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主要部の決定が、両義的

Posted on 2010年11月17日

 今回の(17)The poor boy broke a carton of bottles.では、まず、話者の心中を表す形容詞poorを解釈して、それから、主要部の決定が係わる両義性を考えましょう。まず、poorですけれども、インターネット上で2つの英和辞典を検索に使えるサイトで、一方では8項目中7つ目、他方では8項目中6つ目と、かなり後に記載されている意義で、「かわいそうな」が該当し、「かわいそうにも」のように副詞的に解釈するのがコツでしょうか。
 そして、主要部の決定が関連する箇所は、(17)の目的語であるa carton of bottlesと考えられます。「文の主要部は、動詞(句)である」と言った場合の主要部は、やや異例で、主要部は、通例、名詞ですから、主要部候補は、cartonとbottlesで、これら両方が主要部になり得て、この決定から両義性が生じるのです。換言しますと、brokeの対象が、(i)cartonである場合と、(ii)bottlesである場合とがあり、それぞれが、AとBの解釈に、対応します。
A:かわいそうにも、その少年は、ビンが入った箱を壊した。(下線部の箱が主要部)
B:かわいそうにも、その少年は、1箱分のビンを壊した。(下線部のビンが主要部)
質問好きの方がいらして、Aの方の解釈で、「箱を壊して、ビンを壊さない」ことはあり得るのかとご質問を受けたことがありますけども、(2)Confidentially, did you like this textbook?で、聞き手の答え方と、話し手の尋ね方と、両義的ですけれども、この場合同様、両義的とは、両方同時を制限しないのではないでしょうか。
 次回は、次の(18)で、両義性は無論のこと、解釈の可能性までもご考察下さい。
(18)Tom hit Bob, and John hit him.

浅野:英語教育批評:『英語科教育法(改訂版)』を読んで

Posted on 2010年11月10日

(1)この書籍のタイトルは、『改訂版 新学習指導要領にもとづく英語科教育法』(大修館書店、2010)で、編著者 望月昭彦・著者 久保田章・磐崎弘貞・卯城祐司・荒井和枝・久保野雅史・山本敏子の諸氏である。かなり前になるが、私はこの本の改訂前の版について言及させてもたったことがある。1つには、類書にあまり見られない特徴として、第2章で、「英語の国際化と日本の英語教育」というテーマを扱っているからだ。英語の教科教育のテキストとしては、指導技術を説くことも大事だが、「英語とはどういう言語で、なぜ英語を学ぶ必要があるのか」を真剣に考える必要があると思う。

(2)私は前回のブログで、文科省は“外国語教育”という名称にこだわりながら、実際には“英語教育”を進めようとしているのは“言葉によるごまかし”だ、と主張した。文科省も、この書物の第2章をよく読んで、考え直してもらいたい。もちろん、問題は簡単ではない。“英語教育”を肯定したとしても、“どういう英語を”とか、“受容英語”と“発表英語”の区別をどうつけるか、といった課題が残る。指導要領では“標準的な(発音)”といった程度の言い方をしていて、“標準的な”の定義も曖昧なままである。

(3)本書では、第3章「学習指導要領」で、新しい指導要領の改訂された部分とその特徴を新旧対比させて解説している。それも大切だが、新指導要領の全文を付録に載せてもらいたかった。それと、「毎日の授業の根本となるべきものである」と言われるならば、指導要領の「法的拘束力」にも触れてほしかった。指導要領に準拠した授業をしないと、小中高の教員は処罰されるのである。安部元総理大臣が教育基本法に手を加えてから、教員の置かれている環境はさらに厳しくなったことなどにも配慮すべきであろう。

(4)第4章「学習者」は、英語指導に関連する諸理論を要領よくまとめてある。英語教員にとっても必要な知識だ。しかし、そういう知識をどのように英語の指導と結びつけるかは、難しい課題だと思う。第10章から第13章までは、“4技能”を具体的に扱っているので、もう少し相互参照があると初心者には親切なものになったであろう。それと、これはすべての章の内容と関係するが、今日の「日本人学習者の全体的な学力低下」の問題にも言及が欲しい。文科省の実施している「学力テスト」の方法、結果、公表の在り方なども社会的な関心の強い問題である。

(5)書評は“ないものねだり”になりがちなことを承知の上で、あえて希望を述べさせて頂いた。最初に述べたように、それもこの書物が類書に勝る特徴を有していると信じるからに他ならない。(浅 野 博)

【私の記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます】

やはり、直訳では不充分

Posted on 2010年11月9日

 何度かタイトルについて言及したことがありますけれども、(16)People in Atlanta know the width of the airport.を、「Atlantaの人々は、そこの空港の広さを知っている。」では、英文ばかりでなく、直訳された和文も両義的なままなのです。
 定石と申しましょうか、両義性に係わる箇所を特定することにしますと、width「広さ」に辿り着くことでしょう。widthの形容詞形wideが、「広い」から、まず、Aの解釈はできることでしょう。
 A: Atlantaの人々はそこの空港が広大なことを知っている。
「広い」と「広大な」が結びつくことは容易にわかることでしょう。
 さて、問題は、もうひとつの解釈です。中立と言いますか、単位には、否定的ではない、肯定的な方が、使われる点に注目しましょう。「小ささ」ではなく、「大きさ」、「短さ」ではなく、「長さ」、のようにです。ならば、wideやwidthには、「狭い」や「狭さ」ではなく、「広い」や「広さ」が該当し、widthが直訳して「広さ」では依然として両義的なので、単位に徹して、widthに「面積」を当てることで解決しそうで、Bの解釈に辿り着くことができます。
B: Atlantaの人々はそこの空港の面積を知っている。
Bの解釈は、Aが広大な空港にのみ該当するのに対して、広大でなくとも空港であれば、可能なのです。実は、Chicagoに次いで、Atlantaは空港が広大なことで知られていますけれども。
 次回は、(17)に取り組みましょう、poorの解釈もポイントではありますが。
(17)The poor boy broke a carton of bottles.

4.その下敷きとしての教育(1)

Posted on 2010年11月5日

コロンビア大学のサイトへ行って,有名教授の公開講座を視聴したら,その教授の経歴に,ティーチャーズ・カレッジの1年間のコースを取ったとある。すると,世界的な学者も,いい講義をするために「教え方」の1年間の講習に出たわけで,驚いたが,調べてみると,このようなことは普通のことで,人文科学,社会科学であろうと,自然科学であろうと,専門研究を深めると同時に「教え方」にも同様の努力を大学教師はするものらしい。(日本はこの点では50年遅れているとある先生が言われた。50年も遅れて最近目覚めたわけか・・・とその落差の大きさに私はしばらく考え込んでしまった。)

「大学での教え方改善学会」(Improving University Teaching)という学会があると教えられて,調べてみると,長年にわたって活発に活動していて,海外にも広く発展しているようである。第二次大戦後の大学教育の一般化による,大学生のレベル低下に地道に粘り強く,上からの押しつけでなく対応してきて,現在でも途絶えることなく活動を続けているのは立派だ。

私自身も,サンノゼ州立大学で,実にきめ細かく行き届いた担任制を見て,また,これも州立のアラバマ大学で,至れり尽くせりの「高校説明会」を見て,これは単なる全入制ではなくて,住居・学費・生活費・学力などすべてにわたって,国民に対する奉仕の精神から来ているのだと知って驚いたことがある。

アメリカの州立大学では,このように全入制に近い形で受け入れた大学生を,かつては,大学によっては半数以上も落として退学へ追いやっていたが,今では入った学生はできるだけ卒業させる方向が定着しているようだ。そのために「講義のやり方」や「学生指導のあり方」も重要な研究課題となっている。

●次回からは,「その下敷きとしての教育(2)」,「日本の大学の講義」をさらに詳しく論じてみたい。

(村田 年)

3.マイケル・サンデル教授の講義

Posted on 2010年11月2日

ハーバード大学の看板教授であるマイケル・サンデル教授はもうご存じの方が多いであろう。何度か日本に招かれ,テレビの「白熱教室」で,講演会の「白熱講義」で,また,東大や早稲田大における1,000人を超える学生を魅了した講義で,聞き手を惹きつけ,著書の翻訳『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)は40万部を超えるベストセラーだという。

サンデル教授のハーバードでの講義は受講生が常に1,000名を超えていて,前例がないとのこと。講義はいつも身近な具体例から始まる。例えば,

1) 市街電車のブレーキが故障して,そのまま進んでいくと5人の工夫を殺すことになるが,途中で引き込み線へ入れると1人殺すだけで済む。「君ならどうするか?」

2) イチローの年俸は日本人教師の400倍,オバマ大統領の42倍だ。「これは「公平」「正義」と言えるだろうか?」

このような正解のない,あるいは正解を用意してない問題を学生に問うて,考えさせる。学生を指して意見を聞く。なぜそう思うかを聞く。褒める,名前を聞いて覚える。(あとでその覚えた名前で何度も指す。)さらに反対意見を求める。褒める。君のその考えは「最大多数の最大幸福を目指す」ベンサムの「功利論」(utilitarianism)だ,あるいは,それを突きすすめていくと,このような学説につながるだろう,などと論理的思考に導いていく。

君の理由づけはカントだ,カントの道徳的価値と同じだ,君はいいこと言うなー,お名前は何と言う?また,そのように目的に拘るのはアリストテレスだ,アリストテレスは徳を培うことこそ「正義」だと考えたのだ,などと学生に率直に言う。

このように自分の意見が,理由づけが有名な哲学者につながるなどと言われた学生は舞い上がる。カントを,アリストテレスを,ベンサムを調べようと決意するだろう。今まで,単なる遠い,恐れ多い知識と思っていた学説が急に身近になる。遊んではいられない,調べて考えなければと思うだろう。

サンデル教授は美味しい料理を目の前で見事に作って見せるのではない。選りすぐった素材をまな板に乗せ,学生といっしょになって,どちらにしようかと話し合いながら料理を作っていくのである。どちらかというと学生に作らせる。そのあとで,まとめとして,素材,料理,隠し味(諸哲学者の説)を解き明かしてくれるのだ。

哲学の問題は,哲学者だけのもので,われわれは有難く拝聴するだけ,というのではなくて,われわれの日常生活そのものに哲学の問題が常に存在していることを明らかにしてくれる。

日本人はシャイで,学生との討論などできるものではない,と思われていたが,1,000人もの大クラスで,大きく意見が別れる問題について,活発に,しかも理性的に議論が展開した。教授は上から教えるよりも,学生たちに自主的に考えさせる授業の見本を示してくれた。もしかしたら,日本で対話型の授業が苦手なのは,学生ではなくて,先生の方なのかも知れない。

英米におけるそのような「教育力」はどのように習得されたもので,その下敷きとしてどのような教育が,小・中・高・大においてなされてきたか,先ずは実例から,ついで小学校教育等を見てみたい。
(村田 年)