言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野式辞典:「おやがく」(親学)

Posted on 2007年5月9日

 思わず「おやおや」と言いたくなる内容だが、教育再生会議が「子育ての望ましい方法」を述べる必要があるなら、「子育て適正検査」でも実施して、不合格者には結婚や出産を認めないことにしてはどうでしょうかね。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:新入社員の傾向とは

Posted on 2007年5月8日

 オリコンの調査によると、今年度の新入社員には、「上司にタメ口をきく」、「ガムを噛みながら会社の電話に出る」、「勤務時間中も自分の携帯電話でメールをする」といった困った傾向があるという。そこで「ザ・ワイド」(日本テレビ系)では、各社の先輩社員 300名に、そういう無作法を経験したかどうかを調べたら、約三分の一が「ある」と答えたとのこと(4月24日放送)。
 団塊の世代が次々と退職していくなかで、新人がこういう状態では、会社の運命どころか、日本そのものの将来が危ないとさえ思える。そして、教育界も例外ではないであろう。もう10年も前に「今年の新人教員は先輩の言うことなど聞こうとしないから、ほとんど話はしません」という中堅教員の声を聞いたことがあった。
 企業であれば、業績が上がらなくなって経営危機になれば、自業自得だから反省のきっかけになるかもしれないが、教育ではその前に生徒が犠牲になる。そういう生徒が成長していけば、さらに事態は悪化するばかりであろう。「免許の更新制によって、能力のない教員は排除する」と政府は言うけれども、首になる教員が多いと、自らの監督責任を問われることを恐れて、教育委員会の隠蔽体質が動きだすであろう。
 黙々とやるべきことを果たしている教員も少なくないことを信じたいが、教員は問題点と解決方法を考える必要がある。1つの方法は、「英語教育」(大修館書店)の5月号が特集しているように、「英語教育の『連携』を考える」ことだ。しかし、水をさすようだが、もう50年以上も前に、私が高校教員になった頃から、「中高の連携を」などは繰り返し言われてきた。しかも、今の社会は「競争原理」優先である。学校も、面倒な「連携」をするくらいなら、中高一貫校にするとか、「教育特区」になるとかして、成果をあげたほうが早いと考えているのではないか。“日暮れて道遠し”である。
(浅野 博)

浅野:英語教育批評:「英語に強くなる」

Posted on 2007年5月1日

 こんなタイトルは、本や雑誌で何回となく繰り返えされてきたが、最近読んだ畑村洋太郎『数に強くなる』(岩波新書、2007)にあやかってつけてみた。「数」は「すう」ではなく、「かず」であるところにも特徴があるのだが、学科としての数学は英語と似ていて、得意な生徒と嫌いな生徒がはっきりしている。ただし、英語は学び始めるときは、ほとんどの生徒が強い関心を示すのに、1年もすると嫌いな生徒が急増する。数学の場合は、小学校から学んでいるが、小数や分数が出てくる頃から計算の好き嫌いがはっきりするようだ。そこで、この書物には次のような箇所がある。

 学校でも会社でも、「計算は速く正確にやれ」「厳密な答えを出せ」とばかり言われる。そうして、みんな頭がくたびれて、いつしか数がキライになっていく。「それはあまりにモッタイナイことだ」と筆者は思うのである。(p. 12)

 英語も同じように、「誤りを恐れずに話しなさい」と教室では言いながら、試験になると少しの間違いでも減点する教師が多い。指導者の態度や考え方でずいぶんと「英語嫌い」は救われるはずだ。しかも、「数」も「英語」も社会が必要だと要求している。
 しかし、問題はもっと深いところにあるようだ。「英語教育」(大修館書店)2007年5月号で、江利川春雄氏の「英語教育時評」は、結びで「すべての子どもたちに外国語の基礎力をつけさせたい。そう願うならば、指導法の改善にとどまらず、足下に広がる格差社会の解消に向けて取り組みを強めなければならない」と述べている。しかしながら、「民主主義社会」を肯定するならば、どうしても「格差」が生じるのはアメリカが実証済みだ。徒競走のように出発点だけは平等にしようとはしているが、貧富の差はきわめて大きい。日本も似たような社会になってきた。それにどう取り組めばよいのか。選挙は確かに有効な手段だ。でも日本では有権者の四割程度しか投票による意思表示をしない。考え出したら悩みはつきない。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「おおむね12 さい」(おおむね 12歳)

Posted on 2007年4月24日

 「ええっ! 12歳で巨乳かよ」と喜んだ不謹慎な男性がいた。「概ね」という漢字は今は使わないから、「大胸」を連想するのも無理はないが、少年法でこんな用語を使うのもずいぶんといいかげんな話だ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:コトバの堕落

Posted on 2007年4月23日

 昔、英語史の授業で、soon という単語は「ただちに」という意味だったが、そのうちに「間もなく」という意味に変わったと教わった。単語だけではなく、コトバそのものが時代と共に変化することは多くの人の常識になっていると思うが、最近はその変化がとても速くなっているように思える。
 この傾向は特に日本語で激しいのではなかろうか。その原因は、1つには「誤用」と、その「誤用」を許容してしまう社会の風潮にあると思う。最近よく使われる言い方に「なにげに」がある。これをテレビで耳にしたのは数年前で、「何げなく」という否定の言い方を肯定にしてしまうとはひどい誤用だと思ったのだが、今は所ジョージくらいの年配のタレントも平気で使っている。本来の意味に関係なく、短いほどよいという傾向がコトバの変化を加速している。
 もう1つの原因は、特にテレビが誇張した表現を乱用することである。「激白」「徹底討論」「直撃インタービュー」など繰り返して使われると強い感じが失われてしまう。加えておかしいのが政治家の言い方で、明らかに矛盾した発言内容の弁解に「適切に処理し、報告しております」を何回も繰り返した大臣がいる。これでは「適切に」の意味がゆるんでしまう。これはコトバの変化というよりも、堕落と私は考えたい。堕落させているのは人間だが。
 「適当に」というのは、もうかなり前に堕落していて、「ある目的や条件にうまく合う」といった意味は、「適切に」に譲っていた。今後は、「適切に」も「いいかげんに」くらいの意味で使われるであろう。
 「誇張」というのは、レトリックの分野で認めている表現技法で、うまく使えば文章の効果を高められる。日本語でも英語でもこういうことを教えて、表現技術を高める必要があるのだが、とてもその余裕がないのが実状であろう。先日も、安倍首相と菅議員が委員会でお互いの国語力の不足を責め合っていた。真に責められるべきは、言語教育の不在であろう。
(浅 野 博)