“八つ当たり教育論”になる事情のこと
(1)我ながらおかしなテーマだと思いますが、我慢してお読みください。先日TBS のラジオを聞いていたら、ロンドン・オリンピック(2012)に派遣された社員が、「知っている英語はYes と No だけだが、何とか3週間を過ごせたよ」と告白していました。TBS の社員に採用されるくらいですから、この人は中高大と10年間は英語教育を受けてきたはずです。それなのに、知っている英語が、Yes と No だけというのはどういうことでしょうか。
(2)長年英語を教えてきた私も、「英語教育の成果はそんなものかも知れない」と自省を含めて思いました。学力は個人差がありますから、一概には言えませんが、活用出来るような英語力が身についていない人がとても多いのは確かです。それはどうしてなのでしょうか。どこに責任があるのでしょうか。ここで、数学教育のことを少し考えてみたいと思います。
(3)昭和40年頃でしたが、日本に来て間もないアメリカ人を案内していて、彼女が625円の品物を買いました。千円札を出したら、レジ係(レジが自動化される前のこと)の若い女性が、すぐに375 円のお釣りを出したのです。そのアメリカ人は後でゆっくりと計算してから、お釣りが正しいのを知って驚いていました。その頃のアメリカでは、お客が買った品物の値段に、10セント、20セントと加えていって、お客の出した金額になるような足し算をするのが普通でした。日本では、義務教育で算数や数学を習うと、「ここまでは出来る」という目標があるように思えますが、英語教育ではそういう基本的な目標もはっきりしません。
(4)しかし、今では日本の教育全体は必ずしもうまくいっていないと思います。夏休みも終わりに近づいて、「中高生は宿題に追われています」とテレビのニュースで報じていました。マイクを向けられると、かなりの生徒が、「自由研究が終わらない」とぼやいていました。日頃の授業で、「自由研究」など少しもやらせないで、夏休みの宿題だけで生徒を苦しめるのは、一種の“いじめ”ではないでしょうか。
(5)日本人には、「子どもは自由にすると遊んでばかりいる。特に中高生になると悪いことを覚えるから、何とか机に縛りつけておこう」とする意識があるのでしょう。しかし、宿題くらいで生徒の不良化は防げるはずはありません。しかも、宿題をやれば正当な評価が得られるという保証もないのです。「宿題を提出したか、しなかったか」くらいの評価しかしてもらえないことが多いのですから、宿題の意味は半分もないことになります。
(6)一方、文科省や教育委員会は、「教員は自由にすると遊んでしまう」と言わんばかりに管理体制を強めているようです。そんなことでは、どんな教科の教育もうまくいくはずはありません。学習者、家庭、親、学校、社会が一体化してこそ教育は成功するのです。どこもばらばらでは、教育の成果などとても期待出来ません。結局は“八つ当たり”したくなるのが現状なのだと言わざるを得ないのです。(この回終り)
(浅野 博)
「マイ・ベスト教材」を考える
(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2012年9月号の特集は、「教師の『英語力』を磨くマイ・ベスト教材」です。しかし、私にはどうもこの特集のタイトルはピンときませんでした。「教材」というのは、『明鏡国語辞典』(大修館書店)の定義にあるように、「授業や学習に用いる材料。教科書・副読本・標本・模型など」となっているからです。強いて解釈すれば、「この場合の“教材”は“自分で自分の英語力をもっと強くする英語教師のための教材”」ということになりますが、回りくどい言い方です。私ならば、“英語教員が英語力を増強するための具体策”とでもしたいところです。
(2)最初の記事は、田邉祐司「英語のサビを落としてくれる教材たち」で、明らかに、「英語教員が自分のサビついた英語を学び直すこと」を前提にした記述です。ちょっと気になるのは、「教材たち」という言い方です。少し前までは、「動物の子供たち」などと書いても、「“たち”が使えるのは、人間についてだけだ」と叱られたものです。古くは、神様や貴人にだけ用いられたからでしょう。『明鏡国語辞典』は、「人・動物の複数を表わす」としていますが、「人・動物以外に使うこともある」と注意しています。ただし、「教材たち」は私には違和感があります。(田邉氏の名前が私のパソコンでは正確ではないことをお断りします。)
(3)田邉氏の記事には、NHKの開発した「英語実力判定テスト」の紹介がありますが、私はこのテストは、センター入試の問題と比較するために視聴したことがあります。ただし、NHK のものは会話が廻りくどくて不自然で、出題のための作為が感じられるものです。センター入試の問題にも多少そういう傾向がありますが。(版権の都合でここに引用はできませんので、関心のある方は、//eigonomori. com/quiz/ で検索してみてください。)
(4)西澤正幸(新潟県立三条高校)「『文法力』を磨く」は、参考文献も多く、参照もしやすいと思いますが、やはりインターネットの利用にも言及があります。西澤氏は、衣笠忠司『Google 検索による英語語法学習・研究法』(開拓社、2010)を紹介しています。「英語教育」誌の別冊にも「インターネットの利用」を解説したものがありますから、それらも紹介したら良かったと思います。インターネトの利用は、慣れていない人にはとても厄介で、うまく行かにことが多いものです。親切すぎるほどの解説が必要です。
(5)いずれにしても、記事の執筆者がそれぞれ言及するのではなくて、「インターネットを利用するマイ・ベスト方法」ということで、複数の執筆者に依頼すれば、もっとすっきりした特集になったであろうと考えます。雑誌の記事は締め切りに追われますから、執筆者がお互いに連携することは無理なのは承知していますが、読者の読みやすさを考慮するならば、もう少し改善すべき点があるのではないかと思うのです。
(6)胡子美由紀(広島市立早稲田中)「『英語で授業力』を磨く」で、やっと私が最初に問題にした「マイ・ベスト教材」の意味がはっきりしてきた感じがします。ただし、「指導力とは何か」「マネジメント力(人間力)とはどういうものか」といったことを論じていますから、これだけで特集を組む必要があるように思えます。今回の特集記事としては守備範囲が広がり過ぎていますので、「特集」はもう少し視点を絞って提供してくれませんか、というのが一読者としての私の希望です。(この回終り)
(浅野 博)
「教材研究の幅を広げること」を考える
(1)1990年代の10年間ほど、東洋学園大学(千葉県流山市)で同僚だった河島弘美さんから、『動物で読むアメリカ文学案内』(岩波ジュニア新書、2012)という興味深いタイトルの書物を送ってもらいました。帯には「19~20世紀を動物たちと旅しよう」とあります。かなりレベルは高いものですが、教員が推薦すれば、読んでみようとする中高生も増えるであろうと思います。
(2)中高の英語教員は、「英文科」出身者がまだ多いでしょうから、英米の文学作品に愛着を感じる人も少なくないと思いますが、一方では、「実用的な英語教育を」という世論に押されて、「教養なんかではなく、実用的な“話せる英語”を教えるべきだ」という声が強いのも確かです。文科省もそういう方針を支持しています。しかし、日本の英語教育は本当にそれでいいのでしょうか。
(3)手元に扇谷正造『ビジネス文章論』(講談社現代新書、1980)という本があります。著者(1913-1992)は、「週刊朝日」の編集長などを務めたジャーナリストで、日本語のビジネス文章についての本や記事を沢山書いた人です。こういう書物を読んで感じるのは、「日本人の英語教師は、生徒の母語である日本語と教えるべき外国語、つまり英語の両方に強くなければいけない」ということです。個人差はあるでしょうが、基本的な心構えとして大切なことだと思います。
(4)ある大学でビジネス英語を教えている日本人の教授に聞いた話ですが、「若い頃はアメリカでビジネスの交渉をして、仕事が一段落すると関係者のアメリカ人の家庭に招かれることがよくありました。そして、くつろいで雑談をするような時に大切なのは、英語力と広い意味の教養ですよ」ということでした。「特に日本のことをどのように分かりやすく説明できるか、英米のことをどの程度知っているかということが大事なのです」とも付け加えました。
(5)現在の中学の英語教科書で扱っているように、「お祭り」などについて1年生に英語で説明させるような方法には、私は賛成ではありません。もっと基本的な覚えるべき英語表現があると思うからです。高校生の英語教科書になると内容はとても変化に富んでいます。「道案内」のような実用会話もあれば、英米文学作品の部分的引用や概要もあります。韓国や中国やインドの話もあります。中高生の英語教科書の話題があまり広すぎるのも問題ですし、「英語教師に必要な基本的な知識」については、もっと議論があってしかるべきだと思います。
(5)河島氏の書物『動物で読むアメリカ文学案内』から、最初の3章のタイトルを紹介します。第1章 リップの愛犬ウルフ(ワシントン・アーヴィング『リップ・ヴァン・ウインクル』)、第2章 黒猫プルートー(エドガー・アラン・ポー『黒猫』)、第3章 白い鯨モービー・ディック(ハーマン・メルヴィル『白鯨』、となっていて、アメリカの作家や作品を知ることが出来ます。本文には、部分的な引用や訳文もありますから、英語と米文学の両方を学べるわけです。なお、河島氏には、教科書でよく言及される小泉八雲のことを書いた『ラフカディオ・ハーン 日本のこころを描く』(岩波ジュニア新書、2002)という著作もあることを付言しておきます。
(6)リップ・ヴァン・ウインクルの話は教室で取り上げても、昔話の「浦島太郎」に似た話という程度で終わってしまうことが多いようですが、時代的な背景も物語の意図も全く別なものです。本書の解説によって、ウインクルがなぜ愛犬のウルフを頼りにしたか、自分の奥さんからはどんな目に会わされていたかなどを考えると、この物語の意図もだんだんと分かってきます。教材研究の幅を広げるきっかけとなるというのが、本書を推薦する所以です。こういう書物を手始めにして、英語教員は貪欲に勉強を続けるべきだと思います。
(浅野 博)
「英語を使うお仕事」とは?
(1)「英語教育」(大修館書店、2012年8月号)の特集は「英語を使うお仕事」です。私はまずどうして「お仕事」という言い方をするのだろうと不思議に思いました。実際にある仕事をしている人に向かって、「お仕事大変ですね」と言うのは自然でしょうが、余計な”ていねい語”は、取りようによってはバカにしている感じさえします。”受験”という普通の用語が、”お受験”と言うと、特殊なニュアンスを帯びることが参考になると思います。
(2)内容のほうですが、様々な英語を使う職業の人たち21名が執筆しています。例によって、“ないものねだり”をさせて頂くと、英語という言葉とは関係のない職業上の留意点を述べているものが多いのです。例えば、天野恭子(元日本航空客室乗務員)「人間を知るために」は、グローバル化した時代の人間交流の心構えであって、英語に限定した問題ではないと思います。パイロットは仕事上英語が必須でしょうが、同じパイロットでも、ロシア人ならロシア語で、中国人なら中国語でコミュニケーションを行う必要性も大きいでしょうから、その心構えは英語に限定したものではないはずです。
(3)清水裕美(テレビ朝日)「コミュニケーション手段としての英語」は、まだ電子メールなどの無い時代に、ファクシミリで交渉した苦労話ですが、外国語でビジネスの交渉をするのは難しいことはよく分かります。私としては、そういう一般論ではなく、具体的な実例が欲しいと思いました。例えば、「自分はこういう英文を書いたが、次のように直された」のように。
(4)山口広樹(外資系金融機関ディレクター)「〈発信する力〉が必要です」も、英語教育では嫌というほど繰り返されてきた問題です。英語教員に金融関係の英語表現がどのくらい必要かはまた別の問題ですが、苦労話だけではどうも新鮮な印象が残りません。せめて高校生が使っている英語教科書に目を通してそのレベルを考えながら、どういう表現が通じるか、通じないかなどを示してもらえれば、英語教員にももっと役立つ記事になったであろうにと思いました。
(5)最後の記事は池田香代子「苦手な英語を訳すということ」で、何の話かと思ったら、ドイツ語の翻訳者が、苦労して英語の本2冊を訳して出したことがあるという、苦労話というより“ぼやき話”なのです。しかも、「それも20年も前の話ですから、ここに記録しておきます」と述べています(p. 39)。「英語教育誌にそんなものを残されても、参考にもなりません。翻訳するということは、どんなに得意な外国語のものを訳すとしても、どなたも大変な苦労を重ねているはずです。それでこそ、「なるほどよく分かる」と感心させられる訳文になるのだと思います。池田氏の記事の意図はどうも私にはよく分かりません。
(6)全体的に今回の特集記事は、ねらいが曖昧なものが多いのは、執筆者の責任というよりも、編集者の意図が明確でなかったことによるのではないでしょうか。英語教員や英語教員志望者が、「なるほど勉強になった」と思うような企画で、本誌がより多くの読者に読まれることを期待したいと思います。(この回終り)
(浅野 博)
英語教員が英語力をつけることを考える
(1)私はもう50年ほど昔に、当時の東京教育大学附属中学校に勤務したことがありました。生徒が優秀でしたから、教材研究や指導法などにずいぶんと時間をかけたつもりですが、時々不安に感じたのは、自分の英語力の衰えでした。それまでは高校生を教えていましたから、大学受験問題を自分でもやってみることや、教科書の教材を原作で読んでみるといったことも必要でした。しかし、中学生を教えていると、ほとんど中学生レベルの英文にしか接していないことに気づいたのです。
(2)昔の自分の経験を一般化して今の英語教育を論じるつもりはありませんが、現在の中学校は勤務条件も違いますし、生徒の質も多様化していますから、英語教員が英語力の向上のために勉強することは決して楽ではないと思います。批判はあるにしても、一部の公立学校のように“中等学校”として、中学も高校も教えられる制度も利点があると私は思っていました。しかし、この制度の実施は200校に満たないために、文部科学省は、「高校を2年間で卒業出来る制度」を検討中のようです。このような重要な基本的方針がよく変わるようでは教育の効果など期待できないであろうと心配になります。
(3)困難な中でも勉強の時間を作って、英語力をつけたいと考えている英語教員には、私は次の本を読むことを薦めたいと思います。行方昭夫(なめかた・あきお)『英文の読み方』(岩波新書、2007)です。行方氏はサマセット・モームの研究家であり、数多くの翻訳をしているばかりでなく、「英文の読み方」に関する書物も書いていますから、自分のレベルに合ったものを選ぶことができます。関心のある方は、岩波書店の本を検索してみてください。
(4)この書物が一貫して説いているのは、「単語でも文章でも、文脈を無視して丸暗記してもダメだ」ということです。実例としては、行方氏の親しい知人で英会話の得意なビジネスマンが、ネット上で通販の購入をするのに、”I couldn’t agree more.” を「私はもっと賛成できなかった」と解したために、手続きを最後まで進められなかった話が挙げてあります。その人が相談の電話をかけてきたので、「それは大賛成という意味だよ」と行方氏が教えたら、びっくりしていたとのことです( p. 5~)。
(5)行方氏は、「翻訳を読んでから英文にあたるというのもひとつの勉強方法」と述べています(p. 24)。私の記憶では、1975年頃に中島文夫東大教授が、中学校用の英語教科書について、「すべて訳文をつけておくこと」を提案したことがあります。もちろん、当時の文部省は(今の文科省も)そんなことを認めるはずはありません。したがって、日本の英語教育は、「何年やっても日常会話もできない」と嘆く英語学習者を生み出し続けているのです。
(6)「日本全国どこでも同じ基準で」というのは、義務教育段階では少しは必要かも知れませんが、そのために、新しい発想や工夫が封殺されてしまうのでは、教育の進歩はとても期待出いなでしょう。英語教員は、自分の英語力を増加させることばかりでなく、こういう行政的な問題点にも関心を持たなければならないのだと思います。(この回終り)
(浅野 博)