言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「中学指導要領解説(外国語)」のこと

Posted on 2008年10月28日

 文科省から表記の解説書が発表されたので、それについて考えてみたい。前回のブログでは「日本の教育は全体的に破壊状況に向かっている」と書いたが、「それだけにもっと視野を広くして考えよう」というのが、私のねらいで、「悲観的になろう」ということではない。まず具体的な対策としては、毎回の授業の改善が考えられる。そのために指導要領は大きな役割を果たす。教員が無関心でも、各地区の指導主事などは、拡大解釈をしてまでその徹底を図るような指導をすることが多いからである。
 私が問題にしたいのは、この「解説」は誰を対象に書かれているのかということである。「対象は英語教師に決まっているではないか」と言われそうだが、あまりにも内容が平凡で、少し経験の長い教師にはわかりきったことしか書いてない。しかも、英語教員になりたての人や、英語教員志望の大学生などが読んでもほとんどわからないであろう。指導要領で用いられている用語について、「言語活動とは何か」とか、「現代の標準的な発音とはどういうものか」といった疑問に対する回答は見つからないからである。しかも、文献からの引用もなく、そのリストを示すことさえしないから、無味乾燥な、言い換えにすぎない記述ばかりになるのである。こんな解説書は税金の無駄使いであると言いたい。
 時間数が「週3時間」から「4時間」に増加したことについても、「週3」は誤りでした、とは言わない。「身近な事柄について一層幅広いコミュニケーションを図ることができるようにするため」などと述べている(p.3)。「週3」がいかに中学校の英語授業をダメにしたかは、隈部直光氏が15年も前に詳しく指摘している(「週3時間問題が残したもの」「英語教育」1993年8月号参照)。氏が「残したもの」と書いたのは、この時期の改訂で、「週4」になることがほぼ確定したからである。その後、また「週3」に戻り、今度また「週4」にするというのである。こんなに方針がぐらつく文科省に日本の教育をまかせてよいものであろうか。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:英語教育批判について

Posted on 2008年10月23日

 「英語教育」(大修館書店)2008年11月号の FORUM には、3編の英語教育に関する投稿があるが、その1つを取り上げたい。それは「費やす時間とエネルギーに見合った英語習得プログラムを」と題する米原幸大氏(元コーネル大学客員日本語講師)によるものだが、私にはこのタイトルがよくわからない。このタイトルで連想するのは、「中学の英語の時間が週4時間になっても十分でないなら、4時間でできることをやればいい」といったことである。学習者についても、「お前はあまりがんばれないから(つまりエネルギーがないから)、今の程度でいいよ」ということになる。
 しかし、米原氏の論点はそうではなく、文科省は「中学・高校で英語でのコミュニケーションができること」および「大学卒業後、仕事で英語が使えること」を目標としており、財界もそういう要求をしているのだから、それに見合った英語習得プログラムにして実践せよと言いたいのだ。英語教員は「こういった目標は夢物語にしか過ぎない」と言うであろう、彼らの多くはそうしたレベルの英語力をつけていないからだ、とも書いている。
 米原氏の矛先は、そこから大学の英語教育へ向けられるわけだが、大学教員の言い分として、「英語は手段であり、英語で何ができるのかが重要であって、英語力向上そのものが目的になるプログラムは本末転倒である」というのがよく使われるとある。私はこんな言い分は、寡聞にして聞いたことがないし、もし聞いたとしても、「何を言いたいのかわからない」と無視するであろう。大学の英語教育も反省すべき点は多々ある。そのため東大、ICU、早稲田などで改革が進められてきた。でも現在では私立大学の4割くらいが、定員確保ができていない。したがって、英語重視の学科でも英語力がないとわかっている生徒を受け入れている。今の独立法人大学でも起こりつつある現象である。つまり、日本の教育は全体的に破壊状況に向かっていて、英語教育だけの問題ではないという認識がまず必要なのである。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「ぜっせん」(舌戦)

Posted on 2008年10月16日

この語の意味を問われた高校生の答;
A:強い相手にがんばって戦うこと [それって、「善戦」だよ]
B:うまい牛タンを奪い合うこと [食べ物しか連想できないのか]
C:フレンチキスのこと [なるほど。正解にしてもいいな]

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:「数の概念」について(その1)

Posted on 2008年10月6日

 「英語教育」(大修館書店)の 2008年10月号に「日本英語ウオッチング日記」というコーナーがある(編集の手違いかこのページは目次にない)。翻訳家のポール・レクター(Paul Rector) 氏が日本人英語学習者に英文を音読させると、複数形の S が消えてしまう現象について書いている。His friends や holidays の語尾の S が消えてしまうが、his とか Dallas や Texas の S は消えない。このことから、「ただ彼らは複数形の英単語は感知できないといっても、逆に他の単語の最後の S を残すことにより、英単語の複数形の充分な認知力を発揮していると思う」と書いている。
 この推測に私は賛成できない。学習者は、「この単語は複数形だ。日本語では複数形で言わないから S を落とそう」などという意識があるわけではないからだ。なぜ複数形の S だけが消えるのか。私の仮説は「単なる練習不足」ということだ。初期の英語教室では、先生が大きなカード(「フラッシュ・カード」)を使って、新語の発音や意味を導入することが多いが、「his」「has」「Texas」などは、文字のイメージと音がそのまま結び付きやすい。しかし、普通名詞でも規則的な複数形を練習することは少ないようだ。
 一方、英語を母語として獲得していく幼児でも発話の過程では、「3単現の(e)s」や「複数形の(e)s」を落とすことがよくある。日本語の幼児ことばの場合は、「マンマちょうだい」「ワンワン来た」のように助詞が抜けてしまうことが多い。文法的に重要な要素でも、コミュニケーションの目的が優先される段階では、許容されるのである。このコラムの筆者レクター氏は、日本語の初心者の頃は、複数形を意識すると「鉛筆達」「車達」と何にでも「たち」をつけてしまったとも述べている。これも中間言語としては自然な現象である。したがって、日本の大人もその点では同じだ。『明鏡国語辞典』は「人・動物以外にも使うことがある」として「花たち」「貨車たち」の実例を示している。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:文字を書くこと

Posted on 2008年9月28日

私は文字の手書きが不得意で、1970年代の後半からワープロに頼ってきた。活字を拾う日本語タイプライターを使ったこともある。あまりワープロに頼ると、文字が書けなくなるのは確かなようなので最近、NINTENDO DS の「美文字トレーニング」を始めてみた。
よくできているのは、筆で書くような文字が書けて、しかも、細かい採点と「中の下」「上の中」のような判定をしてくれることだ。コメントが、「力強い文字になっています。上下のバランスをもう少し考えるとよいでしょう」のように、「褒め言葉」を忘れていないのもよいことだ。
ただし、機械だから欠点もあって、「書き順」と「画数」を間違えると認識してくれない。しかし、書き順や画数などを気にしていると、形がうまく書けなくて、失敗することがよくある。ワープロにも手書き入力の機能があって、こちらは書き順や画数などにかまわず書いても、似たような文字を提示してくれる(ただし、候補が多くて選択に困ることもあるが)。機械というものは一長一短である。
そこで、英語の指導のことだが、中学生に英文を書かせる場合に、「筆順が違う」「縦棒が長すぎる」などと注意されたら、内容を考えるどころではないであろう。初期の段階では、もっぱら文字の形を意識して書くような単純な練習が必要なのだ。スピーキングの指導でも、ALT は、意味が通じればよいと、生徒の発音や文法の間違いには寛大な場合が多い。どちらにしろ、極端では一番効果がないであろう。
「書くことの指導」については、大井恭子編著『パラグラフ・ライティング指導入門』(大修館書店、2008)が出たばかりだ。これは題名でわかるようにかなり高度なライティングを目標にしているが、指導方法としては「入門」編で、中学・高校に分けて具体例を示している。教室現場としては、そこに至るまでの基礎的な訓練を工夫することであろが、時間不足という大きな障壁があることは悩みの種である。
(浅 野 博)