スピーキングの指導
(1)中学や高校で英語を学ぶ日本人の学習者のほとんどが、「英語を話せるようになりたい」と思っているようです。しかし、彼等の望みがかなう可能性はとても低いのが一般的でしょう。その原因はどこにあるのでしょうか。まず英語教師が反省する必要があります。十年一日のように受験問題ばかりやらせる教師もいれば、発音などお構いなしに、訳読式の教え方しかしない教師もいるからです。しかし、現在の学校教育のような制度では、教師だけに責任を負わせるのは酷な面があると思います。
(2)教師は指導方法に迷ったら1つの手掛かりとして、過去の文献に当たってみることが必要でしょう。私は、馬場哲生編著『英語スピーキング論』(河源社、1997)を推薦したいと思います。これは、「英語教育研究リサーチ・デザインシリーズ」の一冊で、この「シリーズ」については、以前にも言及したことがありますが、単に指導法を説いている本ではなく、ましてや「会話のテキスト」などでもありません。
(3)最初の4つの章のタイトルを見るだけでも、その意図が推察できますから、ここに紹介しておきます。第1章 本書の背景、第2章 英語スピーキング―教室からの問題提起、第3章 スピーキングについて何が言われ、何がわかっているか Ⅰ 研究概観、第4章 同Ⅱ 個別研究の紹介(以下略)
第2章の実例としては、「ある高校で教えているL先生(日本人)が、顧問をしているバレーボール部の1年生から、「M先生の発音がひどい」と訴えられて、
L先生は、「M先生の英語でもアメリカ人に通じるのだから、きれいな発音でなくても、話す内容が大事だよ」といった趣旨のかなり苦しい答弁が紹介されています。こういう例は少なくないでしょう。
(4)近頃の高校生は、映画やテレビで、英語を母語とする人の発音をよく耳にしていますから、日本人的な英語の発音にはすぐに気づくのです。しかし、「発音よりも内容のほうが大事だよ」ということでは納得してもらえないでしょう。日本の大学で教えているアメリカ人の教授から、「日本人の同僚には、英語を話す場合は発音なんかより中味が大切だと言う人がいるけれども、“相手に我慢を強要するような会話”は、真のコミュニケーションではない」と私は言われたことがあります。やはり“通じやすい発音”を心がけるべきだと思います。
(5)中学校(英語)の「学習指導要領」では、「英米の標準的な発音」とあるだけで、「どういう発音が標準的なのか」については説明がありません。一方、「日本アジア英語学会」の会員の中には、「日本人の英語はアジア諸国で通じればよいので、英米人を相手にする必要はない」といった極端な意見の人もいます。日本の英語教育の効果が上がらないのは、関係者の見解がばらばらで、基本的な事項についてもコンセンサスが得られていないことにあると私は考えています。
(6)都会に住む生徒は、英会話学校に通う例も少なくないようですが、そのような生徒が、「会話学校では結構話せるつもりだけれど、家に帰ると全然ダメだ。何をしていいかも分からない」と不満を漏らしているのを聞いたことがあります。“英語を話す力”は機会がないと急速に衰えることも事実のようです。雰囲気というのは、“話す”場合ばかりでなく、“聞く”場合にも重要で、私はアメリカに滞在中は映画の英語が結構分かったのに、日本に帰ったら字幕に頼らないとよく分からないことが多くなりました。それでは、日本語環境の中にいる生徒は家では何をしたらよいのでしょうか。
(7)私が薦めたいのは“音読”です。教科書や副読本の中で興味を感じた話を音読するのです。その話の録音テープなどがあれば、よく聞いて真似をしてみるのもよいでしょう。英会話のテキストを暗記することは薦めません。例えば道案内の会話などは、違った場面ですぐに応用できるものではないからです。英作文の時間の和文英訳をしっかり勉強したほうがましです。最近は、中学校の検定教科書でも、”Well….” とか、”Let me see….” のような繋ぎの言葉を教えていますが、私は賛成出来ません。そんな言い方を覚えて使うことは特に初心者には必要ないと思います。(この回終り)
(浅野 博)
「スローラーナー」の指導を考える
(1)私が高校の教師になりたての昭和30年頃にも、研究会などで「“遅進児”の指導について」といったことは話題になっていましたから、この問題は英語教育の長年の課題と言ってよいでしょう。今回、「英語教育」(大修館書店)の2012年7月号が、「スローラーナーに寄り添う」という特集をしていますから、半世紀の間に、遅進児問題がどのように変化したであろうかと、とても関心を持ちました。
(2)個人的には、“寄り添う”という言い方は好きではありません。寝たきりの老人の介護を連想させるからです。私は寝たきりの高齢者やその介護のことを軽蔑するつもりは毛頭ありませんが、教室の指導でそういう“介護”が必要ならば、とても普通の教員が担当できることではないと思うのです。そこで、特集の2番目の記事、三木さゆり(大阪市立長吉中)「特別支援教育の視点を取り入れた英語指導」を読んでみました。
(3)私が繰り返しこのブログで要望しているように、「英語教育」誌の執筆者は、「このくらいは知っているのが当然」という上から目線ではなく、まず基本的なこともしっかり定義をして書いてもらいたいのです。文科省のホームページによれば、「特別支援教育とは障害のある生徒児童の社会参加に向け主体的な取組みを支援するという…」とあります。お役人らしい長たらしい文章が続くのですが、私が気になるのは、「障害のある生徒児童」という言い方です。
(4)「学習障害」(learning disorder)という用語は、私は教育心理学の本か何かで知った覚えがありますが、今では広辞苑にも載っています。アメリカでは、1960年代からその研究や対策が始まったようです。知能指数が特に低いわけでもないのに、文字を読むとか、簡単な計算をすることなどが出来ない児童がいることが分かって、特別クラスを設けたりして指導しだしたようです。
(5)上記の三木氏の記事では、「授業の見直しは、こんな小さな配慮から」という小見出しで、「視覚的な読みの問題なら、板書やプリントを見やすくします」とあります(p. 15 )。アメリカで学習障害者の対策が始まったのは、「文字が読めないのは目が悪いのだろう」と考えた親がその子を眼科医に連れて行ったのがきっかけとされています。つまり、見えているのに“読めない”学習障害児童の発見になったのです。実際には、視力が弱くて板書の文字が見にくいのに、メガネやコンタクトをするのが恥ずかしい生徒もいるでしょう。しかし、そうした生徒は、“スローラーナー”の範疇には入れないほうがよいと私は思います。
(6)最初の記事は、泉恵美子(京都教育大)「スローラーナーのつまずきの原因を探る」という題です。言葉尻をとらえるようで失礼ですが、スローラーナーが学習につまずくのは当然ですから、普通の学習者がつまずいて“スローラーナー”になるという意味なのか私にはよく分からなくなりました。氏は「(生徒が)発達障害・学習障害などを抱えている」場合は、教師がいち早く学習の困難さやつまずきに気づき、個別指導を行う必要がある」と述べています( p. 11 )。そうなると、普通に何時間も授業を担当している教師には無理な話ではないでしょうか。制度上の対策が必要なのです。
(7)「英語教育」の2011年2月号が、「英語のリメディアル教育」を特集した時に、私は50年前の滞米中の経験として、引退した経験豊かな教師を再雇用して、普通クラスの倍以上の時間をかけてリメディアル教育を実践している場合を紹介しました。こうした制度上の裏付けが無ければ、とてもスローラーナーに対応することは出来ないと思います。今回の特集の記事はどれも前提がばらばらで、指導技術上の問題を論じているものが多くなっています。少なくとも特定の教科に関係のない一般的対策と、英語教育の問題は分けて論じるようにして欲しかったと感じています。(この回終り)
(浅野 博)
ドナルド・キーン氏から学ぶこと
(1)ドナルド・キーン氏が5月8日(2012年)に日本の国籍を取得したという報道がありました。カタカナ表記では、「キーン・ドナルド」としていますが、ここでは、「キーン氏」で通すことにします。インターネットなどで見るキーン氏は89歳とは思えない元気な姿で、満面に笑みをたたえていました。これまでも、欧米との間を行き来しながら、日本にも長いこと住み、数々の賞や勲章を受けているわけですが、今回は、東日本大震災の被災地を訪れて、被災者を励ましたいと意気込んでいるとのことです。
(2)キーン氏は数多くの書物を書いていますが、私も何冊か読んだ覚えがあります。日本人がいつも日本文化の中に浸かっていて気付きにくいことが、異文化の人を通して見ると分かりやすいということがあります。手元には、『日本人の質問』(朝日選書、1983)がありましたので、それを読み直しながら、英語教育にも参考になる問題点を考えてみたいと思います。
(3)まずこの本は、「当惑―何たる好奇心」と書き出してあります、「日本人は好奇心の旺盛な国民として世界に知られている」が、それも決して新しいことではなくて、1811年に現在の北方領土の一部であるエトロフでロシア軍人たちを捕えた時には、日本の役人は間断なく尋問したというのです。それは拷問などではなく、ロシア語のことを知りたいという好奇心からのものだったと書いてあります(p. 5)。
(4)第2次大戦の日本の敗戦後数年で、私はある県立高校の教壇に立ちましたが、ほとんどの生徒が英語を学ぶことに強い関心を示してくれました。あのような知的好奇心は、今はどこへ行ってしまったのでしょうかと淋しくなることがあります。キーン氏は、「日本語を勉強するようになった動機は何ですか」をよく尋ねられる質問の最初に挙げていて、あまり頻繁に尋ねられるので、ウソをついたこともあるほどだったと告白しています(p. 8)。
(5)日本のことを「東洋の小さな島国」という程度の知識しかない外国人が、「日本語を勉強している」とか「日本語を話せる」と聞くと、「一体なぜ?」と尋ねたくなる気持ちも分かるような気がします。キーン氏はいろいろ説明していますが、戦時中に海軍の施設で日本語の特訓を受けていますから、大きなきっかけは戦争であったと言えるでしょう(日本が英語を敵性言語として排斥していた頃に、アメリカでは敵国である日、独、伊の言語が話せ、文化が分かる将校を養成していたのです)。
(6)次の質問は、「日本語はむずかしいでしょうね」です。「日本語は特別な言葉だ」とか、「伝統的な日本文化は外国人にはわかりっこない」と思いこんでいる日本人が少なくないのも確かだと思います。それは自負心と劣等感が入り混じった複雑なものですが、この心理状態は英語学習にもかなりの障害になっていると私は考えています。キーン氏は、日本人の友人ができたのが31才の時で、それまでは、くだけた日常会話をしたことがなかったので、「丁寧過ぎる日本語」のほうが使いやすかったと述べています(p. 14)。ある言語を外国語として学ぶ人たちは、多少不自然でも丁寧な話し方をすべきだと私は思っていますから、キーン氏の立場はよく分かりますし、それでよいのだと考えます。
(7)キーン氏は次のようにも書いています。「日本人はアメリカ人の無知を残念に思うと同時に、外国の教科書に人力車の写真が載っていると知ると、どうせ日本は外人に理解してもらえないというあきらめと、一種の軽い優越感を覚えるようである」(p. 167)(ここで言う人力車は、現在でも東京の浅草あたりで見られる観光客向きのものではなく、自動車の代わりに日常使われている状況を指しているものです。)そして更に、「数々の希望と数々の失望の末、善意ある人間の努力によって理解を得ることは不可能ではないであろう」と結論しています。私も同様な思いを強く抱くものです。“国際理解”や“異文化理解”はいつの時代でも簡単なものではないからです。(この回終り)
(浅野 博)
「英語で表現する力」の問題点を考える
(1)「英語教育」誌(大修館書店、2012年6月号)の特集は、「新課程で育てる英語で表現する力」です。高等学校の場合は、科目名がよく変わりますから、特に中学校の教員にその変化を知ってもらうことは大切だと思います。ただし、「新課程で育てる」とわざわざ言わなくてもよいのではないかと私は思いました。英語教育では、教える側も学ぶ側も、「表現力をつけたい」と思うのが普通だからです。
(2)最初は、平木裕(国立教育政策研究所 教育課程調査官)「生徒の『英語で表現する力』は今―現状と改善点」です。冒頭にふさわしいタイトルで、特に平成17年度に国立教育政策研究所教育課程研究センターが実施した調査結果の解説と課題を述べているものです。この調査については、ダウンロードできるURL も紹介してあります。ただし、多量のデータですから、各執筆者が、「調査結果(または問題) 3 については…」のように、この調査に頻繁に言及していますから、手元にプリントアウトしたものを持っていても、いちいち参照するのはとても時間がかかりますし、参照しないと記事がかなり読みにくいのです。
(3)特集の最後の記事は、前田啓朗(広島大学外国語教育研究センター)「国立教育政策研究所『特定の課題に関する調査(英語:『書くこと』)(中学校)の概要と結果報告」ですが、こういう記事は最初の方に載せるべきではないでしょうか。この報告は、4ページに渡って、各問の通過率や無回答率などを紹介していて参考になりますが、「調査資料」との照合はとても面倒です。
(4)公開されているこの調査資料には、「無断転載を禁じる」とか、「版権上削除された問題があります」という注意がありますから、この資料は完全なものではないわけです。それならば、編集部はそういうことを最初に断るべきだと思います。執筆者の言及も断片的なものが多いですから、「“英語で表現する力”を育てる授業実践」といった特集の方がすっきりします。
(5)その好例は、山岡憲史(立命館大)「高校英語の新しい科目『英語表現』―その特徴と指導法―」でしょう。「英語表現」がこれまでの「OC(Oral Communication) Ⅰ」とどう違うかを述べて、具体的な授業の進め方を説いています。これなら、「資料」と関係なく読めます。また、大井恭子(千葉大)「まとまりのある文章を書かせる指導」も、「調査資料」に言及はしていますが、やや長い英文の誤答を例に、”cohesion”「結束性」と”coherence”「(意味的論理的)一貫性」の観点からの指導法を述べています。内容も重要ですが、実例の示し方が分かりやすくて、読みやすい記事だと思います。
(6)根岸雅史(東京外語大)「まとまりのある文章を書くための下位技能―その現状と課題―」は、テスティングの専門家らしく、細かい問題点をよく指摘していると思いますが、やはり「調査資料」への言及が多く、読みにくい点があります。それはともかく、私には、「そもそも、疑問文、否定文、句読点などの使い方は、選択肢のある客観テストなどで測れる「表現力」なのでしょうか、という問題意識があります。この「調査」では、従来型のテスト(You have played it for a long time? を疑問文に変えるもの)の他に、やや自由に書かせるテスト形式も採用していますが、発想そのものの自由を制限しておいて、短い文脈で”“否定文などを書かせられた英文”が、“その生徒の実力でしょうか”という点にも疑問を感じるのです。(この回終り)
(浅野 博)
「日本語が亡びるとき」を考える
(1)水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008)という本があります。出版当時かなり話題になった本で、「英語教育」(大修館書店)にも書評が載りましたから、お読みになった教員もいることでしょう。題名はかなりショッキングなものですが、著者は、「なぜ日本語が亡びるのか」を冷静に論じています。
(2)A5版、300ページ以上の書物で、その内容をすべて論じることは出来ませんから、最後の第7章の「英語教育と日本語教育」を中心に考えてみることにします。この章の冒頭で、著者は「凡庸だが日本語が亡びるのを避けるためには学校教育に頼るしかない」として、これまでの日本語教育、すなわち国語教育を痛烈に批判しています。例えば、文学の考え方は、「詩的なもの、ロマンチックなもの、エロチックなもの」であり、「小説家が国の学校教育などに口を出すのは無粋とされている」といった趣旨のことを書いています(p. 266)。
(3)私は以前にこの「英語教育批評」で、詩人の丸谷才一氏の『日本語のために』(新潮文庫、1978)を推薦したことがあります。特に丸谷氏のこの本には教育問題に関しての発言が多く、「文部省にへつらうな」といった忠告をしています。国語教育が反省すべき点が多いことは、水村氏の指摘の通りですが、前例はあるのです。
(4)私が高校に勤務していた頃に、同僚の国語の教員が、「国語の世界では、万葉集か源氏物語のことを論じないと相手にされない」とこぼしていたことがあります。その教員は、現代日本語の語法についての論文をいくつか書いていました。そういう国語界の閉塞性を打破したのは、海外で応用言語学などを勉強して、日本語を学ぶ留学生を教えている日本人教員が多かったと思います。
(5)水村美苗氏は著書による紹介では、東京生まれで、12歳の時に父親の関係でニューヨークに一家で住みましたが、そこの生活になじめなくて、「現代日本文学全集」を読んで過したとのことです。後にイェール大学、大学院で仏文学を専攻して、アメリカの大学で日本近代文学を講義したこともあるようです。著作も多く、文部大臣新人賞や読売文学賞なども受賞しています。
(6)日本の敗戦後の、1950年代から60年代にかけては、アメリカのフルブライト法によって主として中等教員対象のプログラムが出来て、まず英語教員が恩恵を受け、その後は理科教員にまで枠が広げられまました。帰国した理科教員の話を聞いたことがありますが、英語の発音や会話に自信がなくても、積極的にその機会を利用して、日米の文化交流に貢献したことが分る報告でした。しかし、国語の教員にはそういうプログラムに応募しようという空気はなかったようです。これでは、“井の中の蛙”になってしまうでしょう。
(7)水村氏は、「平たく言えば、日本人は実際に日本語を大切にしようという気がないのである」と述べて、その原因はもっと深いところにあるとしています(p. 291)。更に、「音」や「訓」の読み方、「ひらがな」と「カタカナ」のことや、「表音文字」と「表意文字」のことなどを論じています。これまで、外国の植民地になったことのない国の日本人が、日本語に誇りも愛着も感じないとしたら、“日本語が亡びる”ことがあっても当然と言わなければなりません。英語教師にとっても深刻な問題提起として受け止めるべきだと思います。(この回終り)
(浅野 博)