言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野式辞典:「しゅんそく」(瞬足)

Posted on 2009年10月5日

 親の世代の誤答は:「トライアスロンのマラソン」「百メートルで世界記録のボルト選手のこと」
「連戦連勝のサラブレッド」(「駿足」とも書くが)など。小学生は「速く曲がれるナイキのスニーカー『瞬足』を買ってよ」などと親に言う。

浅野:英語教育批評:「遅れがちな生徒」と授業のこと

Posted on 2009年10月1日

(1)2009年9月26日に行われた関東甲信越英語教育学会の月例研究会に出席した。講師は萩原一郎先生(神奈川県立横浜緑園綜合高校)で、正式な題目は「遅れがちな生徒たちと創る高校英語の授業」である。授業実践の報告であったが、私がより興味を感じたのは、30年間ほどの萩原氏の教師経験を語られた、前半であった。
(2)一口に県立高校と言っても、その実態は複雑で、45名の大クラスから、学級崩壊が起こるような“底辺校”(これは先生の用語ではない)までを経験されながら、自発的な研修を心がけたとのこと。しかも、その間には体調をくずされて、転勤を余儀なくされたこともあったという。教育問題を語る大臣や文部官僚は、こういう教育現場をもっとよく見てほしいと強く要望したい。
(3)この月例研究会は長年続いているので、様々な実践、研究報告がなされてきた。定時制高校や工業高校における血のにじむような実践報告もあれば、高校生が見事にディスカッションやディベートをこなすモデル授業もあった。後者の場合は、「よくあそこまでやるなあ」と私など感心するばかりであったが、今回はそんなところへはとても到達できそうもない生徒たちの指導はどうあるべきかを考えさせられた報告であった。
(4)萩原先生は、毎時間生徒に配るプリントやテスト問題などの実例の見本を用意してくれたが、生徒の誤答の1つに、”Love begins at home.” という英文では、それぞれの単語を調べて「家を愛し始める」と訳してしまう例があった。私は「そういう生徒に英語を教える意味はあるのだろうか?」と問題提起をして、すぐに「そういう生徒でも、この英文の意味が何も分からない生徒よりはましなのかも知れないが」と自問自答してしまった。しかし、教師も親も特定の教科の成績にこだわり過ぎるのではないか、とうい気持ちは今も抱いている。
(5)萩原先生は、こういう生徒にもていねいに段階を踏んで、主語と述語動詞の概念を教えていく。アンケート調査でも、そういう先生の指導法を「役に立った」と評価する声が過半数を占めている。私などには気の遠くなるような話だ。でもこれが教育の現状なのである。先生の報告では、高校の先生方は、生徒の実力よりも高い“より難しい教科書”を採択する傾向があるとのこと。まず英語教師が、自分の足元をしっかり見つめる努力を始めるべきなのであろう。(浅 野 博)

浅野式辞典:「とうひょう」(投票)

Posted on 2009年9月28日

「投票の陰に犯罪あり」と昔から言われてきた(?)。「盗票」は「他人になりすまして投票すること」、「当票」は「当選人が投票してくれた人に礼金を払うこと」、「逃票」は「礼金を先取りして投票せずに逃げること」などなど。

浅野:英語教育批評:「教員養成と英語教育」のこと

Posted on 2009年9月24日

(1)民主党の輿石参院議員会長が「教員免許更新制度」の廃止を表明したことに、自民党が「日教組教育の再現だ」と批判を強めている。
どうしてこのように、「是か非か」という極端な議論しかできないのであろうかと嘆かわしく思う。ある評論家は「新大臣たちは、マニュフェストにこだわり過ぎる」と述べていたが、私も同感である。これでは、「実施か、廃止か」というだけの議論になってしまう。(政権を得てから、マニュフェストの訂正が多いということになったら、信頼を失うのは当然だが。)
(2)教員免許更新のための講習会の実際をもっと調べてほしい。かなり運営に無理があるはずだ。しかも、教員は夏休みの授業のないときでも、出勤を義務付けられている場合が多い。図書室に教員用の図書を十分に備えているところは、公立の中高では皆無であろう。
(3)目標とすべきは、免許の更新ではなく、教員にもっと教える力をつけるということである。それならば、それにふさわしい条件を整備するのが先だと思う。しかも、教える力をつけるためには、大学の教員の講義を聞くだけではダメなことは明確だ。
(4)英語教育関係の学会や研究会は数多くあって、どこでも授業研究が大きな研究テーマにしている。授業を見たり、見られたりして切磋琢磨することはとても有効なはずだ。しかし、授業の公開などは個人情報の漏洩になるという批判が出ている。それを言い出したら、授業そのものが実施できなくなると私は思う。「生徒A は質問に答えられた」「生徒B は答えられなかった」ということが明らかになってしまうわけだから。情報開示と個人情報保護という矛盾する問題をもっと議論すべきだと思う。
(5)教員養成制度についても、医学生の場合のように、6年間とすべきという案があって、新聞の投書欄では反対意見が多いようだ。現在でも、修士課程を終えないと、「専修」という免許がもらえない。かなりの教員が無理をして獲得に努力しているはずだ。優秀な教員が集まりにくくなったのは、教育委員会が3月になっても内定の通知さえ出さないことがあるために、希望者が別の分野へ流れてしまうからだ。制度を複雑にして、必要な条件を変えないから、教員や教員志望者には余計な負担がかかっている。もっと単純化して、努力しやすい教育環境の整備を強く求めたい。(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「テストと教える英語」について

Posted on 2009年9月17日

(1)「英語教育」(大修館書店)2009年10月号は「授業内容の定着を図るテスト」を特集している。テストは大事だし、各筆者が紹介している様々な工夫や技術が必要なことも分かる。しかし、ないものねだりで申し訳ないが、こういう有益な情報を利用して良いテストを作れない、または作らない教師がいるという現状認識と批判の記事もほしいと思う。
(2)若林・根岸『無責任なテストが「落ちこぼれ」を作る』(大修館書店)が出てから、10年ほどになるが、実情はもっとひどくなっているのではないか。あるラジオ番組で中学生とその親が訴えていたが、英語の先生に質問をしたら、「そんなことは塾の先生に尋ねなさい」と言われたとのこと。逆に、「うちの子の点数がこんなに悪いはずがない」と文句を言うモンスター・ペアレントも存在する。
(3)同じ号の「英語教育時評」は、山田雄一郎氏が「『生きた英語』とは?」について書いている。英語教育界ばかりでなく、日本人は何事にも、「明確に定義すること」や「きちんとした結論を出すこと」を嫌う傾向があるから、「生きた英語とは何か」を明確にしようという意図には賛成である。
(4)私はまず「生きた日本語」を問題にしてみたい。日常生活で、仲間と話したり、テレビ、ラジオで耳にしたりする日本語こそ正に「生きた日本語」である。そういう日本語について、「乱れている」という声も高い。敬語とか謙譲語のような難しい用法ばかりでなく、助詞などが間違いだらけなのである。(このことは、8月に私のブログで2回言及した。)
(5)ここでは、「生きた日本語」に含まれる「おかしな英語」に注目してみたい。日本人は外来語として英語を使うのが好きだが、勝手に作り変えてしまうから、とても英語話者に通じるようなものではない。例えば、「レッツ~」(”LETS~” などとも書く)が大好きだが、「レッツ・ジデジ」などと言う。若いタレントは、スーパーマーケットの安売りを紹介して、「レッツ・スーパー」などと言っていた。「そのスーパーへ行こう」と言っているつもりなのだ。まだまだ悪例はたくさんある。
(6)こういう言語環境で、「正しい生きた英語を学びましょう」という掛け声がいかに空しいかをもっと認識すべきだ。山田氏の一文も、時評というからには、そこまで論じてほしいと思ったのである。(浅 野 博)