言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:学校の「使える英語」について(その2)

Posted on 2009年8月27日

(1)一般論として何かの傾向を論じる場合は、例外があることは前提にしているわけで、どちらに重点を置くかで、考え方が大きく違ってくる。問題の多い学校教育だが、知的好奇心をもち、まじめに授業を受けている生徒、学生もいることは否定できないであろう。
(2)しかし、そういう生徒、学生だけを対象に「文法・訳読式」の実施を考えるとしたら、学習意欲に欠ける者は見捨てられてしまう。「学校文法を学べないような者は英語を学ぶ資格はない」とまで言った人がいたが、「ついてこられない者」は相手にしないというのは、少なくとも中・高の段階では認められないであろう。多くの教師は「動機づけ」から始めているはずだ。
(3)一方、教師の中には十年一日のごとくに、古臭い例文と問題で、「文法・訳読式」を実践している者がいる。私の仲間たちの心配は、そういう教師が、齋藤提案でますます自信をもってしまうことである。そういう教師は、発音などには無関心であることが多い。齋藤氏の期待する基礎工事が、とんでもない手抜き工事で、基本的な英語力にはならないのである。
(4)正しい発音と言うと、すぐに「英米人並みの発音」と思われがちだが、私が中・高生に知ってほしいと思うのは、「音の強弱」「音節」「音の繋がり」などについての基礎的な知識である。多くの生徒は、不定冠詞には、a と an があることは知っているが、”an apple” をうまく言えない。ましてや、日本語の「ン」の音との違いも知らない。それぞれの言語の「音組織」はその言語の文法とも深い関係がある。「文法・訳読式」にも様々な知識と指導技術が必要なのである。
(5)朝日の記事の記者は、「取材を終えて」で次のように書いている。

考えてみれば、中学、高校で教わり、その後
「使い物になった」科目なんてあるだろうか。数学も音楽も美術も体育も…。英語だけ責めるのは酷というものだ。(後略)

 それでは、数学、音楽、体育、美術などを全く省いてしまったら、学校教育はどういう意味をもつであろうか。「使える」とか「役にたつ」の意味をよく考え直してみる必要があろう。(浅 野 博)

浅野式辞典:「こうしえんのすな」(甲子園の砂)

Posted on 2009年8月24日

 啄木の「一握の砂」が起源。負けた選手が甲子園の砂を持ち帰って詠める:「祈れども祈れども我がエラー消えずにじっと手を見る」

浅野:英語教育批評:学校の「使える英語」について(その1)

Posted on 2009年8月18日

(1)朝日新聞の「オピニオン 異議あり」欄(8月1日朝刊)には齋藤兆史氏のインタービュー記事が載ったのだが、その主張について、旧友、教え子3名から「こんな意見を認めておいてよいのだろうか」という疑問が寄せられた。私はこの記事を読みそこなっていて、友人から送ってもらって読んだので、2週間ほど経ってしまったことをお断りしたい。
(2)齋藤兆史氏については、これまでも何度か言及してきた。(ブログページの右欄の「記事内使用のタグ」で、齋藤氏の名前をクリックしてみてください。)私は賛成する場合もあり、反対する場合もあるといった是々非々の立場だが、今回の氏の主張の要点は、新聞の見出しによれば、「学校で『使える英語』なんて幻想だ」ということであり、「中・高で教えるべきは文法と訳読」ということである。
(3)「ことばの教育」のことだから、まず「使える英語」の定義を問題にしたい。文法と訳読を教えた結果、ある高校生がアメリカへ行って 、”Watch for Children” という標識を見て、「これは文法の命令文で教わった。”watch for” も熟語として、「…に注意する」という意味だ」と言ったとしたら、「使える英語」になったということではないだろうか。「使える英語」というと、多くの日本人が、「英米人のようにペラペラ話せること」と考えるのは確かであろうが、「それは『幻想』だ」ということをはっきり言うべきだ。
(4)そこで、「話せる英語なんて『幻想』か」ということを考えたい。英語の母語話者が指導者で、少人数を教える「英会話学校」は、どういう成果をあげているのであろうか。都会では、学校の数も多いし、受講生の数もかなりの数になると推測できる。しかし、「やはりものにならない」という脱落者も多いのではないか。こういう資料は得にくいので、はっきりとは言えないが、「英会話学校」でも成功しないことを、大クラスで、時間数も少ない学校の英語教育でうまくいくはずがないと思う。
(5)では「文法・訳読式」はどの程度成功するであろうか。まず第1の障害は、全般的な学習意欲の欠如である。「話すこと」には関心があっても、理屈っぽいことは嫌う傾向のある中・高生が、文法用語を多用する授業に興味を示す可能性は小さい。では、どうしたらよいのか?次回で考えてみたい。(浅 野 博)

浅野式辞典:「かくせいざい」(覚醒剤)

Posted on 2009年8月18日

ある芸能記者のぼやき;
連日麻薬事件の大騒ぎで、「選挙の話題が消えてしまった」とお叱りを受けるが、選挙だって中だるみだ。芸能人は「覚醒」どころか、眠っているように自覚がないので、選挙以上に大問題と思うよ。

浅野:英語教育批評:「授業と個人情報」のこと

Posted on 2009年8月10日

(1)あるメイリングリストで知ったことだが、大学の英語の先生が、自分の実施したテストの平均点を研究発表に使用したら、個人情報保護の観点から大学の倫理規定違反だとの指摘を受けたとのこと。この議論に自分が直接に加わると、冷静な判断をしにくくなる恐れがあるので、少し距離をおいて、ここで考えてみたい。
(2)学校の授業は、複数の生徒に一人の教師が指導に当たるのが一般的な例だ。教師は毎時間生徒の名前を言って、質問をする。答えられる生徒もいれば、答えられない生徒もいる。つまり、「生徒 A はできる」「生徒 B はできない」という差が明確になるのが教室の授業だ。そのことを、帰宅した生徒が親に話すことがあろう。親たちが集まったときに、「誰だれさんのお子さんは優秀だ」とか「あの家のお子さんはできないそうだ」といった噂をする。生徒にはプライバシーはないことになる。
(3)こういう状況を容認しておいて、容認しなくても誰にも止められないのだが、生徒名を出さない平均点の利用が個人情報保護に違反するといった議論になる理由が私にはわからない。学校中のクラス別の平均点を公表したために、「○○先生のクラスはよくできる」「××先生のクラスは最低だ」といったことが噂になるのは、あってはならないことであろう。文科省の学力テストの地域別の結果を、公表するか、しないかという問題にも似たようなことが言える。
(4)個人情報の保護ということは、1985年頃から、国際的に問題にされ始めたようだが、日本では、多くは不注意から、個人情報が漏洩することがあるので、神経質になるのはわかる。しかし、そのために、まともな授業や成績処理ができなくなるのでは、学校教育そのものの否定になるのではないか。
(5)個人情報保護は、主にデジタル処理をされたデータについて言われるようだ。確かに、洩れる場合は、膨大なデータが洩れるので大問題になるが、教師が自分のクラスの成績表を入れた鞄を電車内に置き忘れるといったことも、同じような問題だ。不注意や犯罪の場合と、授業や成績処理のため、または研究のための個人情報の処理とは区別して考えるべきだと思う。「個人情報を守れ!」と叫ぶだけではなく、地道で、冷静な考察が必要なのだ。(浅 野 博)