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英語教育の“帯活動”を考える

Posted on 2012年4月19日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2012年5月号の特集は、「毎日コツコツ帯活動―積み重ねで学習者を育てる」です。私は、英語教育での“帯活動”という言葉は始めて知りました。そこで、最初の記事、太田洋(駒沢女子大)「帯活動の意味―Teaching ≠learning だからこそ」を読んでみますと、最初の方に、「帯活動、私は『ある一定の期間、授業の一定の時間帯(例、最初の5分間)に行う活動』と定義したいと思います」とあります。どうも私にはこの定義はよく分かりません。

 

(2)他の記事のタイトルを見ても、「チャンツでウォーミングアップ」、「歌を使った工夫」、「1-minute Speech」などとあって、どうしてこれを“帯活動”と呼ばなければならないのか分からないのです。「生徒に何か学習活動をさせても1回きりでは効果がないので、繰り返す必要がある」と言いたいのかも知れませんが、そんなことは昔から言われていたことで、外国語を教える場合の常識ではないでしょうか。新しい呼び方をすると、名称だけが独り歩きをして、特別に効果的なことを実践しているといった錯覚に教師が陥る危険性があると思うのです。

 

(3)私が“帯”という言葉で思いつくのは、テレビの番組です。TBS に「ひるおび」という番組があって、月曜から金曜の午前11時から、2、3時間ほど、政治、事件、娯楽、教養などを提供しています。司会者は一定で、コメンテーターは曜日によって変わります。こういう番組のファンは、その時間になったら、チャンネルを合わせて視聴するでしょう。

 

(4)「帯番組(おびばんぐみ)」という言葉は、広辞苑にも載っていますが、『明鏡国語辞典』(大修館書店)では、「ラジオやテレビで、毎日または毎週、連続して同時刻に放送される番組」と定義しています。教員はほぼ毎日、同じ時間に授業を持つことはあるでしょう。では生徒から見た場合はどうでしょうか。中学、高校の生徒にとって、毎日英語の授業があるというのは、特に公立校では普通考えられません。あったとしても、教師が変わり教科書も変わる場合が普通だと思います。

 

(5)したがって、「帯授業」というのは、教員または第3者の立場からの発想で、生徒の目線からのものではないと思わざるを得ないのです。上記(2)で書きましたように、英語教室での実践は、「帯活動」などという用語で表す必要はなくて、「どうすれば生徒の学習意欲を持続させられるか」という昔からの課題として考えればよいことだと思うのです。「生徒の学習意欲を持続させるために」といった特集でよいのではないでしょうか。

 

(6)「英語教育」誌の編集者は、編集後記で、この英語教育専門誌が「還暦」を迎えたことを報告して、読者への感謝を述べています。私自身も、その間ずっと本誌で勉強をさせてもらい、しばしば執筆者としても協力させて頂きました。本誌について意地悪な批評も書いてきましたが、その裏には、今後ともますます発展してもらいたいという私の念願が含まれていることをご推察頂ければ幸甚です。(この回終り)

(浅野 博)

『ああアメリカ』について考える

Posted on 2012年3月26日

(1)板坂元(いたさか・げん)氏の書物に『ああアメリカ』という題のものがあります。1973年に講談社現代新書として出版されたものです。この題では、アメリカについて“親しみのある国”とか“尊敬すべき国”といったイメージはまず浮かびません。憐れみとか同情を感じるのが普通だと思います。このような題にした真意を考えてみたいと思います。中高校生には、秋葉忠利『アメリカ人とのつきあい方』(岩波ジュニア新書、1989)をまず薦めたほうがよいでしょう。後に広島市長となった秋葉氏には、平和への強い信念が感じられます。

 

(2)この書物のカバーによりますと、板坂氏は1922 年に中国の南京に生まれ、東大文学部国文科を卒業しています。専攻は江戸文学で、1957年にケンブリッジ大学で、1960年にはハーバード大学で日本文学や日本語を講じて、この書物の出た 1973年頃まで10年以上の滞米生活を送っています。それでいて、“アメリカべったり”の姿勢にならない点に私は魅力を感じました(なお彼は2004年に82歳で歿しています)。

 

(3)実は、この書物のタイトルの下には小さい活字で、「傷だらけの巨象」という副題が付けてあるのです。つまりこの書物は、“巨象”すなわち“大国アメリカ”の陰の一面を批判しているのです。便利そうな日常生活に憧れるだけで、アメリカの退廃を指摘する多くの人がいることなど知らない当時の日本人への警告の文章なのです。

 

(4)40年ほど前に、アメリカで暮らすようになった日本人たちは、大きな冷蔵庫やクーラーなどのあるアメリカの“贅沢な暮し”を満喫するのですが、板坂氏は、それは始めのうちだけで、「一旦機器が故障すると何軒に電話しても応答がなく、やっと連絡がついて待っていると、“すっぽかされる”ことが多い」という趣旨の嘆きを書いています(p. 18)。

 

(5)日本でも、実際の“サービス”は広告宣伝のようにはいかないことがありますが、騙されるということはめったにないと思います。騙されると言えば、腹が立つのは「おれおれ詐欺」でしょう。日本人の“お人好し”につけ込んで、何千万円という大金を騙し取るのですから。これからは、若い人に、「誰も信じるな」と教えていかなければならないとしたら、誠に残念なことですし、教育上の大問題です。

 

(6)英語教員としては、「アメリカはダメな国だ」と単純に教えるのではなく、「アメリカという国を理解したかったら、もっともっと英語を勉強して、アメリカ人と話し合い、意見の交換をして、お互いに長所短所を認め合うところまでいけるようにしよう」と励ますべきでしょう。

 

(7)板坂氏は次のように書いています。「(日系移民に関しては)警察に捕まるような犯罪者は急速に減っていて、若い世代の医学、工学、建築、教育の面への進出が目立って多くなっている。やはり、三代の間に、しかも戦争のためにいったん破産状態にされた日本人が、少数民族ではあるがすぐれて頭角を現しているのは(ニューズ・ウイーク71年6月21日号)どこかに日本の伝統を背負っているからではなかろうか」(p. 170)。40年ほど前のことですが、心に留めておくべき指摘だと思います。

 

(8)伝統というものは、時には足かせにもなるものですが、完全に捨て去ることはできないものです。英語教員は、日本文化の伝統を見直しながら、学習者に英語の力をつけるような努力をしたいものだと思います。(この回終り)

(浅野 博)

「英語の授業を英語で行うこと」を考える

Posted on 2012年3月19日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2012年4月号の特集は「英語で授業を進めるために」です。「英語を教えるのに英語を使え」という方針に私は条件付きの賛成です。したがって、条件付き反対でもあります。その条件については、特集の冒頭の記事で金谷憲氏(東京学芸大特任教授)がまとめてくれています。① 教材問題 ② 教員養成・研修問題 ③ 同僚問題 ④ 入試問題の4点ですが、「教育実習」、「教員の同僚性」、「入試問題」などについては、私はこのブログで論じてきました。

 

(2)高校では中学校と違って、学校単位で検定教科書を採択できますが、科目数が多く、学校によってレベルも違いますから、その学校の教員同士がよく話し合わなければ効果も期待出来ません。1学年で扱う科目として、「英語コミュニケーション基礎」「コミュニケーション英語Ⅰ」「英語表現Ⅰ」「英語会話」がありますから、多くの場合、複数の教員が分担しなければなりません。したがって、担当者同士のコンセンサスを得ることが重要なわけです。

 

(3)また金谷氏は、教員養成に関しては国が法律で決めるものなので、「大学院レベルへのシフトを前進してもらいたい」旨の主張をしています。英語教員の学歴を高くして大学院で2年間は勉強をさせるとしたら、大学院自体に英語教員養成に必要な指導力を持つ教員が十分にいるのか、という疑問を私は拭いきれません。東京学芸大学はそういう点では恵まれた数少ない大学だと思いますが、ほとんどの教育大学・大学院は必ずしもうまく運営されていないという噂を耳にします。

 

(4)“日本人が英語を自由に話せるようにする”ためには、いつも良いモデルが耳に入り、英語が話せるような環境が必要です。文科省は、「そのために ALT を配置しているし、海外経験の豊かな英語の出来る人材を臨時講師として雇えるようにもしている」と答えるかも知れません。しかし、週4,5回の授業ではとても十分な言語環境とは言えないでしょう。一部の進学高校では、“ALT に3学年は教えさせない”などの現象もあります。“外国語を話す力”は、使う機会がなければ急速に失われるものです。文科省の方針は、実現性のない目標だけを押しつけて、“英語が話せないという劣等感に悩む日本人”を増やすだけの愚策と言わざるを得ません。

 

(5)今回の特集では、中学、高校の実践報告的な記事が9編ありますが、そこで使われている英語に疑問を感じるものがあるのです。例えば、「英語で授業FAQ」という題の記事の執筆者は、“FAQ”を「よく尋ねられる質問」の意味で使っているようです(p. 13)。失礼ながら、それを英語で言えるのでしょうか。英語の表現では、“誰が、誰に対して質問するのか”を明示するのが普通です。しかも、この記事には、”Courage” と題する課を読んで、“生徒に作らせた詩”が紹介されていますが、それは、”Courage is starting something new.” とか、”Courage is keeping my dream.” のような英文です。これで英語を教えたことになるのか甚だ疑問です。もっと一般性のある基礎的な表現を覚えさせることのほうが先決でしょう。他の記事では、教師の使う英語として、”We have review for words or phrases.” とか、”I ask you two questions in Japanese, English, or, How do you spell ~?Answer two questions.” といったものもあります。(p. 29)

 

(6)日本人の英語教師が“完全な英語”を話すことは不可能なことが多いのは認めざるを得ません。したがって、生徒の英語を許容するだけでは、「英語(特に“話すこと”)を教えたこと」にはならないと思います。例えば、生徒は、「” I’m very tired.” は“とても疲れ”と訳すのですか、それとも“とても疲れている”と訳すのですか?」といった質問をするものです。こういう場合は、日本語できちんと説明してやるべきでしょう。9編の実践報告にはこうした点への配慮がほとんど見られないのを残念に思います。(この回終り)

(浅野 博)

日本人の“姓名の順序”のこと

Posted on 2012年3月2日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2012年の2月号と3月号のFORUM(読者欄)に、日本人の姓名の順をローマ字表記する場合の順序についての賛否両論が掲載されました。3月号では、江利川春雄氏(近畿大学)が、「名+姓」に反論しながら、「姓+名」の自説を展開しています。最近には珍しい議論らしいものになってはいますが、私が気になる点をいくつか指摘したいと思います。

 

(2)江利川氏は、次のように書いています。

「『姓+名』の日本風表記が ‘Mr. Naoto’ や ‘Hi, Kan!’ のような不都合を招くならば、どちらが姓かを教え、大文字でKAN と表記すればいい」(p. 90)

これは、菅直人首相の場合を例にしたものですが、英米人と出会う度に、こんな面倒なことを実際に出来るでしょうか。“面倒だからやるな”という意味ではなく、実行の可能性を私は問題にしたいのです。それならば、すべての日本の英字新聞に訂正を申し込み、欧米でやるオリンピックの主催国にも、訂正を申し込むのでしょうか。

 

(3)更に江利川氏は、次のようにも書いています。

「ちなみに私は ‘Call me Haruo !’ とは言わない。「はるお!」と呼べるのは母だけの特権だ」。これもずいぶん非現実的な主張です。彼の叔父さんや叔母さんは、彼のことを‘はるおちゃん’とか、‘はるおさん’と呼んではいけないのでしょうか。小学生の時に、彼は同級生が、「はるお」とか「はるおくん」と呼ぶのを禁じたのでしょうか。バカバカしい話しです。

 

(4)私は30年ほど前に、高校の英語の教員数名とこの「姓名の順序」のことを話し合ったことがあります。その時は、「姓+名」の順序にすべきだと主張する人が2名いましたが、「英米人の言う通りにすべきではない」と言いながら、「アイデンティティ(identity)」という英語が好きなようでした。「姓名を逆にされたら、“アイデンティティ”を失う」のように。そういう議論の時くらい、「日本人らしさ」と言ったらどうでしょうか。更にその教員は、「韓国や中国の人を見習うべきだ」とも。別の教員からは、「そんなに韓国や中国の真似をしたいのなら、英語教員を辞めるべきだ」と反論されました。

 

(5)私は姓名を逆にされたくらいで失う“アイデンティティ”なら、もともとそんなものは持っていないのだと思います。日本では苗字の歴史は浅くて、平民が苗字を許されたのは江戸時代です(“苗字御免”参照)。戦後も「漢字の制限や略字の問題があって、親の考えた名前を生まれた子供につけられなかった時代があります(少しずつ緩和されてきましたが)。子供に「悪魔」という名前を付けたいと届け出た親がいて、受付けを拒否されたことで、話題になったこともあります。

 

(6)私の「浅野」という苗字も、戦前はもっと難しい文字でした。ですから、「浅」は略字です。でも私はそれで「自分の主体性が失われた」などとは思いません。当用漢字なんか、お役所の審議会が決めているものでしょう。気まぐれなものです。江利川氏は、国語審議会が「ローマ字の表記を姓名の順と決めたこと」を「熟慮を経て方針転換した」と歓迎していますが、どこで、誰が決めても、自分の意向に沿うものなら歓迎するというのは、私はとても同意出来ません。

 

(7)私は、「英語学習環境の破壊」というテーマで、何回かブログを書いていますが、「意味のない英語まじりの歌詞」「テレビ画面のでたらめな英語の使用」「“低燃費”を頭文字で、TNP と言えば、“かっこいい”と宣伝するコマーシャル」など、その元凶は枚挙にいとまがないほどです。そんな世相の中で、「姓名」の順にばかりこだわるのは賢明なこととは思えません。(この回終り)

(浅野 博)

“英語教育と最新機器”の関係を考える

Posted on 2012年2月16日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2012年2月号の特集は、「これからのICT 活用教育」です。まず「ICT とは何だ?」と思う英語教師もいると思います。特集ページの扉には、ICT (Information and Communication Technology) とありますから、見当は付けられます。そこで、米田謙三(羽衣学園高校)「これだけは知っておきたいICT を活用した授業に役立つ基本用語集」を読んでみたのですが、どうしてこういう記事を特集の最後に掲載するのでしょうか。しかも2ページで15項目しか解説してないのですから、とても特集記事を読む助けにはならないのです。

 

(2)上記の「用語集」では、“クラウド”は、「データを自分のパソコンや携帯電話ではなく、インターネット上に保存する使い方、サービスのこと」とあります。2012年2月14日の産経新聞は、第1面で「企業・個人 進むデータのクラウド化」という見出しにしていますが、その下にはさらに大きな活字で、「すべては『雲』の中」と半分茶化したような書き方をしています。しかし、“フェイスブック”には詳しい解説を載せています。一般的な読者を対象にした場合は、こういう配慮が必要であろうと思います。

 

(3)「英語教育」誌の記事でも、「このくらいのことを知らなければ英語教師ではないぞ」と言わんばかりの上から目線ではなく、経験の浅い教師や、英語教員志望の(情報工学など素人の)大学生などを視野に入れた書き方をしてもらいたいのです。インターネットに関する用語は、“日進月歩”でも言い足りないくらい急速に変化していますから、「知らなくて当然」と考えて説明して欲しいのです。もちろん、「教員は新しいことを学ばなくてよい」という意味ではありません。

 

(4)“揚げ足取り”になるのを承知で、特集記事の中から気になる点を幾つか指摘します。冒頭の吉田広毅(常葉学園大)「ICT活用英語教育のいま」は、「授業で使うメディアを選ぶ際、一番大事なのは、どのような装置機器を使うかということではなく、どのようなメッセージを使うかということです」と書き出しています(p. 10)。 “装置機器”も普通の用語ではないですが、この場合の“メッセージ”は、何を意味しているのかはっきりしません。単に“教える内容”ではないように思えます。この雑誌の性格上、用語は新旧に関わらずに、「自分はここでこういう意味で使う」ということを明確にしてもらいたいのです。その点で評価できるのは、下山幸成(東洋学園大)「デジタルを活かす?アナログを活かす?」という記事です。

 

(5)唐沢博「ICT を段階的に導入するテクニック――Clear and present gadget 「今そこにある機器」を使って――」の副題の英語はよく分かりませんが、教材用のCD とCD プレーヤーがあれば、ICT 教育になるということでしょうか? さらに、「電子辞書は映像に対応しないので、iPod classic / iPod touch / iPad 2が便利です」(p. 15)とありますが、これで、“指導用テクニック”の説明なのでしょうか?

 

(6)文科省の教育政策として、“教科書のデジタル化”とか、“電子黒板の活用”とかを進めているのは確かですが、そのための予算措置はどうなっているのでしょうか?“話せる英語教育”のために、新しいことをこじつけているような気がします。また、学校で携帯電話やパソコンの利用を実践できたとしても、携帯電話の持参を禁止している学校もありますし、親の反対もあります。この特集では、そういう現実問題に一切言及がないのは、とても気になる点です。文科省の方針にはすべて賛成という立場での特集には“異議あり”と言いたくなります。(浅 野 博)