言語情報ブログ 語学教育を考える

10.書く量,読む量こそ基本(湯川秀樹の英語力-その2)

Posted on 2010年2月3日

湯川はたいへんに几帳面で,多くの講演の草稿,雑誌・新聞への寄稿,講義の下書き,学会・研究会,その他の会合の挨拶の草稿などが残っている。日記もこれから整理がつき次第,順次公開されるであろう。

湯川には11巻の大きな,ずっしりとした著作集があるが,選ばれてそこに掲載されたのは,半分,あるいは何分の1かである。すなわち,彼の書いた分量は膨大なものである。彼は書き続けることによって,書けるようになった。

初級のフランス語作文でさえ,かなり長いものを書いていた。おそらく高校時代の英作文も相当長いものを書いていたのではないだろうか。(この点について書いたものはまだ見つからない。)

読みについても同様だ。彼の読み方は「徹底的」である。幼児の頃の『太閣記』10巻にしても,毎日毎日持ち出してきては絵を眺め,読めるところを読み,何度も何度も読んで,小学校低学年に至るまで3,4年間親しんだようだ。『源氏物語』も3回読んでいるが,1回に3年以上もかけて徹底的に読んでいる。

専門の量子力学,原子核の論文にしても,毎日毎日何度も何度も読み,考え続け,わかったと思ったら夜中でも飛び起きてノートに書きつける。本が英語,ドイツ語であろうとイタリア語であろうとあまり問題ではなかった。(夜中に急に電灯をつけられて,奥様,お子様はたいへんだったろう。)

読む量,読む回数,書く量,書く回数,またそのことに関わる時間の量(始まれば一日24時間その問題は頭から離れない),これが彼の読書力,ライティング力をつけたと考えられるのではないだろうか。
(村田 年)

9.コロンビア大学での講義(湯川秀樹の英語力-その2)

Posted on 2010年2月2日

プリンストン高級研究所に客員教授として滞在中に,コロンビア大学へ専任教授として来てくれないかとの誘いがあり,これを受けて,1949年9月から1953年5月まで3年8ヵ月にわたって講義を行う。

その間も講演やら会議やらが多かったが,几帳面な湯川のこと,この間の講義の準備である,1200枚2400ページの英文講義録がすべて残っている。話題は「原子核物理学」「中間子論」といった彼の専門で,学生たちは完全に世界のトップの研究者からもっともホットな話を聞くことができたわけである。ここでも「もっと大きな声で」と学生たちに何度も
言われたそうだ。

いかに几帳面な性格だとは言え,毎晩あちこちへの手紙を書く,講演の用意をする,自身の研究を進め,論文に仕上げ,国際誌に投稿する中,毎回の講義原稿を作ったのである。やはり英語がすらすら書けるようになっていたのであろう。もともと語学の才能は豊かであったというよりも「書いた量」が彼の作文力をどんどん伸ばしたと考えるべきであろう。
(村田 年)

浅野式辞典:「じこう」(時効)

Posted on 2010年2月1日

 その昔、シンデレラが夜の12時までにお城を出ないと魔法の力が失われると決められたのが起源とされる。現在では、犯罪に関しては、残しても、廃止しても問題が生じてしまうという厄介な制度。前回と同じ3人が言うには;
ボケオヤジ:まだ自公政権なんて続いているのかね。
オバカキャラ:我が家のジコーが9時なんて早いよ。あと3時間延ばしてほしい。
ヤンキー:この前テストが0点だったら、小遣い減らされてさ、もう時効だよな。

8.プリンストン高級研究所へ(湯川秀樹の英語力-その2)

Posted on 2010年2月1日

1958(昭和23)年にプリンストン高級研究所から客員教授でと招聘される。日本政府もマッカーサーも乗り出してくれて,これが実現した。初めての日本人教授だというので,港にはたくさんの新聞記者や放送記者が待ち受け,たいへんな騒ぎとなり,その後も特別待遇で講演,会議,研究打合せと英語を使ってたいへんであったろうと想像される。(しかし,英語についての苦労話を見つけることはできなかった。)
(村田 年)

7.いきなりの講演(湯川秀樹の英語力-その2)

Posted on 2010年1月31日

ミシガン大学では急に講演をすることになり,40分間話した。英語が下手で聞く人には申し訳なかったと言ったら,英語はperfectだったが,声をもう少し大きくしてほしかった,と言われた。原稿もなにもなしで,ともかくすらすらとしゃべれたのは自分でも不思議であったと10月2日の日記に書いている。

その後もいくつかの大学で30分程度の講演をすることになったが,すっかり慣れてしまったようだ。
(村田 年)