言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「首相の発言を考える」

Posted on 2010年12月7日

(1)東照二『歴代首相の言語力を診断する』(研究社、2006)という本がある。以前にも言及したことがある書物だが、日本の場合は、戦時中の東条英機から小泉純一郎までの言語的特徴を解説している。例えば、「…します」という明快な言い方が他の首相よりも圧倒的に多いのは、小泉首相だったとのこと(p. 106 )。彼は「小泉内閣は以下の三つの経済、財政の構造改革を断行します」と言う。他の首相であれば、「構造改革を断行したいと考えている次第であります」のような廻りくどい言い方をすることが多いのではなかろうか。

(2)現在の管首相は、ある時の国会での答弁では、“ある意味で”を口癖のように言っていた。これは使い方によっては、“ずるい”言い方である。後で責められた時に、「私が言ったのはそういう意味ではありません」と逃げることが出来るからだ。英語にも “in a sense” (ある意味で)という句があるが、昔、アメリカ人の教授に「多用しないほうがよい」と私は注意されたことがある。自分の発言がどういう意味であるかを明確にしたほうがよいという忠告だったのだと思う。

(3)上記の書物には、野党時代の民主党議員が、与党だった自民党の党首や閣僚を責める言葉が紹介されていて、今読むと一層興味深い。相手を攻める時はともかく、自分を守る弁解となると、だらだらと長くて要点がはっきりしないものが多くなる。例えば、今は外務大臣の前原誠司氏(当時党代表)は、あるメール事件で政府を追及したが、そのメールは偽物ではないかという疑惑が生じた。記者団のインタービューで、前原氏は、「私は、あの、偽物だとは思っていませんし、あのメール情報からいろんな口座等を調べる中で、えー、まあ、問題がある面も深まってきましたので、私、今の段階でその必要はまったくないと思っています」のように答えている。(p.146)

(4)話し言葉としては、つかえたり、繰り返しが多くなったりするのは止むを得ない面があるが、文を短く区切って、言いたいことを明確にすることは可能なはずだ。例えば、「私はメールは本物だと思っています。あのメールをきっかけに、いろいろな口座を調べてみると疑惑は深まりました。したがって、メールの真偽を問題にする必要はまったくありません」くらいには言えると思う。結局、メールは偽物で、前原氏は党代表を辞任することになった大事件であった。

(5)言語以外の(nonverbal )表情や身振りも大事だ。今度の国会では、野党が問責された大臣が出席する会合には出ないと決めたために、管首相としては初めての党首討論が出来なくなった。そのことを記者団に尋ねられた時の笑顔はまずかった。何人かのコメンテーターが指摘していたが、党首討論を免れてホッと笑顔を見せるのは極めて不謹慎である。首相はその場は逃れられても、最後に困るのは国民だからだ。もっと堂々と「私は…のように主張する」と明確に言うべきで、こういうことは日本人が英語を使う姿勢としても大事なことだと思う。(浅 野 博)

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受験英語で花形構文は、実はit強調構文

Posted on 2010年12月1日

 今回の(19)The minister didn’t talk until noon.は、aの対応するit強調構文の方が、受験英語なりには、よく登場するでしょうか。
a. It was not until noon that the minister talked.
受験英語に従えば、即ち、「not とthatの間のものが指す時になったはじめて、that以下になる」という「公式」から、aの方は、次のAの解釈になります。
A: 大臣は正午に話し始めた。
「大臣は正午まで話さなかった」から、意味的に同義で、Aの解釈になるのです。
 では、両義性の他方は、何なのでしょうか。今度は、「大臣は正午になって話さなくなった」という意味で、Bの解釈が考えられるのです
B: 大臣は正午前に話をやめた。
Aでは、until noonが否定辞notの内側にあるのに対して、Bでは、逆に、until noonが否定辞notの外側にあると考えられます。
 ただし、この(19)は、これまでの18個と異なり、Bの方の解釈が可能なのか、勢い、両義性が成り立つのかと、疑問が呈されたことがあります。私見では、AばかりでなくBの解釈も、可能性possibilityがあるものの、Aに比べBの方が蓋然性probabilityが高くないのでしょう。
 次回は、次の(20)で、今回以上に異論の余地が大きく、両義性と併せてご考察下さいますよう。
(20)I cannot do anything.

浅野式辞典:「むえんしゃかい」(無縁社会)

Posted on 2010年11月25日

喫煙者:無煙なんて、税金ばかり取って煙草を吸わせないのは人権無視だよ。
高齢者:「むえん」と聞くと、無縁仏を連想するね。独居老人がいつの間にか死んでいたという話があるが、私もそうなるのかね。
十代のギャル:いいじゃん。親兄弟なんてうざいよ。生まれた時も一人なら、死ぬ時も一人さ。そういう運命だよ。
かくして政治家の政策など無視されて社会の“無縁化”は進行する。

(人称)代名詞の指示が両(多)義的

Posted on 2010年11月22日

今回の(18)Tom hit Bob, and John hit him.において、両義性に係わるのが、最後の(人称)代名詞himの指示であることは、わかり易いでしょう。更に、前の文から、後の文への流れから、後のhimの指示が、前の文のBobか、Tomであることも難しくはないでしょうし、それぞれ、AとBの解釈になるでしょう。
A:TomはBobをなぐり、その後JohnはBobをなぐった。
B:TomはBobをなぐり、その後JohnはTomをなぐった。
(18)の接続詞andが、時の経過もしくは因果関係に係わることが、十二分に考えられ、通例、第一義的に、(18)は、上記AとBの解釈が可能で、両義的と考えて差支えないでしょう。
ここで、第一義的解釈に限らない、異例にしても可能な解釈全般を考えておきましょう。今は昔ですが、Chomskyの束縛理論Bが思い出されまして、「統率範疇において、代名詞類は束縛されない」から、当該のhimは、主語のJohn以外のすべての男性を指示することが可能で、両義的どころか多義的なのです。尚、主語のJohnが指示される場合は、him→himselfとなり、これこそが、束縛理論A「統率範疇において、照応詞は束縛される」の典型的な事例になっています。
 次回は、次の(19)で、今までの18個と異なり、異論の余地があり、両義性を解決されましたら、この異論の余地も、ご考察下さい。

(19)The minister didn’t talk until noon.

浅野:英語教育批評:「教師の同僚性」について

Posted on 2010年11月17日

(1)「英語教育」2010年 12 月号(大修館書店)の特集は「“教師の同僚性”を高める」である。昔は“同僚”とは言っても、“同僚性”などという言葉を聞くことはなかった。すなわちこれは極めて今日的な用語であり、なぜ“同僚性”といった言い方をするのかをまず考えなければならない。

(2)今日では、“無縁社会”といった言葉が「流行語大賞」の候補になるくらい家庭でも職場でも人と人との関係が疎遠になっている。学校では、封建的な「先輩と後輩」といった関係は薄れてもいいが、“同僚”の関係は保たれるべきだ。ところが、もう10年ほども前から、新任教員と先輩教員のコミュニケーションがうまくいかないという話はよく耳にしてきた。こういう望ましくない傾向が強いことを前提に考えていく必要があろう。

(3)12月号の特集記事の最初は、山岡憲史(立命館大)「これからの教師の同僚性を考える」で、冒頭にふさわしいタイトルである。しかし、私は読んでからいささか失望を禁じ得なかった。執筆者の現状認識がずれていると思ったからである。例えば、教員間の連携はなぜ大切なのか、の答として、「まず、当然のことであるが、孤独に教育に取り組むよりも断然楽しい」と書いている。これは、孤独な独居老人に対して、「皆と一緒のほうが楽しいですよ」と言うようなものではなかろうか。一人にならざるを得ない理由は様々なのだということをまず考えるべきであろう。

(4)2番目の池田眞澄(東京都立南平高校)「教師の同僚性を高めるために」は、全体的に楽観的過ぎると思う。特集のテーマの「同僚性を高める」というのは、「現状でも何とかうまくいっているが、より改善するにはどうすべきか」という問題提起であろう。もちろん、私も「うまくいっている場合」の存在を否定するつもりはない。そういう実例は、うまくいかない職場の人々が参考にできるであろうが、それなら、テーマを「教師の同僚性の実情」などにしたほうがよい。

(5)池田氏は、「最近 PISA の成績が落ちたと批判されたりしていますが、それでもかなりの上位にいるのですから日本の教育の質は高いのです」と述べている。さらに、「いっぽう国が教育に投入する予算はというと OECD 諸国の中で最下位です。つまり経済効率から言えば、日本の教師はものすごい成果を上げているのです。それは教師たちの個々の授業研究とともに、教職員集団の同僚性の高さに支えられていると言えるのではないでしょうか」と言う。「予算がなくても効率は上げられる」といった主張を聞くと、私などは、戦時中の「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」といった標語を思い出す。

(6)一方では、池田氏は、精神的疾患などで退職する教員の多いことにも言及し、教員の職場の厳しさを指摘している。そういう現状認識をするならば、もっと違った主張の仕方があるのではなかろうか。その他の記事も、失礼ながら「似たり寄ったり」のように感じる。もう1度、前提、現状、改善方法、将来の見通しといった観点から再考してほしい「特集」だと思う。(浅 野 博)

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