浅野:英語教育批評:「学習者はどういう質問をするか」を考える
「学習者はどういう質問をするか」を考える
(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2002年6月号の特集は、「生徒からの質問にどう答えていますか」である。「コラム」を含めると11編の記事があるが、取り上げている内容は「綴りと発音」「文字」「疑問文・否定文」「文法・語法」など、ばらばらという印象を受ける。これは各執筆者の責任というより、編集部の姿勢の問題であろう。
(2)確かに学習者の質問は変化に富んでいる。しかし、教員志望者や経験の浅い教員に「あれもこれも」と様々な場合に言及する必要はないであろう。何が基本的で、何が最も重要かという判断がなければならないのだ。そこで、8番目にある、安河内哲也(東進ハイスクール)「よくある質問トップ5」を読んでみると、高校生の大学受験レベルのことしか書いてない。つまりこの特集は、内容ばかりでなく、レベルもばらばらなのだ。
(3)「コラム」の加藤京子・田中知聡「英語を勉強すると将来どんな風に役にたつのですか?」は、私は基本的に重要な問題提起と考えたい。一昔前までは、中学1年生は、それなりの好奇心を持って、「英語」という新しい科目を迎えてくれた。もちろん、個人差に応じた対応は必要だったが、今のように小学校で英語嫌いになってしまった生徒を心配することもなかった。一方、「英語は侵略者の言葉だ。適当に学べばよい」と言う教師もいる。こんな説明不足の言い方で生徒を迷わせることは避けたい。
(4)最初から学習者に向かって1時間も2時間も英語学習の意味を説明するのではなく、学習の進度や教材の内容に応じて、「英語はどんな言葉で、なぜ世界で通用しやすいのか、他の言語のことをどう考えるべきか」を語ることは大切であろう。上述の加藤京子氏は、次のように書いている。「…そして『言語権』の考え方を説明する。英語だけが重要な言語なのではなくどの言語もそれぞれ大事なこと、どこの人にも健康や命、労働条件、名誉に関わることは母語で語る権利が保障されなければならない」(p. 13)。これも確かに大事なことだが、どの段階で、どのように説明するのかを述べる配慮がほしい。「生徒の質問にどう答えるか」は、教師が言いたいことを一方的に言うことではないはずだ。
(5)本号の「英語教育時評」は、大谷泰照氏によるもので、小林多喜二の『蟹工船』や、本国からの指令に背いて、命がけでユダヤ人にビザの発給を続けた杉原千畝のことに言及して、「…個々の人間の内面にまで平気で立ち入り、さらに、それを『踏み絵』として入試の判定さえも行って恬として恥じない。この国の英語教師は、一体、いつからこれほどまでに傲慢になったのか」(p. 41)と述べている。学習者の年齢がいくつであれ、英語教師はこうした“傲慢さ”を反省しながら、質問に答える心構えが大事なのだと思わざるを得ない。(浅 野 博)
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浅野:英語教育批評:「評価」のことを考える
「評価」のことを考える
(1)「評価」というのは、教員にとって厄介な問題である。「厄介だ」と言うのは、「学ぶべきことが多くて、理論と実践の乖離が大きい問題」ということである。「英語教育」(大修館書店)の2011年5月号の特集は「『新しい評価』を考える~学習者を育てるために」なので、読んで、「厄介な問題」であることを再確認した。ただし、これは記事の内容についての苦情ではない。そこに指摘されている問題の多さを感じたからである。
(2)冒頭の記事は、松沢伸二(新潟大)「『新しい評価』は定着したのか」で、「新しい評価」とは何かを昭和55年から、その経過を追いながら説明している。私が度々要望してきたように、雑誌の啓蒙記事では、やたらと新語を使うことを避けて、まず必要最低限の用語の定義をすべきだとの声に応えるものとして歓迎したい。今後の問題点の指摘も適切であると思う。
(3)2番目は、渡部良典(上智大)「指導・評価・改善のサイクル:日々の授業に評価を生かすために―」で、これも昭和22年の学習指導要領試案の文章を引用して、評価を授業に生かす方向性は、昔から指摘されていたことを述べている。そして、「英語教育評価をシステムとしてとらえる」として、「システム」の定義や考え方に言及している。その主張に私は賛同したい。
(4)私は教育機器を外国語指導に利用することを目的にする学会(LLA、現LET)に長年関わってきたので、「システム」の考え方の導入には賛成である。英語教師には文科系の出身者が多いので、この考え方は、なかなか受け入れてもらえなかった経験がある。もちろん私だって“素人”であるが、“違う考え方”を受け入れようとするだけの余裕はあった。教員にはそういう“余裕”が必要なのだが、最近の学校は管理体制を強めて、“余裕”を与えない傾向が強いように思えて心配である。
(5)四方雅之(成蹊中・高)「評価のための ITC 活用法」は、まず職場での健康診断を例に、自分に下された「評価」をどう日常生活に生かすかを語り、ITC (information and communication technology) の考え方の基本を述べている。本田勝久(千葉大)「小学校外国語活動における評価」は、普通の「教科の評価」のような「数値による評価」はなじまないという視点から、問題点と対応の仕方を説いている。いずれも関係者には参考になることが多いであろう。 (6)大岩樹生・内藤浩悟(新潟大附属新潟中学)「表現力・発信力を育てる評価」と今井理恵「英語を嫌う生徒の意欲を引き出す形成的評価の活用」は、評価の問題をそこまで広げる前に考えるべきことがあるのではないか、という基本的な問題意識が私にはあるが、記事そのものは、いずれも丁寧に問題点を探っいて、真剣に取り組んでいる様子が伺われるものである。
(7)根岸雅史(東京外語大)「技能統合の評価をどうするか」は、テスティングの専門家が、「技能統合の必要性と意義」から始めて、問題になった「観点別評価」や総合問題のことまでを論じている。最後に「総合問題は、もちろん新学習指導要領の総合的な指導とも無縁である」と述べていることは、読者のもっと知りたい点ではなかろうか。このことを扱った特集が欲しい気がする。次の斉田智里(横浜国立大)「大学英語に求められる評価とは」も、実例や問題点の指摘は適切だと思うが、多様化した大学、短大の実情は把握が難しい。ここでは無理だが、もっと多くの実例報告が欲しいところだ。
(8)長沼君主(東京外語大)「誰のための評価か、何のための評価か―学習者中心の評価を考える―」は、冒頭記事に加えてもよい問題点の指摘であって、学習者中心の授業と評価の在り方などを、用語の定義をしながら、アメリカの新しい試みを紹介し、「学習者中心の授業に学習者中心の評価が組み込まれたとき、持続可能な自律学習が可能となるでしょう」と結論している。このあたりは、もっと議論が必要な点ではないかと感じる。(浅 野 博)
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浅野式辞典:「チャイルドマインダー」
「チャイルドマインダー」
保育士ではないが、個人で資格を取り、自宅などで幼児を預かって面倒を見る人のことだが、どうしてカタカナ語なのか。「保育補助員」でいいではないか。カタカナだと勘違いする人も少なくない。
知ったかぶり:離婚の時に「おれの子どもだー!」と叫ぶことだよ。
高齢者:いつまでも子どもの心を失わない人のことだろう。私もそうじゃよ。
高校生:「リマインダー(reminder) 」は、「思い出させるもの」って教わったな。「子ども時代を思い出させるもの」のだから、赤ん坊のときの写真とか。
浅野:英語教育批評:「Lesson Plan と指導案」のこと
(1)「英語教育」(大修館書店)の2011 年4月号の特集は、「いい授業のために『教案』を書こう」である。教科教育の授業を履修している大学生でも、その授業で「教案」の書き方まで指導を受けることは時間の関係で難しい。そこで、教育実習をする中学、高校の現場で指導を受けることになる。これは昔からそうだったと思う。ところが、最近は中高の教員も多忙で十分な指導が出来ないことがあるということを耳にした。そうであれば、このようなの特集記事の出番になるわけだが、そういう要求に応えているであろうか。
(2)基本的な問題として、私は「教案」という用語は、使わないほうがよいと考えている。その理由は、1990年代になってからは、「教える」というよりも、「指導する」という考え方が主流になってきたと思うからだ。したがって、「教授法」より「指導法」と言うことが多いのではなかろうか。そうだとすれば、「教案」よりも「指導案」のほうが望ましいと思う。
(3)「指導案」について十分な指導を受けられない教育実習生や教員志望者には、まず「指導案」とはどういうものかを典型的な見本で示すことが有効であろう。見本になるような具体例は、肥沼則明「教案は何を書くか、書かないか―達人の教案拝見」に見られるが、手書きのものもあって、小さくて見にくい。1ページを使って、見やすく提示したほうがよい。見やすく提示してあるのは、日臺滋之「ALT とのティーム・ティーティーチングの教案をどう作るか」であるが、これはかなり高度な例であるように思う。
(4)1990年代には、多くの大学、短大では、「シラバス(syllabus)」が学生に公表されるようになった。日本語の呼び方はまちまちで、「教授綱目」とか「授業細案」などが見られた。趣旨は「この科目では、何を目標に、どういう内容を学ぶか」が分かるようにすることである。当初は、その視点は、「教える」という教員からのものが主流であったが、現在では、「学ぶ側の立場」も考慮するように、改善と工夫が見られるようになったと思う。
(5)私は、「英語教育批評 15」で、「リメディアル教育」のことを50年前の訪米の経験を基に書いた。ある時、ホステス役の小学校の先生が、わざわざ休暇を取ってバージニア州の観光旅行に連れて行ってくれることになった。その先生が勤務を休むのは、1日だけであったが、授業を代行してくれる臨時の先生と数時間も使って打ち合わせをしていた。指導案を示すだけではなく、個々の生徒に応じた指導上の留意点まで細かく伝えていた。それまでの私の日本での経験では(高校の場合だが)、先生が突然休んだような場合は、「自習」にすることが多かったので、柔軟で肌理の細かい制度に感心した記憶がある。
(6)何か仕事を引き受けた以上は、そこに権限と責任が生じる。そして、最後までその権限を行使し、責任を果たさなければならない。日本の場合はどうもそういう姿勢が欠けていることが多いように思う。そのくせ、後から責任を追及することだけは熱心である。今度の未曽有の大災害を教訓にして、日本人の考え方も改善されるべきであろう。私の「英語教育批評」も“あら探し”ではなく、“切磋琢磨”という意図がもっと生きるように努力したいと考えている。(浅 野 博)
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浅野:英語教育批評:「何をどう書くか」の問題
「何をどう書くか」の問題
(1)前回は、中学校におけるライティングの指導を考えたが、続きとして、日本語によるライティングの問題を考察してみたい。まず参考になるのは、丸谷才一・山崎正和『日本語の21世紀のために』(文春新書、1992)である。丸谷氏は、日本語や国語指導のことをよく論評している作家、評論家である。山崎氏は、劇作家で、いくつかの大学にも勤めて、この本の時は東亜大学学長である。この書物は二氏の対談になっているが、山崎氏は大阪大学で教えていた時に、受験問題を作る順番が回ってきて、次のような出題をしたと述べている。
(2)「私は、1枚のごく平凡な写真を印刷しまして、この場面を見た通りに記述せよという問題を出しました。(その場面は、踏み切りの遮断機の手前には中年の男と自転車の子供がいて、電車が通過しているところ。)
「さあ、大変なことになりまして、まず予備校から囂々(ごうごう)たる非難。こんな問題見たことない、これでは意見も主張もできないから、個性の否定である、生徒の人権蹂躙である。さらにもっとひどかったのは、新聞記者から記述とはなんですかと聞いてきた。(後略)」
(3)国語の“書かせる問題”は、「主人公の気持ち」とか「この女性が突然泣き出したのはなぜか」といった“感情的な気持ち”が主要な狙いになることが多い。しかし、日本語できちんとした状況の描写もできない高校生に、“感情的な気持ち”ばかり書かせるのは、基礎的な作文力をつけるためにも望ましくないと思う。つまり、彼等はまず基礎的な“コロケーション”を身に付けるべきなのである。“コロケーション”は、「連語法」などとしているが、一般的には馴染みがない。“語や句の自然なつながり”とでもしたほうが、生徒にも分かりやすいであろう。
(4)現在はフリーになっている日本テレビの徳光アナウンサーは、入社した頃は、東京まで電車で1時間以上かけて通勤していた。彼はその時間を無駄にしないように、つぶやきながら窓外の景色を言葉で描写することをしていたと語っていた。したがって、後に彼はプロレス中継もやったが、その描写力は印象深いものだった。現在は涙もろい好々爺になっているが、基礎力のある人は伸びるのである。
(5)最近、コメンテーターなどの発言で気になるのは、「何と言ったらいいか…」とまず言う人が多いことだ。もちろん、書く場合と違って、とっさに話す場合は、言葉に詰まることは誰にでもあることだが、口癖のようになっている人がいるのである。英語では、”How shall I say it?” というのは、私は耳にしたことがない。”Let me put it this way?” (こんなふうに言い替えてみましょう)と言って、分かりやすい別の表現に言い直す例には何回か出会ったことがある。日本人はもっと自分の使う言葉に関心を持って、より良い表現を学ぶべきであろう。英語教育もそういう目的に貢献できるような教え方をしたいものだと思う。(浅 野 博)
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