言語情報ブログ 語学教育を考える

6.湯川のリスニング力,スピーキング力(湯川秀樹の英語力-その2)

Posted on 2010年1月30日

湯川の出身中学は,名門京都一中なので,もしかしたらネイテイブ・スピーカーの教員がいて,最初から本物のイギリス英語を聞いたかも知れない。名門三高においてはおそらくネイテイブに習ったのではないだろうか。そのような記述はどこにも見つからなかったが。

大学に入り,ドイツ人教師が英語で物理の授業をするのを聞いて,思っていたよりよくわかった,やさしかったと湯川も朝永も言っている。

湯川は最初の論文で名前が欧米に知られるようになり,1939(昭和14)年6月に「ソルベイ会議」で講演するようにと招待され,同時に国際物理学会でも講演することになり,初めての海外出張に出る。が,第2次世界大戦勃発により会議は中止,米国の大学・研究機関を歴訪して10月に帰国する。

この間湯川は実に精力的にたくさんの研究者に会い,求められれば講演をしている。その様子が克明な「日記」として残っている。その日記から彼の英語リスニング・スピーキングの状態を見てみたい。

8月7日にベルリンに着く。ドイツを初めヨーロッパの学者たちの英語は外国人なのでわかりやすく助かったようだ。戦争勃発で,予定変更になり,行き先の切符・ホテル等の手配もまあまあうまくいっている。会議・講演が中止になるのかどうかがわからず,夜は手紙を何通か書き,電報を打ち,急ぐ場合は電話をかける,英語を使ってこれを精力的に,実に小まめにやっている。その上日記をつけているのだ。

アメリカ経由で帰ることになり,ニューヨークに上陸し,汽車で移動して,でき得る限り多くの研究者と会って帰ることにした。物理学はヨーロッパが中心で,特にユダヤ系の学者が多く,ナチスドイツの迫害を恐れて,すでにかなり多くの研究者がアメリカに逃れていた。

これらの研究者の英語はネイテイブではないので,たいへんにわかりやすく,何の不自由もなかった。アメリカ人の学者も専門の話をするぶんには,特にそこに黒板があれば大丈夫だった。ほとんどは何度も文通を重ねている仲であった。しかし,初めての研究者だと,その名前すら何度聞いても聞き取れず,困った。一般のアメリカ人も予想外にことばが聞き取りにくく,またこちらの言うことがよく通じないのでことさら失望が強くなった。たまにイギリス人に会うと,よくわかってほっとした,といったことを9月15日の日記に書いている。

ニューヨークではコロンビア大学,プリンストン大学などを訪問し,どこでも歓迎され,father of meson theory(中間子論の父)などと紹介される。やがて海外も3ヵ月目に入ると,相手の言うこともたいていはわかるようになり,また相当込み入ったことも言えるようになってきた。それでも相手の名前を何度聞いてもDr. Street なのかDr. Stevensonなのかわからなかったという。(日記では「わからない」と「慣れてわかるようになった」が交錯する。)
(村田 年)

浅野:英語教育批評:「英語教員養成」を考える―「英語教育」2月号の特集をめぐって―(その2)

Posted on 2010年1月29日

(1)前回は、松沢伸二氏の記事に関連して、教員になるためには、多くの科目を履修しなければならないことを述べた。松沢氏は平成18年の中教審の答申に触れて、次のように述べている。

「(前略)しかし、筆者の経験では、一定以上の適性を持つ学生であれば、教員に最小限必要な資質能力は4年制で育成できる。さらに必要な知識技術は教員が現職研修と大学院で習得するのが実践的でよい。」

 こういう主張と共に、新政権が上記のような条件を実践できるように教育環境の改善を実行することを要望している。

(2)私は、松沢氏のこの見解に反対するつもりはない。ただし、もう1つ考えるべきことがあるのではないかと思う。それは、第2次大戦後のアメリカ占領軍は、戦前の師範学校による閉鎖的な教員養成制度を廃止することをねらったということである。つまり、一定の単位を取得すれば、専攻科目の如何に関わらず教員免許を与えるという制度にしたわけである。「6年制」にすればそれ困難なことになるし、「4年制」であっても、現行の科目数では取得はかなり難しいであろう。取得しやすくすれば教員としての知識や技術が低くなるという矛盾を孕んだこの問題の解決にはもっと私たちが知恵を出し合う必要があると思う。

(3)もう1つの大きな問題は、学校の多様化と教員養成の関係である。昔は、教員になって小学校や中学・高校に戻っても、以前の自分の経験が役立つということがあった。しかし、現在は「小・中一貫校」とか、「中等教育学校」とか、または「小学校の英語活動」とかがあって、中学の教員になったつもりでいると高校の課程を教えることになったり、英語の専攻ではないのに、英語を教えることになったりする。こういうことが、特に新人教員にはかなり負担になるのではないかと思われる。

(4)中山・大崎・神保「長期的視野に立つキャリア形成―英米の教員研修制度に学ぶ―」は次のように書いている。

「イングランドの事例を概観すると、キャリアに応じた5つのスタンダードの設定が教員の長期的なキャリア形成において大きな役割を果たしていることがわかる。

一方、日本では、教職課程における単位認定は大学の裁量に任せられており、全国的に統一されたスタンダードはない」(p. 25)

(5)つまり、教職科目の認定基準もばらばら、配属される学校の実情も様々、といった状況では、新人教員ならずとも戸惑うことが多いであろうことは、容易に想像できる。教員養成の道も、「日暮れて道遠し」ということではないのか。
(浅 野 博)

【私の記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます】

5.物理学会の英語添削者レゲットさんの提案(湯川秀樹の英語力-その2)

Posted on 2010年1月29日

日本物理学会の紀要論文の英文添削者のひとりであり,物理学者のレゲットさんは,日本人物理学者の英文について,次のような分析をしている。

「日本人の文章構成は,枝葉,具体例などspecific なことから話が始まり,それがまとまってやがて中心線へと至る。するとまたspecific なことがらを紹介し,同じように中心線へと至る。そのような繰り返しによってやがて中心テーマが明らかになり結論に至る。

いっぽう英語国民の場合は,話は中心テーマより始まり,そのテーマの補強として理由,説明,言い換え,実例などが示される。しかし,常にテーマ中心で,そこから大きく逸脱しないような配慮が一貫してなされる。」(★下図を参考にされたい。)

レゲットさんは長い間の物理学会の英語論文添削で,単に字句を改善しただけではだめで,日本人の論文の場合,論文の構成全体をある程度入れ替える必要があると思われて,学会の紀要の中に上記のような記事を書き,研究者の意識の変革を促したのであった。
(村田 年)

中休み ― 蛇足

Posted on 2010年1月28日

湯川秀樹は天才だ。どの文章を読んでも単にできのいい秀才ではないとわかる。ニュートン以来の古典物理学の道を大きく変えた,世界の天才,ハイゼンベルクやフェルミに対して,27歳で,まったく対等に四つに組んでいる。

湯川と対談した人は,谷川徹三,吉川幸次郎,司馬遼太郎にしても,桑原武夫,梅原猛,梅棹忠夫にしても,もう一度対談したいと言っている。それだけ湯川から得るものが多かったのであろう。

天才の型としては,湯川は分裂型の天才で,いわゆる天才だ。対して朝永振一郎は躁鬱型(一部分裂型を含んだ)の天才(能才)だ。庶民派で,やさしく物理を噛み砕いて,わからせてくれ,ひとりひとりに絶えす心を配ってくれ,優れた先生だが,一見しては天才には見えない。

分裂型は非社交的で内気で,控え目で,気まじめで,ユーモアを解さない者が多い。偏執性が強い。自分は,頑固で,偏狭さ,我執を備えていたと湯川は述べている。また,創造には強度の「執念深さ」がなければならないと説いている。

宮城音弥によれば,天才研究者は精密な理論家,体系的学者,形而上学者であるという。まさに湯川はぴったり当てはまる。先輩,先生について,その指示で研究を進めるといったことは湯川にはできなかったろう。同期生でもいっしょに研究するのは無理だろう。

湯川に分裂症が強く出なかったのは運がよかったと言える。彼は朝永とは同じ部屋で3,4年机を並べていたが,いっしょに論文を読んだことも,文献を交換したこともわからないところを相談し合ったこともほとんどなかったという。朝永が隣にいるのを忘れて立ち上がり,ぶつぶつ言いながら歩き回ることもあった。朝永が東京へ去ってからは生涯よく手紙を交換している。

湯川は,最初の論文を完成するまでは孤独で,朝から晩までただただ原子核の「核力」の問題ばかり考えている。結婚し,子どもが生まれたが,眠れなくなり,家の中あちこちに寝場所を移すが眠れない。赤ちゃんなど一度も抱いたことがなかった。「はれやか」という安定剤を常用していた。精神的な爆発寸前に論文が完成したと言ってよいであろう。

その後は教え子たちが,高い理想を掲げる湯川の周りに,集まってきて,いつも議論をしながら仕事を進めることができた。常に彼がアイディアの中心で,自分が関心のない問題を議論する必要はないし,「その点をもう少し進めてみようか」と言っただけで弟子たちは計算してしまうので,仕事はどんどん進んだ。

湯川には親しく話す同輩も,年齢の近い,親しい先輩も,よく相談できる先生もいなかった。ちょっと家に話しに来ませんかと誘える相手はいなかった。幸い,教え子たちがいつも研究室に群れて,自宅にも相談に来るし,優秀でどんどん仕事をしてくれる。それが彼が精神的にくずれずに済んだわけの1つと思われる。

湯川は貴族的で盛装して歌舞伎を見に行く。高い理想を掲げ,自意識過剰で,自分を見せない。自己を表現するのに困難を感じるとじっと黙ってしまう。「徹底的に」が大好きで,基底には強い厭世感がある。彼がくずれなかったのは,もうひとつ,最初の論文が的中し,その後も彼が考えていた以上に素粒子の解明が複雑で,常に物理学の中心課題であり続け,自身が世界の研究の中心であり続けることができたからであろう。この度ノーベル賞を取った南部,小林,益川は湯川理論の延長線上にあり,湯川のお弟子さんと言ってもいいであろう。

湯川は外面的には成功者で,なんらマイナス面のない一生であった。が,ごく少数の人を除いて,ただ敬して遠ざけるだけ,あるいはここにすがっていい就職口を,といった人々に囲まれて,はたして幸福であったか,悲劇の人であったか,それはわからない。
(村田 年)

4.湯川のノーベル賞論文の英語(湯川秀樹の英語力-その1)

Posted on 2010年1月27日

湯川のノーベル賞論文の英語について,科学史の専門家は次のように言っている。「でき上がった論文は,文章がぎこちなく,語法もいささか変格で,湯川が英語に充分習熟していなかったことをうかがわせる。」クリース&マン『素粒子物理学をつくった人びと』(1986)より。

ここに書かれている通りかも知れない。1文,1文はぎこちない英文であるが,いっぽう,論文全体としては論旨が取りやすく,readable な,わかりやすいものであったようだ。

上記の本は日本語訳の表題とは違って,20世紀の物理学者を広範囲に扱っていて,約320名の物理学者が登場する。その中での湯川を扱ったスペースは,およそ28番目に長い。これはおそらく第1論文が相当広く読まれ,きちんと理解され,高い評価を得た証拠でもあろう。

この中間子第1論文は,
1934年10月18日に日本語の話し言葉で書き始める。タイトルは英語であった。中の文も
英単語まじり。
11月1日に英語で書き始める。その手書き原稿を何回も読み直して,直している。この原
稿はそのまま今も残っている。
11月17日 日本語で発表する。タイトルだけは英語のまま。
11月30日 英文原稿できあがり,タイプで打ち始める。
12月8日 英文原稿できあがり,学会へ送る。
1935年2月5日 発行される。ちょうど10ページ分。

手書き原稿はペン書きで,インフォーマルな,軽い書き方である。だいたいでき上がると,ペン書きで英訳していった。それを辞書を引いたりして,動詞を変えてみたり,誤植,つづり,冠詞を直したりしている。直しはそれほど多くない。手書き論文を眺めて推察するに,下書きを書いて,それを直して,清書したのではなく,最初から書いたものである。ネイテイブの評価は上の通りだが,英作文は長いものでもある程度書ける,語法はともかく,結果はそれほど読みにくいものでないと思われた。(以上の原稿はすべて残っていて,インターネット上で読むことができる。)

論文のタイトルは「素粒子の相互作用について」(On the Interaction of Elementary Particles. I)第1章「はじめに」(Introduction)の冒頭は上に示した通りで,率直に始まっている。まずは第1の先行文献であるハイゼルベルクの考えを要約し,その矛盾点を示し,さらにフェルミのベータ崩壊論を紹介し,その説明はそのままでは役に立たないことを示した。
第2章「相互作用を記述する場」(Field describing the interaction)で,この両者の理論の修正として,陽子から中性子への転化に寄与する別の粒子(中間子)の存在を考えることによって矛盾は取り除かれ,相互作用は核力の場によってうまく説明できるとした。

第3章「場に伴う量子の性質」(Nature of the quanta accompanying the field)では,核力の場とそれに伴う中間子の性質について概略的な議論をし,第4章「ベータ崩壊の理論」(Theory of β-disintegration)でベータ崩壊の理論について概略し,第5章「結論と要約」(Summary)。詳しくは次の論文で,としている。

10ページのこの論文は,簡潔で明瞭,内容的にはわかりやすく,たいへんに多くの引用回数に耐えることができたと思われる。詳しくは次の論文でとした点もたいへんによかったと思われる。

湯川は自分でも総論的な人間だと言っているが,高いところから全体を見渡す,書く力の配分,バランスを瞬時につかむことができ,思考そのものが英語に合っているのではと思う。エッセーを読んでいても,その強固な骨格に,そのまま英語になるな,としばしば思った。

このような話がある。小松左京は若いころ雑誌記者をしていた。だめでもともとと初めて湯川を研究室に訪ねたそうである。原子力問題について少し話していたら,湯川が突然「よし」と言って,口述の合図をした。「開拓者の道」とタイトルを言い,1句,1句言葉を選び述べられた。促されて読み上げると,それでよいと言う。口述で,まったく直すところがないほど,最初に全体が見えてしまうのである。
(村田 年)