の運命どころか、日本そのものの将来が危ないとさえ思える。そして、教育界も例外ではないであろう。もう10年も前に「今年の新人教員は先輩の言うことなど聞こうとしないから、ほとんど話はしません」という中堅教員の声を聞いたことがあった。
 企業であれば、業績が上がらなくなって経営危機になれば、自業自得だから反省のきっかけになるかもしれないが、教育ではその前に生徒が犠牲になる。そういう生徒が成長していけば、さらに事態は悪化するばかりであろう。「免許の更新制によって、能力のない教員は排除する」と政府は言うけれども、首になる教員が多いと、自らの監督責任を問われることを恐れて、教育委員会の隠蔽体質が動きだすであろう。
 黙々とやるべきことを果たしている教員も少なくないことを信じたいが、教員は問題点と解決方法を考える必要がある。1つの方法は、「英語教育」(大修館書店)の5月号が特集しているように、「英語教育の『連携』を考える」ことだ。しかし、水をさすようだが、もう50年以上も前に、私が高校教員になった頃から、「中高の連携を」などは繰り返し言われてきた。しかも、今の社会は「競争原理」優先である。学校も、面倒な「連携」をするくらいなら、中高一貫校にするとか、「教育特区」になるとかして、成果をあげたほうが早いと考えているのではないか。“日暮れて道遠し”である。
(浅野 博)

浅野:英語教育批評:「英語に強くなる」

Posted on 2007年5月1日

 こんなタイトルは、本や雑誌で何回となく繰り返えされてきたが、最近読んだ畑村洋太郎『数に強くなる』(岩波新書、2007)にあやかってつけてみた。「数」は「すう」ではなく、「かず」であるところにも特徴があるのだが、学科としての数学は英語と似ていて、得意な生徒と嫌いな生徒がはっきりしている。ただし、英語は学び始めるときは、ほとんどの生徒が強い関心を示すのに、1年もすると嫌いな生徒が急増する。数学の場合は、小学校から学んでいるが、小数や分数が出てくる頃から計算の好き嫌いがはっきりするようだ。そこで、この書物には次のような箇所がある。

 学校でも会社でも、「計算は速く正確にやれ」「厳密な答えを出せ」とばかり言われる。そうして、みんな頭がくたびれて、いつしか数がキライになっていく。「それはあまりにモッタイナイことだ」と筆者は思うのである。(p. 12)

 英語も同じように、「誤りを恐れずに話しなさい」と教室では言いながら、試験になると少しの間違いでも減点する教師が多い。指導者の態度や考え方でずいぶんと「英語嫌い」は救われるはずだ。しかも、「数」も「英語」も社会が必要だと要求している。
 しかし、問題はもっと深いところにあるようだ。「英語教育」(大修館書店)2007年5月号で、江利川春雄氏の「英語教育時評」は、結びで「すべての子どもたちに外国語の基礎力をつけさせたい。そう願うならば、指導法の改善にとどまらず、足下に広がる格差社会の解消に向けて取り組みを強めなければならない」と述べている。しかしながら、「民主主義社会」を肯定するならば、どうしても「格差」が生じるのはアメリカが実証済みだ。徒競走のように出発点だけは平等にしようとはしているが、貧富の差はきわめて大きい。日本も似たような社会になってきた。それにどう取り組めばよいのか。選挙は確かに有効な手段だ。でも日本では有権者の四割程度しか投票による意思表示をしない。考え出したら悩みはつきない。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:英語教育と「生活保護」

Posted on 2007年3月26日

 自分でもおかしな題だと思うが、理由は読めばわかっていただけると思う。テレビでは家庭の家計診断をやることがある。例えば、年収400万円ほどの4人家族で、貯金が全く出来ない場合、どこをどう切り詰めれば少しでも余裕が出るかといったことが相談の対象になる。「生活保護」を受けている母子家庭などの場合は、切り詰めようがないから、いかに困っているかを訴えるルポルタージュになることが多い。
 実は「英語教育」2007年4月号(大修館書店)の特集「授業名人に聞こう!〜年度初めのこんな時どうする〜」を読んで、そんな連想をしたのである。忠告の内容そのものは間違ってはいないのだが、今ひとつピンとこない気持ちが残った。
 例えば、「今年の中1は能力差がありすぎになりそうです」(これは変な日本語)という問題について、「…自己表現のある授業を展開し、『互いに学びあう生徒』『自分や相手の存在を大切にする生徒』『英語で自己表現やコミュニケーションを楽しむ生徒』を育成したいものです」と言われても、「それが出来ないから困っているのです」と私が質問者だったら言いたくなる。個別面談ではないので、これは一般論の限界なのであろうか。
 もう1つ感じたのは、この特集で指摘されているような諸問題が、相互にどう関係し、それがどこから生じているのかという、全体的な俯瞰図のようなものを認識する必要性である。「生活保護」はこれだけを論じても意味がない。「労働基準法」「最低賃金」「年金問題」「超過勤務」など関連することを総合的に問い直すことが必要なのだ。現在の多くの教育問題は、文科省の進める「学校の多様化」と深い関係がある。賛否は別として、「多様化」にはどういう長所と短所があるかを把握しておくべきだ。3月21日の夜のNHKの「“学校”って何ですか?」はかなり総合的に教育の問題を追及していた。もちろん、それで問題が解決されたということではないが、取り上げ方には学ぶところがあったように思う。
(浅 野 博)