言語情報ブログ 語学教育を考える

発話行為の副詞と疑問文の二面性

Posted on 2010年8月26日

発話行為の副詞と疑問文の二面性
 (2)Confidentially, did you like this textbook? においては、文頭のconfidentiallyという発話行為の副詞と、後続するdid you like this textbook?という疑問文全般の二面性が、全体の両義性に関連します。まず、Evidently you liked this textbook.において、文副詞Evidentlyは、It was (is) evident thatと換言可能ですけれども、発話行為の副詞confidentially等は、文よりもより上位の発話に関連しており、このようには換言できず、発話に限定を加えているのです。
 次に、疑問文全般の二面性とは、通例、両面的で区別されないのであるけれども、話者が尋ねるという面と聴者が答えるという面から、疑問文が成り立ってと考えることができます。Aは、話者の尋ね方が発話行為の副詞に限定される解釈で、Bは聴者の答え方が発話行為の副詞に限定される解釈です。
A: 内密に、尋ねてますけど、この教科書気に入りましたか。
B: 内密に、答えて欲しいのですけど、この教科書気に入りましたか。

 次回は、次の(3)の両義性を扱います、両義的箇所はどこでしょうか。
(3)There is no smoking in this building now.

flying planesが両義的

Posted on 2010年8月25日

flying planesが両義的
 (1) Flying planes can be dangerous.は、著名な英語例文で、伝統主義の大家Jespersenに遡り、新言語学の創始者Chomskyがアメリカ構造主義を批判する際にも用いられました。
 両義的箇所は、flying planesという主語部分で、flyingが、1.現在分詞対動名詞、flyが、2.自動詞対他動詞、そして、flying planes全体で、3.planesに強勢対flyingに強勢という、対立になっています。Aは、flyingが現在分詞、flyが自動詞、そして、flying planesではplanesに強勢があり、Bは、flyingが動名詞、flyが他動詞、そして、flying planesではflyingに強勢があるのです。
A: 飛んでいる飛行機は、危険性がある。
B: 飛行機を飛ばすことは、危険性がある。

 翌回は、次の(2)の両義性を扱います。両義的箇所はどこでしょうか。

(2)Confidentially, did you like this textbook?

菅野憲司・英文法(再)確認

Posted on 2010年8月24日

 菅野憲司・英文法(再)確認
 初回

 千葉の英語教師、菅野憲司(かんのけんじ)ですが、野原剛社長からお誘いを受け、「英文法(再)確認」を書かせて頂きます。
英語という言語は、欧米の他言語と比較して、形態に簡略化が著しく、勢い、同一の形態が複数に意味を担うことが珍しくありません。文学の技法に、ambiguity(両義性)があるくらいです。
手始めに、20回、両(多)義的な英語例文を示して、次回に解説と解答を説明し、最後に翌回の例文を提示することとします。出来る限り、dailyで進めますので、ぜひコメントで解答をお寄せください。多くの例文は、両義性のうち、一方は解答が容易ですが、他方は解答が容易ではないようです。
 では、第1回として著名な例文を提示します。解答をお待ちしております。両義的箇所がどこかも特定してください。

(1) Flying planes can be dangerous.

浅野:英語教育批評:「日本語と英語の違い」について

Posted on 2010年8月17日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2010 年9月号の特集は、「小さな疑問からひもとく日本語と英語の大きな違い」である。日本語と英語では語族が違うから、「大きな違い」があることは、少しでも英語を学んだことがあれば、実感があろう。英語についてどういう疑問を抱くかは、学習者の年齢や学習段階によって異なるであろうが、この特集の「小さな疑問」の設定には、それこそ疑問を感じるものがある。
(2)例えば冒頭の、瀬戸賢一(大阪市立大)「雨の表現がたくさんある日本語は風流か?」だが、こういう問い方は、著者は「風流ではない」と考えていると予想させるのが普通であろう。そういう意図がないのであれば、「日本語には雨に関する表現が豊富だが、それはどういう文化的な意味があるのだろうか?」などの方が、素直で分かりやすい。英語教師を相手にした記事でも、学習者の視点を軽視すべきではない。
(2)阿部圭子(共立女子大)「日本語と英語、『説得』に向いている言語はどちらか?」といった問いかけは、「日本語よりも英語の方が“説得”に向いた言語だ」といった印象を学習者に与えかねない。英語教師の中にも、「英語は論理的だが、日本語は情緒的だ」と考えている者がいるが、もしそれが正しければ、日本では哲学や数学は発達しなかったであろう。違う言語にはそれぞれ違う特徴があるが、そのことは、ある言語は、他の言語より優れている、といった価値判断を示すものではないはずだ。
(3)阿部氏は、ある問題を持った人物が、誰かに助言を求めるような場合、相談された側は、どういう対応をするか、といった場合の英語または日本語の実例を分析している。それ自体は貴重な資料であろうが、氏の結論は言語の問題と離れてしまっている。結論の一部には、「…その内容や回答者の立場などには明らかに日米差が見られ、これは言語的特徴というよりは、背景となる社会やそこにおける様々な規範により助言談話とうものが規定されているためと考えられる。」と書いているからだ。
(4)町田健(名古屋大)「英語で否定文を作るのにいろいろな方法があるのはなぜか?」という問いも、「日本語の否定の方法は少ない」という印象を与えてしまうであろう。日本語を学んでいる外国人には、「…と考えていないわけではない」とか、「君が行きたくないという気持ちは理解できなくもない」といった表現はとても難しいらしい。漢字による否定語が入るともっと複雑だ。「相手の非論理性を否定できない自分の無策ぶりに絶望した」など、日本語の否定表現も実に豊富ではないか。
(5)1970年代になって、米国の大学に留学した人たちが帰国すると、「はっきりものを言う」人たちが増えたが、先輩や上司に対しても失礼な発言があったりして、批判されたことがあった。この特集の記事には、Gregory King(中部大):Is it true that Americans are direct? があるが、最後に、“We Americans are direct, but we are also polite.” と述べている。他人への配慮が必要なのは、英語圏でも日本語圏でも同じだということを忘れないようにしたい。(浅 野 博)

【私の記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます】

浅野:英語教育批評:「母語の学習と異言語の学習」について

Posted on 2010年8月10日

(1)「母語の学習」というのは不正確な言い方かも知れない。言語研究者の間では、「母語は(生得的に)獲得されるもの」とされているからだ。しかし、例えば日本語の場合、どの段階で「獲得した」と言えるのであろうか。成人はすべて「日本語を獲得して」、正確で間違いのない日本語を書いたり話したりしているであろうか。もちろん、そんなことはあり得ない。つまり母語といえども、人間は一生をかけて、いや、一生をかけても、完全に習得することはできないのだ。まずこのことを前提としておきたい。
(2)なぜ「母語 (mother tongue) 」と呼ぶようになったかは、母親の赤ん坊の育て方をちょっと観察すれば分かる。母親は常に赤ん坊に話しかけている。赤ん坊は母親の顔を見ながら、じっと聞いている。やがて、「アアー」とか「オオ」といった喃語を発し始める。3歳から4歳くらいになると、その言語能力に周囲の大人は驚嘆する。語彙力は急速に拡大し、周囲の大人が使ったこともない表現をしたりするからだ。これが通常の子どもの成長過程だ。現在では、母親の育児放棄や子殺し事件まで起きているが、今回は、この問題は話題としない。
(3)英語教師は少なくとも「英語のような日本語と違う言語」を学ぶことの難しさを知っているが、世間一般の人たちは、「子どもはあんなに早く言葉を覚えるのに、日本人はどうして長い間英語を学んでも、話せるようにならないのだろう」と疑問を抱く。そして「英語の先生や教え方がおかしいのではないか」と言い出す。これは、“素人”の見解としては、やむを得ない点がある。むしろ“玄人”としての英語教師がしっかりと説明すべきことかも知れない。英語教師にも責任があるのだ。
(4)英語教師の責任と言えば、何か新しい理論が紹介されると、それに飛びついて、他のことを考えなくなる傾向があることは反省すべきであろう。例えば、「言語使用は単なる模倣ではなく、創造的な活動である」といった主張を信じて、「もっと創造力を伸ばす教え方をしよう。暗記させる教え方はもう古いのだ」と思ってしまう。こういう英語教師の傾向を示す証拠が1つある。「現代英語教育」(研究社出版)の1997年1月号は、「やはり暗記も大切だ」という特集をしている。「やはり」とあるのは、暗記を排斥する傾向があったことを示している。冒頭の記事は原田正明氏(江戸川女子短期大学)の「英語学習と暗記の問題」で、当時の英語教育の状況を分析し、暗記指導の問題を多角的に論じている。そして、「日本語と外国語は違う言語だ」ということを意識することを主張している。
(5)私は、母語と異言語の相違点で注目すべきは、「言語環境の違い」だと考える。例えば、母語の場合は、周囲から浴びせられる言語音声は、瀧の水を浴びるようなものだが、教室での英語は、まるで雨だれのような貧弱なものである。母語の場合は、無理に暗記しなくても、繰り返し実例に触れているうちに自然と覚えてしまうのである。教室の英語に限界があるならば、個人的に努力して繰り返すよりない。そういう継続と集中力の必要性をなるべく早くから教えるべきだと思う。(浅 野 博)

【私の記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます】