言語情報ブログ 語学教育を考える

5.湯川秀樹の授業(湯川秀樹の学習,研究,人となり)

Posted on 2009年12月31日

まだ出来上がりつつある分野で,何の教科書もなかったので,英語の専門書を訳し,ていねいに説明する。小さな声で,何の抑揚もなく,どこを強調するでもなく,ぼそぼそと話していった。学生の顔を見ないばかりか,黒板の方ばかり向いていたりした。何の脱線もなく,子守唄のようであったという。「みなさんに,全て優をあげます。みなさんはよい成績を喜びますから。」とも言ったが,サボる学生はいなかったらしい。ほかでは得られない内容だと学生たちはわかっていたのであろう。

年配になって,プリンストン高等研究所から帰国してからの授業は相当変わってきていて,声もかなり大きくなり,アインシュタインなど一流の学者とのやり取りなどのおしゃべりがほとんどで,ユーモアもある授業であったが,ノートに書くことはほとんどなかった,との報告もある。
(村田 年)

4.自由な学風(湯川秀樹の学習,研究,人となり)

Posted on 2009年12月30日

湯川の通った京都一中,三高,京大は自由主義的な雰囲気があった。京大理学部には必修科目は一切なかったという。勉強するのは君たち自身である,と放っておかれた。湯川はこの自由放任主義がたいへん性に合っていて,うれしかったようだ。

数学がよくできて,教科書をもらうと,最初からすべて解いてしまうほどで,解けない問題はなかった。高校になって,大学で数学を専攻することも考えたが,あるとき先生と同じ解き方をしなかったらバツになった。そんなばかな,そんな数学ならもうやらないと思ったことがあった。それよりももっと混沌・朦朧としたものに筋道をつける物理学の方が自分に合っているように思ったのであろう。

大学3年になって,卒業論文を書くためにどの先生につくかという時期になって困った。理論物理学の最先端,今始まったばかりの量子力学を,分子より小さい原子を,さらにその中心である原子核を明らかにしたいと思ったが,専門にしている先生がいなかった。相談したわけではないが,朝永振一郎も同じように考えていた。

玉城教授が二人を受け入れてくれた。先生の指導はなく,自由にやりたまえ,と言われた。二人にとってはこんないい環境はなかった。

湯川と朝永の関係はおもしろい。ともに同じ専門を志し,副手として同じ部屋にいながら,二人でいっしょに論文を読んだり,討議したり,恩師の玉城教授の教えを請うたり,2,3の同学の先輩と研究の会を作ったりしたことはなかった。もっぱら,それぞれが最先端の論文の中に埋没して,思索にふけっていた。ふたりには欧米の論文が相手,世界が相手であった。(湯川が使ったテキストはまだ見る機会がないが,朝永が使ったテキストには欄外にびっしり書き込みがしてあって,論文に学ぶというより,対等の立場で議論しているようであった。)

湯川と朝永が親しく意見を交わすようになるのは,朝永が東京へ去ってからである。7年半のヨーロッパ留学から帰って,東京の理科学研究所に落ち着いた仁科芳雄は,二人にとっては唯一の恩師であった。仁科は量子力学を集中講義してくれたばかりか,コペンハーゲン精神と言われる,寛容の精神で,わけ隔てなく接してくれた。大先生が,話しやすい人柄で,何でも話せ,慈父のようであったと湯川は言っている。

また,玉城教授には湯川の研究レベルの高さはよくわかっていたのであろう。何の論文もなく,大学院も出てない者をいきなり講師にして,おそらく日本で初めての授業科目であると思われる「量子論」を担当させた。やがて新設の大阪帝国大学講師となり,京大講師を兼任したのである。
(村田 年)

3.頑固な「イワンちゃん」(湯川秀樹の学習,研究,人となり)

Posted on 2009年12月29日

湯川は,小さいときも大人になってからも親しい友達は少なかった。家へ遊びに来ないか,と同級生に言えなかったそうだ。口数が少なく,弁解や理由を求められると,「言わん!」と言って黙ってしまうので,「イワンちゃん」と家族からは呼ばれた。7人兄弟で,みんなできがよく,物知りだったので,「おバカちゃん」という意味もこめられていたかも知れない。

人見知りする性質で,独りでいることの方が好きであったという。学校でも急に指されたりすると,口がきけなくなって,黙ったままでいるような子であった。上の方の子どもたちは父親にかまってもらったが,秀樹は5番目で,父親に一度も抱かれた記憶がないという。

そんなこともあってか,男の子がすべて大学へ行くまでもないだろう,秀樹は専門学校の方がいいだろうとある時父は思ったようだ。それを感じ取った母は猛烈に反対した。母は,自分に似て,口数が少なく,頑固であったが,頭のいい子だと見抜いていたようだ。

相談された中学の校長さんも大反対で,あれほどできる子はいない,それなら私の養子に下さいと言われたという。校長先生は数学の先生で,秀樹の(学校の成績とは別に)尋常でない学力を見抜いていたらしい。
(村田 年)

2.本に囲まれて(湯川秀樹の学習,研究,人となり)

Posted on 2009年12月28日

父親の小川琢治は京都大学の地質学の教授であったが,広く本を集めるのが好きで,家じゅう本だらけで,納まりきれなくなると,もっと大きな家へ引っ越すといった状況で,家が図書館のようであった。

母親は子供たちのために雑誌を取ってくれた。『子供乃友』『少年世界』『日本少年』『赤い鳥』などを読み,小学校へ入る前から10巻もある『太閣記』を持ち出してきてどんどん読んだ。ほかにも小学校から中学にかけて,伊勢物語,平家物語,近松門左衛門などを手当たり次第読んだという。なにしろ漢文の素読のおかげで,漢字には苦労しなかった。

小学校時代までは祖父の指導で「大学」「論語」「孟子」などを読んだが,中学になると自分で「老子」や「荘子」を読み,自然をあるがままに見ている点に非常に魅力を感じた。トルストイ,ドストエフスキーを愛読し,哲学書にも親しんだという。

上の姉二人もおそらく頭はよかったと思われるが,女の子は嫁入りが決まると,学校を中退するのが珍しくない時代で,男子とは別と考えられていたらしい。
兄弟はすごくよくできた。長男芳樹,次男茂樹,四男環樹,五男滋樹は,いずれも勉強ができて,将来は帝国大学教授が当たり前といった家庭であった。生まれつきの頭のよさに加えて漢文の素読,本の山の中の暮らし,これらが効いたのかも知れない。

母親は,口数は少なかったが,頭のいい人のようで,子どもたちのために,多くの雑誌を取ってやり,自分も文学書や婦人雑誌などを読んでいた。母は子どもの質問をないがしろにしなかった。どんなに忙しくても手を休めて,自分のできる限りの正確な説明をしてくれたと,湯川は回想している。(湯川にはエデイプス・コンプレックスがあったようで,母を褒め,母を慕う言葉が多い。)
(村田 年)

1.漢文の素読(湯川秀樹の学習,研究,人となり)

Posted on 2009年12月27日

父は,秀樹が5歳になった頃,祖父に「そろそろ秀樹にも漢籍の素読をはじめてください」と言われた。四書,五経,まずは「論語」と「孟子」から始まって,来る日も来る日も祖父のあとについて,読まされた。なにもわからなかったが,祖父が竹の棒で指す字をみて,あとについて言う。これが毎晩のように小学生になっても続いた。そのうちすっかり漢字に慣れてしまい,その後大人の本を読む際に何の抵抗もなかったという。
(村田 年)