言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野式辞典:「こどくし」(孤独死)

Posted on 2009年6月8日

 最近は若い人も含む悲劇だが、ピンとこない中学生もいるようで、漢字を与えずにこの意味を問うと;
A:孤独の詩ね。淋しい人はよく詩を書くのよ。
B:一人で読む歴史さ。おれは興味ないけど。   C:子どもが毒食らって死ぬことだよ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:「学校崩壊」再考

Posted on 2009年6月5日

 最近のニュースは暗いものが多い。不景気になると強盗、ひったくりなどの犯罪が増える。だから景気をよくしよう、という声が強くなる。でも、それで日本の社会が本当に良くなるのであろうか。
 教育に関係した者としては、やはり教育の重要性を強調したいと思う。現在の教育政策は、形式的で、中身のないもののように思える。そもそも「学級崩壊」「学校崩壊」といったことが言われたのは、もう10年以上も前のことだ。それから間もなく、村上龍『「教育の崩壊」という嘘』(NHK出版、2001)という本が出た。著者は次のように書いている。

 わたしたちが「教育の崩壊」という言葉に違和感を持たないのは、確かに何かが崩壊していると感じるからだろう。崩壊して機能しなくなっているのは、教師の、あるいは親の、子どもに対する「権威によるコントロール」というガバナンス・統治の方法ではないだろうか。(p. 13)

 日本人は言葉を明確に定義しないで使ってしまう傾向があるから、「崩壊」という場合に「何がどう崩壊したのか」を論じるのは賛成である。しかし、著者は細部はともかく、全体としては「この崩壊はむしろ望ましい」という姿勢で論を進めていく。著者の意向を私なりの言葉で表現すると、「学校崩壊は、教師とか親の権威が失われただけで、少数の生徒のために授業が出来ないような状況は“事実ではない”つまり“うそ”なのだ」と主張しているように感じる。
 村上龍氏は、自分で11問からなるアンケートを1,600人の中学生に実施して、その回答を読んでこの本のタイトルを決めたとも述べている (p. 285)。アンケートの質問は、「将来を考えるとき、どんな気分になりますか」「有名になりたいですか」「あなたにとって希望とは何ですか」といったもので、回答は明るいものばかりではなく、むしろ暗いものが多い。そこから何を感じ取るかは、主観的な判断だから楽観的な見方もあろう。しかし、「教育の崩壊」を「嘘」と断じてしまうのはとても危険だ。
 新型流感は患者が少数だから安心だとは言えないし、「相手は誰でもよかった」という殺人事件は数が少ないからといって、とても楽観は出来ない。30年前に、バブル景気に浮かれて、何も出来なかった政治と教育は今こそ猛省しなければならないのだと思う。
(浅 野 博)

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浅野式辞典:「きょうえいみずぎ」(競泳水着)

Posted on 2009年5月30日

 「種類によってスピードに差がでる水着」のこと。そこでメーカーは、極小の細胞型ロケットを繊維に組み込むことを考えている。一方、水泳競技は全裸で、という提案もあるが、その場合は、背泳はすべて禁止にするとのこと。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:「デジタル」で思うこと

Posted on 2009年5月27日

 ある放送局の視聴者の批判や疑問に答える番組で、「なぜ視聴者に経済的な負担までさせて、デジタル放送など始めるのですか」という質問を紹介していた。局の担当者の回答は「携帯の普及で電波の余裕がなくなったが、デジタル放送にすると情報量が増えて、視聴者も参加できる双方向放送も可能になる」といった趣旨のものだった。これでは、質問した視聴者の「今のテレビで満足しているのに、どうしてわざわざ新しい機器を買わなければいけないのか」という疑問の答えにはなっていないと思った。
 確かに、「デジタルとは何か」というのを説明するのは難しい。マスコミが好きな『広辞苑』では「デジタル」を次のように定義している。
 「ある量またはデータを、有限桁の数字列(例えば2進数)として表現すること」
 これでは一般的な素人にはとてもわからない。ちなみに『マクミラン英英辞典』では、
“storing information such as sound or pictures as numbers or electronic signals”(音や映像といった情報を数として、つまり電子的信号として蓄えること)
 これなら国語辞典の定義よりは分かりやすい。国語教育では、もっと「ことばの定義」というものをしっかりと教える必要があるのではないか。小説のほんの一部を読ませて、「このときの主人公の心境は次のどれか?」といった問題を多用する入試も同罪である。
 以前に「アナログ」か「デジタル」かが問題になったときは、まず時計(時刻)の表記が話題になった。私たちには、数は1,2,3,4,5…のように続くものという意識がある。時計の文字盤は 12 までだが、そうなっている。これが「アナログ」だ。デジタル時計では、12:23 のような数字で示される。このほうが分かりやすいという見解と、これでは、1時まであと何分かがわかりにくい、という見解が対立した。抜け目のない時計メーカーは、文字盤の下部にデジタル式の数字を示す両用のものを発売したりした。実際は、テレビ画面の時刻表示はずっと前からデジタル式だった。こういう身近なものを利用して、素人にも分かる「説明」を心がけることも必要であろう。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「質問に答えること」について

Posted on 2009年5月21日

 「その質問に答える」は英語では普通 “answer the question(s)” だ。麻生首相の場合は「質問をはぐらかす」ことが多いから、さしずめ、”dodge the question(s)” となろうか。私はこれでも弱いので、「責任を逃れる」などの意味のある ”evade” を使いたい気がする。
 「こんなに天下りのいる機関に十分な相談もなく予算を配分することをどう思うか」という野党の質問には、「天下りのことは別として、そりゃ一人や二人はいるかも知れんが、適切なところに適切に配分した、とそう思っております」のように答えたりする。
 質問に答えるということでは、教員もつらい立場にあって、予期していない質問を受けると、「そんなことは今尋ねるな」と言ったりする。しかも、そういう教員が試験にはとても意地悪な問題を出したりする。生徒はたまったものではない。
 民主主義の社会では、責任者は様々な批判にも“応える (respond)”義務がある。与党と野党の議員の間では、政権に就いているか、いないかの違いはあるが、同じ土俵の上の論争だ。しかし、選挙があるから世論には無関心ではいられない。いちばん部外者の批判に応えようとしないのは一部の官僚たちであろう。世論の攻撃を受けるのは政治家で、それを盾にして、陰で勝手なことができるからだ。
 「英語教育」(大修館書店)6月号で、元教科調査官の管正隆氏は次のように書いている。

(前略)様々な文部科学省批判や政策批判は目にするが、内部を見た自分にとっては、「何も知らないのによく書くね」と思ってしまう。特に大学の先生方の内容は浮世離れ、もう少し勉強してよね、と思うことさえある。批判することは簡単である。ただその批判の代案を明確な数字とともにだしていただかないと、「単なる文句言い」としか映らない。(後略)(p. 39)
 
 これは官僚たちの胸のうちとそっくりだと思う。「自分たちは予算の獲得や編成にものすごく苦労をしている。そんなことも知らずに勝手なことを言うな」という姿勢だ。もちろん批判のすべてが適切とは限らないが、素人にもものが言え、責任者がそれに真摯に対応するのが望ましい民主主義社会であろう。そうでなければ、問題があるにしろ「裁判員制度」などは生まれないはずだ。同じ号の「英語教育時評」で鳥飼玖美子氏(立教大学)は、新指導要領について教授法の観点から、「その中身は本当に新しいのだろうか」と疑問を呈している。これをも“単なる文句言い”と見なしてよいであろうか。菅氏も大学教授になられたようだから、じっくりと“浮世離れ”した世界を勉強されてはいかがかと思う。
(浅 野 博)