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「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その14)(文法指導の名人技)

Posted on 2014年10月28日

(1)2014年11月号の特集の1つは、「わかる・使える 文法指導の名人技」となっています。“授業のうまい先輩の真似をする”というのは、自分の授業改善の手っ取り早い方法ではあるでしょうが、いつも上手くいくとは限りません。ましてや、実際の授業ではなく、文字で説明した記事を読んで、そのコツを会得するのは容易なことではないと思います。

 

(2)しかし、何も参考にしないよりはましですから、まず各記事を読んでみます。最初は、大西 泰斗(東洋学園大)「文法指導の勘所」です。総論に相応しいタイトルですがが、いきなり「文法改変」とあるので、ちょっとまごつきました。執筆者の言いたいことは、“教える側の文法の考え方が変わるべきだ”ということのようで、その趣旨には賛同出来ます。これまでも指摘されたことのある大きな課題で、新しいことではありませんし、もう少し平易な言い方をしてもらいたいと思いました。

 

(3)2番目は、田地野 彰(京都大)「語順―『意味論』を軸として」ですが、学問的理論が主な記事ですから、すぐに真似出来るような“技”ではありません。誤解を恐れずに大雑把な言い方をすれば、意味論というのは、構造言語学が言語の“構造(仕組み)”を考えたのに対して、“その構造が何を意味するか”という中味を問題にする理論です。田地野氏は、かなり具体的に意味論と語順の考え方を説明していますが、私には多少の異論があります。例えば、“意味論と五文型”と題する表には、“意味順”として、「だれが」「する/ です」「だれ・なに」「どこ」「いつ」とありますが、最後の SVOCの例文は、“She calls him Billy.” です。表では不要な要素まで含めていて、英語の実例は主要な要素だけでは、生徒は混乱するであろうと思いました。

 

(4)阿野 幸一(文教大)「3単現のS」は、まず中学1年生がこの“単元”でつまずくとしています。確かに、“単元”は他の教科でも使われますが、意味が全く違いますから、英語の場合の説明をしっかりすれば、生徒が混同することは無いでしょう。中学生には、“人称”が分かりにくいし、加えて、「どういう単語がsだけを付ければいいか、es を付ける単語は・・・」のように、問題点が拡大してしまうことを執筆者は指摘しています。そういった注意は必要でしょうが、「生徒は、間接話法で、“He said he was happy.”と言いたいのに、“He said I am happy.” と言うので、ALT でも誰が happy なのか分からなくなる」という箇所は、私にはよく理解出来ません。人称代名詞の問題ではなく、話法の転換の問題にすり代わっているからです。人称代名詞の日本語との違いは、中学1年で扱うべき問題です。その扱い方が問題ですが、“話法の転換”を教える段階では遅すぎるのです(次の(6)を参照)。

 

(5)英文法の用語があまり理論的でないことは、英文法学者イェスペルセンが指摘したことです。すなわち、「“人称”というのは、“動物”や,“もの”にも使うのに、“the first person” (第1人称)と“person” を使うのは理屈に合わない」というわけです。中学生でも、こんな話をしてやると結構興味を示すものです。

 

(6)中学生に英語を教える場合であれば、「親友のことを何と呼ぶか」「3年生の先輩ならどう呼ぶか」といった質問をして、日本語では、同じ第2人称でも、相手によって呼び方が違うことを意識させる必要があるでしょう。機械的に、「I=私、 you=あなた、」と暗記させるだけでは不十分です。“you” が、「おまえ」になったり、「きみ」や「先輩」になることを考えさせたほうが有益であろうと私は思います。

 

(7)末岡 敏明(東京学芸大附属小金井中)「人称代名詞」は、まず、映画「スターウォーズ・エピソード2」で、“I think he is a she.” という台詞があることを紹介していますが、比喩を使って説明する場合は、誰もが知っているものでないと効果がありません。末岡氏の生徒はこの映画を全員見たのでしょうか?また、Longman の SIDE by SIDE からの例も示していますが、こういう資料は参考資料として文末に挙げておくべきものだと思います。

 

(8)石澤 昌大(東京都立小石川中等学校)「前置詞」は、前置詞の“on” や“in” の基本的な意味を分からせる方法として、“何かが箱の上に乗っている図”とか、“何かが箱の中にある図”を見せる方法を示しています。実は私が、編集代表になっている『アドバンスト・フェイバリット英和』(東京書籍、2002)には、こういう図解を多用しています。これは、編集者の一人である阿部 一(独協大学―当時)の発案によるものです。それはともかく、石澤氏は、そういう図をドリルにまで、応用していますが、ドリルの方法としては、「7時に→at seven」、「11時に→at eleven」のように次々と言わせたほうが能率的だと思います。

 

(9)萩野 俊哉(新潟県立高田高校)「後置修飾」は、具体的に例文を示しての解説ですが、指導経験の少ない英語教師には分かりにくいのではないかと危惧します。「生徒が後置修飾につまずくのは、日本語にはそういう語順がないからだ」と述べていますが、私でしたら、中高生にはまず“修飾(する)”とはどういうことかを説明します。国語で教わっているはずだ、と思うなら、そのことを確かめるべきでしょう。それから、“あそこでサッカーをしている少年たち”が、英語では、“the boys playing soccer over there となることを示して、「日本語は頭でっかちな表現になるが、英語ではそれを嫌って、後へ付けたしていく言い方になる」のように説明してから、例文を幾つも言う練習をさせるのがいいと思います。

 

(10)加藤 治之(京都府立嵯峨野高校)「時制―現在完了形の場合」は、生徒に意味や表現を考えさせる例文を多く示しているのはいいですが、その例文のスピーチレベルや主題がばらばらで、理解を困難にしています。あまり欲張らずに1つの状況を設定して、日本人には特に分かりにくい“現在完了”を説明する工夫をして欲しいと思いました。

 

(11)私が教わった太田 朗博士は、「現在完了は、ある過去から現在までという時間領域(時間の幅)を前提にする言い方です」と言われ、中学生程度に分かり易いのは、「ある過去から現在までに何かをしたことがある」という、「一般に“経験を表す”とされる用法であろう」と言われました。生徒には、「時制」という用語さえ分かりにくいのです。“時制”と実際の“時間”の違いをせつめいしてから、“I have read the book three times.” (私はその本を今までに3度読みました(読んだことがあります)とか、“I have talked with him four times.”  のような例文で、暗唱、記憶、応用といった順を追った練習をさせたいと思います。

 

(12)田中 茂範(慶応義塾大)「受動態」は、冒頭で、「『受動態』の『態』ってどういう意味?」と問いかけていますが、すぐに英文法の “voice” の話になっています。これでは高校生でも混乱するでしょう。漢和辞典によれば、「態」の原義は「姿、形」のことです。柔道の試合の様子を思い出させて、「自分から何かをしかけるのか、それとも相手が何かをしかけてくるのか」で、その場の表現方法が変わることを意識させるのも1つのやり方だと思います。

 

(13)特集の第2は、「発信!国際バカロレア!」です。この「発信!」が何を意味しているのか、私には分かりませんが、“バカロレア”自体は長い歴史のあるもので、目新しいものではありません。特集の扉ページには、かなり詳しい説明もありますが、高校生を指導している英語教員があわてて準備に入るべきものでしょうか?文科省や、地方自治体が動き出しているようですが、その前に、“日本の英語教育はどうあるべきか”、をもっと考え、話し合う必用があるのではないでしょうか?

 

(14)特集2には、2編の実践報告的な記事があります。関心の強い自治体や学校の関係者には有益な内容だと思いますが、毎日、生徒にどのように英語を分からせようかと苦労している英語教員がすぐに飛びつくべき問題ではないと私は思います。(この回終り)

サッチャー教育改革の功罪(1)

Posted on 2014年10月21日

サッチャー首相教育大改革を断行する

 

日本の安倍首相が惚れ込んでいて、民主党も気に入っていて、大阪の橋本市長も、これを模範にして「教育基本条例」を作った「サッチャー教育改革」とはどんなものか、これを知る必要がある。特に英語教師は、政府が目指している教育改革の模範である英国のサッチャー改革を理解し、評価し、父兄に、周りの人々に説明してやることができなくてはならないと思う。

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私など年配者の一部にとっては、昔のイギリスの教育は憧れであった。1970年から80年頃、家族を連れて英国に留学した先輩からイギリスの保育園や小学校の話を聞いた。

 

先輩の奥さんが言っていた。保育園はまるで茶の間なの。子供たちはそれぞれ遊んでいて、保母さんは紅茶など飲みながらただ見ているの。こんな状態で学校に上がったらちゃんと先生の話を聞けるのかしらと心配だったの。

 

小学校へ上がったら、これがまた茶の間なのよ。先生はひとりずつに対応して、全体で先生の話を拝聴するといったことがほとんどないの。子供たちは勝手に歩き回ってるの。

1時限が45分でなくて、70分もあるんだけど、退屈しないの。先生もひとりの子にかかりっきりになっちゃたりして。。。

 

そんなことで学校が大丈夫なのかしら。いつになっても字が書けない子や2年生になっても一桁の計算ができない子ができてしまうかなと思ういっぽうで、茶の間のような学校に憧れたことを思い出す。

 

(1)サッチャー改革以前の学校

 

日本の場合は明治維新になっていきなり全国的に小学校が作られ、それまでの寺子屋教育とは縁を切ってしまった。イギリスの場合はずーとつながっていたと見ていいだろう。

 

1880年の教育法によって、5歳から10歳までの義務教育制度が実現されたが、それまでと同じく教会の中に慈善事業のひとつとしてあった寺子屋式の無償の学校がそのままで、制度化されたようなものであった。

 

1944年の教育改革

英国では1880年の義務教育制はその後いくつかの段階を経て、1944年の教育改革によって、第2次大戦後の基本的な枠組みが成立した。

 

1. 5歳から15歳までの無償の義務教育の保障。

2. 多くは教会立の学校であったが、それを公営のものとして政府の統制下に組み込み、同時に地方教育局が管理する 公営学校を作った。

3. 幼児学校から地域センター、18歳までの延長教育までの多様な教育をすべて「地方教育局」の管轄とした。

4. 初等教育、中等教育のすべてを地方教育局が責任を持って提供し、管理する制度とした。政府・教育省はなんら監督・ 指示をしないものとしたのた。

5.制度の検討、改変は、中央教育諮問審議会による審議・答申に基づくとした。

 

以上の主旨の教育法によって、政府は予算措置はするが、教育の内容には口を出さないシステムが確立した。「地方教育局」(LEA)は、地方自治体からも独立した組織で地方教育委員会が独立の事務組織も持っていると考えるといいかと思う。この地方教育局が大きな権限を持っていたが、その権限は校長・教員に下ろして、大幅に各教員が自由に教育できるシステムであったようだ。

 

(2)1988年のサッチャー教育改革の特徴

 

サッチャー教育改革は、ひとことで言えば、公教育に統一学力テストを導入し、テスト結果を公表することで学校を競争させ、親に好きな学校を選ばせる、という「市場原理」を教育に適用したものであった。

 

すなわち、地方分権型を取っていて、統一のカリキュラムや統一教科書、全国テストといったことを、ほとんど考えたことがなかったイギリスの公教育を中央集権型へと大転換させたのだった。そして、「競争させるに限る」といったサッチャーらしい結論に達したのだ。

 

率直に言えば、サッチャー首相の目的はただひとつ、子供たちの「学力の向上」であった。これから知識社会を迎えるに当たって、「イギリス病」すなわち、経済の停滞、失業者の増大、無気力な若者、これらの原因は教育にある、教育レベルの向上こそ急務であるとした。

 

サッチャー首相は何度も「日本に学べ!」と言った。そして日本に視察に行かせて、「学習指導要領」を研究させ、中央集権的な統一カリキュラムを、一斉指導を研究させた。

 

イギリスの教育は、総合学習、体験学習が多かったが、基礎学力がないと言って、読み、書き、計算などの訓練を強調した。

 

1)全国共通のナショナル・カリキュラム

イギリスには全国共通のカリキュラムはなかった。だいたい教育のすべてにわたって統一とか全国とかいった考えそのものがなかった。確かに生徒の学力は外国と比べても低く、また経済界からも成人の一般常識・知識不足が言われていた。

 

そこで、「日本に学べ!」とばかりに、日本の学習指導要領を参考にして、教えるべき内容を標準化し、望まれる学力水準を明確に示すことにした。

 

義務教育で教えるべき内容が明確になった。以前は教師によって指導内容がばらばらで、教師のあたりはずれが大きいと言われた。それぞれの教師が独自性を出すあまり、基礎学力の指導がおろそかになりがちだとも言われた。親たちは「教育の透明度が増した」と評価した。

 

各学年、各科目の到達目標がだんだん詳しく規定され、さらに、生徒個々の成績到達目標を立てるほどになっていった。

 

2)統一学力テストの導入

イギリスにはもともと次のテストがあった。

中等教育への配分テスト(イレブンプラス・テスト、11歳で)

セカンダリー・スクール卒業年度のテスト(一般中等教育資格試験、16歳で)

大学入学資格のテスト(Aレベルテスト、18歳で)

 

それに加えて新たに始まった全国テスト。

7歳で受ける全国テスト、

11歳で受ける全国テスト、

14歳で受ける全国テスト、

よって、大学進学希望の場合は6回も全国テストを受けなければならなくなった。

 

3)学力テスト結果の公表と親への学校選択権の付与

11歳テスト、16歳テスト、18歳テストの3つについて、毎年12月に「リーグ・テーブル」(学校成績順位一覧表)が発表され、新聞各紙は16ページにもわたってそれを掲載する。その日ばかりは子供を持つ親たちは新聞を買いに急ぐ。そこには全国のすべての学校が地区別に成績順に並んでいるのである。

 

統一学力テストの成績で学校をランク付けするという冷徹な市場原理を教育に持ち込んだ。それはイギリスの教育界に「カンフル剤」を注入する役割を果たした。学力テストの結果は、学校を成績順の並べて発表され、それは新聞各紙に大きく掲載され、大きな話題となる。「ワースト・スコア―」として、最低の学校も報道される。

 

親はそれをよく見て、子供の入学先を決め、または転校先を決める。点数の悪かった学校は生徒が減る。予算は生徒数によって配分されるので、教員もどんどん減らさざるを得ないし、テコ入れがなされる。場合によっては廃校になる。

 

「ベスト・スコア―」校のある地区は地価が高騰し、経済的に豊かな住民でないと住めないといったことも起こってきた。

 

4)学校の自治の保障

イギリスの学校は昔から「ガバナー制度」といって、校長と教師、親、地方教育局職員、地域の代表で構成される「学校理事会」が運営に当たっていたが、これをさらに強化し、校長人事から予算の組み方まで学校運営のすべてを「学校理事会」に任せた。校長・教師の採用権が学校理事会に移譲された。

 

そうして採用されると、校長も教師も「発言の自由」が保障された。その気になれば、行政批判も率直に、辛辣にやれるようになった。

 

また、教師の給料も上げ、教員数も増やし、補助教員も増員し、小学校に「30人学級」を実現させた。一定の達成基準を満たした教員には、年2000ポンド(40万円)の超過給与が支払われた。

 

最大限の権限と責任を学校現場、校長に与えたと言ってもこれは、学校に「アカウンタビリティ」(説明責任)すなわち、住民に対して質の高い公教育を提供する責任と義務を求めたことになる。その責任が果たせない場合は退任せざるを得ないわけである。

 

5)学校査察機関の設置

「教育水準局」を設け、多角的な学校評価を専門的に行う。アカウンタビリティの遂行、すなわち、学校は約束しただけの説明責任を果たしているかどうかを厳しく査察された。

成績の上がらない「失敗校」は改善命令が出されたり、閉鎖を命ぜられるといった厳しさであった。

 

サッチャー教育改革は、続く労働党内閣にも引きつがれ、政権の最重要課題として、さらに強く推し進められている。

 

(3)成績の急速な向上

 

手元にある資料で成績が向上したかどうかを見てみよう。

1)11歳児の到達目標達成児の割合

1996年 1999年 2001年
英語 56.3% 69.7% 77%
算数 53.2% 68.2% 75%
科学 60.6% 77.9% 89%

 

これを見ると確かに順調に、どの科目も急速な向上が見られる。これではサッチャーから受け継いだ労働党政府も自慢げに「教育!教育!教育だ!」と叫ぶはずだ。

 

2)セカンダリー・スクールの成績の向上

1988年 1993年 1997年
5科目以上のA~C獲得者: 32.8% 43.3% 46.3%
5科目以上のA~G獲得者: 79.3% 85.6% 87.5%

 

ご覧のように、上の方の5科目以上合格点の生徒が45%を超え、下の方の成績中級者も成績の向上が見られる。

 

サッチャー内閣も、メージャー内閣も、続く労働党内閣も改革の方向に間違いはないとして、いっそう強力に改革路線を推し進めているのも無理はないであろう。

 

(つづく)

浅野式現代でたらめ用語辞典(再開その37)(アギーレ日本苦戦)

Posted on 2014年10月15日

「アギーレ・ジャパン苦戦中」

 

(1)耳の遠い、知ったかぶり老人ファン:なに?呆れた日本?そんなに悲観することは無いよ。勝負には“時の運”というものがあるからな。メキシコ人の監督にはまだ時間が要るよ。

 

(2)体育好きの女子中学生:私の学校の体育の先生は、とてもサッカーが好きみたい。でも大事な試合の中継が深夜にある時は、その日の体育は自習にしてくれる。どっかで居眠りしているようだ。日本が勝ったらどうするのか見てみたいよ。

 

(3)体育大学男子学生:サッカーは、個人の技が優れていても、それがチームとして活かされないと勝てないゲームです。日本チームが弱いのは、まだ個人技に留まっているからだと思います。岡田元監督は、中国で成果を挙げているようですが、中国人の民族性を理解しようとしているからでしょう。アギーレ監督にも早く日本人のくせを見抜いてもらいたいです。(この回終り)

日本語は悪魔の言葉か?(番外編)

Posted on 2014年10月9日

日本の位置、そして、国際語としての英語の寿命

 

漢字は効率が悪い、日本語は不利ではないか、そういった話をときどき耳にする。そんなことはないよと私自身は思っているが、漢字の歴史についても、中国語についても、ハングルについてもほとんど知識がなくて躊躇していた。が、今回決心して、自転車操業で、アマゾンで資料を買ったり、図書館へ行ったり、インターネットで調べたりして自説を補強して、説いてみた。知識は孫引きが多いが、できるだけ2つ以上の典拠を求めて誤りのないように努めた。

 

1.日本の位置はどう見える

石川九楊氏に、地図を横にしてみると、大陸から見た日本の位置がわかると教えられて、日本地図を横にしてみた。(※写真1)旧樺太はほんとうに大陸に近くて、日本列島も小さく内海を囲んだ出先きのように近い。なんだ、大陸から見ると、瀬戸内海の対岸のように見えるじゃないかといった印象だ。

 

これでは、隋や唐の皇帝が倭(日本)の王が挨拶の使節を遣わすのは当然のことと思ったであろう。一般の人々はもっと親しく付き合うべきだと思う。私たちは実際以上に太平洋に出ている、大陸から離れている、アメリカもそう遠くはないと思い過ぎていると思い直した次第である。

 

関西の人、九州沖縄の人たちは、私たち関東東北の者よりも韓国が近いようだ。忘年会は釜山にしたよなどと言ってくる。中国だって近い感じだろう。

 

これが国家としての付き合いになるとそうはいかない。中国には依然として中華思想(自民族中心主義)が存在し、ごり押しをしてくる。政府には慎重な、毅然たる交渉術を願いたい。が、民間の関係ではもっともっと交流し、学校でも「中国特集」をして、理解を深めたいと思う。

 

2.母語の教科書がない

韓国は1970年に漢字を捨ててハングル化で行く大統領決定をした。しかしながら、韓国の大学では自然科学を初め多くの分野において韓国語の教科書がなく、英語の教科書を使っていることがわかった。

 

多くの日本人がノーベル賞を取ったことで、韓国のメディアは日本に追いつけと激を飛ばしている。そこで何人かの有識者が、母語で論理的に考えることができなくては、独創的な発見・発明はできないと説いている。

 

韓国も英語ではなくて、韓国語で基礎科学教育を行い、自国語で深く考えることをさせたいのだが、翻訳しようにも単語がなくて、すぐには韓国語の教科書が作れないのだ。専門用語の名詞だけでなくて、動詞もうまく訳せないのではないかと推察する。これを行うには漢語に頼るほかない。日本に学んで、漢語は復活せざるを得ないのではないかといった議論になっているようだ。

 

「科学」「物理学」「化学」といった用語はほとんど日本人が作ったもので、韓国も中国もこれを借りて使い、さらに細部の用語、「素粒子」「電子」「陽子」といったものもすべて日本人が作ったもので、韓国語にはそれに代わる訳語はない。従って、中学や高校の自然科学の教科書がそれほど論理的に整備されたものになりえない。基礎科学も大学へ行ってから英語で学ぶことになっているようだ。

 

このような記述をいろいろと読むと、日本人は漢字を使いこなすことができて、いかに幸せなことか、未来が明るいかと思う。

 

3.国際語としての英語の衰退

以前私は、英語教師のポストは、どんどん減っていき、20年後にはほとんどなくなるのではないかと書いたが、「国際語としての英語」の地位も50年後には大きく変わったものになっているだろうと思っている。

 

今回、中国の歴史と漢語の浮き沈みを見てきて、何度も自分が教えてきた「英語」のことを思った。「英語の天下」はいつまで続くのだろうかと。

 

英国100年、米国100年という説がある。イギリスの天下は100年で、第二次世界大戦で終わった。そのあとはアメリカの天下だと考えると、あと40年か50年ぐらいだ。それと前後しておそらく「英語の天下」も終わるのではないかと思われる。

 

英国のグラッドルという研究者は書いている。2050年には世界の言語階層の最上階(大言語)は、「中国語、ヒンデイー語/ウルドー語、英語、スペイン語、アラビア語」となると。

 

すなわち、英語一辺倒ではなくて、外交の、あるいは、交易の場面、場面においていくつかの言語を使い分ける時代がくると言う。世界はなべてそのような視点に立っていて、日本のように中学・高校で英語だけしか教えていない国はほとんどどこにも存在しない。東アジアにも。外国語は英語だけではないことを、英語教師の務めとしてもっと生徒に教えなければならない。それこそ国際理解教育だと認識したい。

 

 (おわり)

日英ことばのエッセー(その14)(カタカナ語の乱用)

Posted on 2014年10月7日

(1)今年の9月末には、文科省が日本人の日常語の理解度や誤用例を公表しました。例えば、“世間ずれをした人”は、本来は、“世間の荒波にもまれてずる賢くなった人”を意味したのに、現在の特に若い世代の人たちの多くは、“世間のことをよく知っている人”の意味だと考えているとのことです。これから具体的な対策を考えるようですが、国語教育を改革するのは大変なことだと私は思います。

 

(2)英語教育ですと、「役にも立たない英語を6年以上も教えているからだ」と世間の批判がすぐに集約されてしまうのです。その結果の対策としては、“小学校の英語教育を早めよう”とか、“もっと英会話を教えよう”いうことになります。これでは、日本の教育問題は混乱するばかりで、成果など全く期待できないことになるでしょう。

 

(3)解決策を探る前に、現状をもう少し論じてみたいと思います。大きな問題の1つは、“カタカナ語の乱用”です。次の例は、日常のテレビ番組の中で使われていたカタカナ語を集めたものです。番組には国会中継もありましたから政治家たちの使用例も含まれています。

 

(4)国会での質問の1つに、「アメリカとの交渉は“オンザロック状態”ではないのか?」というのがありました。“行き詰まっている”と言えばいいのです。ちなみに、“船が暗礁に乗り上げた”は、The ship hit the rocks.(船は座礁した)のように複数形になります。“オンザロック”は、英語では、”I drink whisky or tequila on the rocks” (私はウイスキーやテキーラはロックで飲む)と言うのが普通です。この質問者は、“行き詰まる”の英語 ”come to a deadlock” をうろ覚えで“オンザロック”と言ったのかも知れません。

 

(5)「それでは収入は、“トリプルダウン”してしまうではないですか?」という例もありました。「収入が三倍下がってしまう」と言えばいいのにと思いました。野球の好きな人なら、“トリプルプレー”は分かります。“三重殺”という訳語はありますが、あまり使われません。スポーツ紙の見出しには時に見かけます。

 

(6)大臣の答弁に、「様々なアプローチを取る必要がある」というのがありました。アプローチ(approach)も広辞苑に載っていますが、テレビのニュースを聞きながら、すぐに広辞苑で調べる視聴者は何人いるでしょうか?「様々な方法を実行する必要がある」のほうがはるかに分かりやすいはずです。

 

(7)「放火犯は早く捕まえないと、ますますエスカレートするだろう」というのもありましたが、“エスカレーター”は馴染みがあっても、英語の動詞としての、escalate を意識する人はどのくらいいるでしょうか?「何となく分かる」という人は多いとしたら、国語の授業では用語の定義をきちんと教えていないと言うことになります。

 

(8)“シミュレーションしておく必要がある”というのもありました。この語も広辞苑にはありますが、定義はなかなか厄介です。遊園地などでは、“疑似体験”の出来る “シミュレーションゲーム”などがありますから、感覚的に分かる人はいるでしょう。でも言葉は、「何となく分かる」では困るのです。

 

(9)以上のような悪例を使わないようにするにはどうすればいいでしょうか?法律で決めても効果は無いでしょう。学校教育の場で、正しい表現と間違った表現の区別を学年に応じて、じっくりと教えていくよりないと私は思います。「英語が話せる人は格好いい」とか、「英語さえ知っていれば世界中どこにでも行ける」といった先入観を排除するためにも“時間をかけて教え込む”より無いと私は考えています。(この回終り)