「日英語ことばのエッセー」(その3)(現代の“死語”)
(1)私の手元に、小林 信彦『現代<死語>ノート』(岩波新書、1997)という本があります。1997年頃にすでに“死語”になっている言葉について書いている本だということは題名から分かると思います。今回はこの本に言及しながら日本語の問題を考えてみることにします。
(2)最初から余談ですが、2004年頃、私は某私立大学で教えていましたので、学生にこの本を紹介して、「“死語”とは何か?」と尋ねてみました。ある女子学生は、「ゆいごん(遺言)のことですか?」と問い返しので、私は苦笑せざるを得ませんでした。すでに生徒、学生の学力低下が話題になり始めていた頃でした。ちなみに、“遺言”の英語(one’s will)を尋ねたのですが、知りませんでした。“will” と“shall” の区別を高校で教わって、うんざりしている学生が当時でも多かったのです。これは英語の教え方の問題です。
(3)英和辞典は、“a dead language” の例に“ラテン語”を示しているようです。間違いではありませんが、私には次のような経験があります。敗戦後間もなくの頃に私は住んでいた神奈川県横須賀市で楽器店のアルバイトをしたことがあります。お客はほとんどが水兵姿のアメリカ人でしたが、ある日牧師さんらしい人が3人来ました。話している言葉が分からないので、「何語を話しているのか」と尋ねたら「ラテン語だ」という答でした。そして、「それぞれ出身の国が違うので、ラテン語が共通の言葉です」とアメリカ人の牧師さんが説明してくれました。ごく限られた範囲のことですが、一部の人たちにはラテン語が “a living language” (生きた言語)である場合いがあることを知った次第です。
(4)「何と申しましょうか…」の始まりについては、小林氏の本に書いてあります。最近のラジオやテレビのコメンテーターの中には、やたらと、「何と申しますか」とか、「何と言ったらよいか」などと言う人が少なくありません。上記の本では、当時のプロ野球の解説者だった小西 得郎(こにし・とくろう)が話し出す時に、「なんと申しましょうか」と言ったのが広まって、「日常会話から物まねの中にまで使われた」としています(p. 22)。私は小西氏の解説を聞いた記憶がありますが、この人の言い方が広まったことには、多少の疑念があります。ただし、反論するだけの材料は持ち合わせていません。
(5)書いてあるものを読むのではなく、考えながらしゃべる場合は、誰でも言い方に困ることがあります。私がここで問題にしたいのは、発言者の文章全体の文法的な完結性です。
例1:「なんと言ったよいでしょうか、まだ結論に達していないので考慮中なのです」ならば、一応完結しています。
例2:「なんと申しましょうか、この問題には多くの意見がありましてね、私自身はまだ結論には達していないというか、どうとも言えない状態でして…」とだらだらと続いたり、途中で話題が変わったりすると、一貫性に欠ける文章になってしまいます。
(6)日本人には、相手の言うことの真意が分からなくても、“分かったようなふりをする”習性があります。特に相手が年上だったり、職場の上司だったりすると、「言い方が間違っていますよ」といった指摘は出来ないものです。しかし、よく理解出来ていないのに、“分かったような顔をする”というのは望ましい態度ではありません。この態度を英語の会話の場合にまで拡大してしまう日本人が少なくないと思います。
(7)この悪習を正すにはどうしたらよいでしょうか?まず自分がそういう中途半端な言い方を真似しないように注意することが大事です。誰にでも口癖はあるものです。特に、早口で話す時や、友人たちと気楽に話す時は、口癖が出やすいものです。1日の終りには、短いものでもよいですから、何か文章を書いて反省してみることを薦めたいと思います。
(8)“一億総白痴化”という造語は、評論家 大宅 壮一(1900-1970)によるものですが、その後彼は“一億総評論家時代”という言い方もしている、と小林氏の本では指摘しています(p. 29)。“情報化社会”というのは、1960年代の後半頃から始まったとされていますが、今日では情報化はますます加速しています。評論家として発言するのは結構ですが、無責任な発言が増えるのは困ったことです。
(9)小中から大学まで、情報化時代への対応の仕方を教える必要があると思いますが、政治家の発言を聞くと、やたらと外来語を使うことで箔が付くと考えているような人物が多いのが心配です。“言葉”というものをもっと多角的に検討し、教育の場に活かすことが先決であろうと私は考えます。(この回終り)
「日英語ことばのエッセー」(その2)(記者の問答)
(1)新聞記者とかレポーターたちは、一般の人が入れないところへ入れて、関係者にいろいろな質問が出来ます。つまり“国民の知る権利”を国民に代わって実行してくれているわけです。しかしながら、おかしな質問も結構多くて、「そんなことまで尋ねなくてもよいのに」と思うことがあります。
(2)例えば大相撲の場合ですと、横綱や大関を負かした平幕の力士に、「前褌(まえみつ)を取っての出し投げはあらかじめ考えていたのですか?」とか、「後3日ありますが、どう戦いますか?」といった質問をします。当の力士は苦しそうに息を切らせて、「何も考えていませんでした」とか、「頑張るだけです」のように答えます。ほとんど聞く値打ちの無い問答です。
(3)プロ野球の場合には、実況担当のアナウンサーの他に、3人も4人も“ゲスト”という解説者がいる場合があります。野球は大相撲と違って、守備と攻撃の交代の時以外はゲームが進行していますから、解説者の発言が中途半端になる場合があります。テレビのバラエティ番組の影響なのか、「限られた時間内に出来るだけ詰め込もう」という意図が感じられて興味を削がれてしまいます。
(4)『となりのトトロ』とか、『もののけ姫』などのアニメ作品の監督として有名な宮崎 駿監督は、2013年の9月に引退を表明しました。文章とか映像で創作活動をする人には“定年”というものが無いので、珍しい例でした。その際のレポーターの質問も「引退は惜しい」という主観的なものが多くて、しつこいものでした。
(5)宮崎監督は、後に「私は文化人にはなりたくない。町工場のおやじでよい」と語ったそうですが、監督らしい皮肉のきいた言い方だと私は思いました。記者会見は改革してもらいたいものの1つです。“改革”と言えば、自民党が「国会運営の改革をする」と言い出したので、何事かと思ったら、「総理大臣が不在でも、国会運営が出来るようにしよう」ということで、ヨーロッパ各国の首相が国会に出ている日数が、日本よりはるかに少ないことを指摘していました。
(6)「そんなことを“改革”などと言うな」と私は言いたくなりました。私は国会を久しぶりで開く場合の首相の施政方針演説と、それに続く“代表質問”に対する応答などは改革してもらいたいと思っています。批判的な質問に対して、「対策は実行しつつあります」とか、「今後なおよく検討をするつもりです」といった答弁で具体性が何も無いのです。そんな問答ならば、コピーしたものを新聞社に送付するだけでよいではありませんか。
(7)どうして、日本の国会ではアメリカの公聴会のように、「その場で一問一答が出来るような仕組み」にしないのでしょうか。野党の質問もあらかじめ届けておいたものに限定するなんて馬鹿げています。だから答える方もあらかじめ官僚が用意した答弁を棒読みするだけになるのです。
(8)「野次る」は当て字のようですが、英語では「野次る」に当たる単語はいくつかあって、”jeer” とか “hoot” のような語があります。定義では、「相手をバカにして怒鳴る」という感じです。会議場などではほとんど聞かれないと思います。意味もなく怒鳴るのではなくて、ユーモアのあるからかいを言うことはあるようです。日本の場合は、議長が「不規則発言はご遠慮ください」などと注意をしますが、議長の言うことをきかない議員は退室を命じたらよいのです。
(9)自民党から民主党へと政権が変わった時は当選者が多くて、“常識”の無い議員が増えました。また自民党が多数党になったら、同じような現象が生じました。庶民の意思の反映は難しいものだとつくづく思います。日本は「他国からの侵略」を心配する前に自己崩壊を心配しなければなりません。残念でもあり、恐ろしいことでもあります。(この回終り)
浅野式現代でたらめ用語辞典(再開その24)
「藤原の効果」
2013年の秋は、台風が多発して、2つの台風が次々と襲来するような場合がありました。1921年に当時の中央気象台長だった、藤原咲平は、2つの台風の進路を分析したので、それが“藤原の効果”(Fujiwara Effect)と呼ばれるようになりました。
耳の不自由な知ったかぶり老人:なに?藤原の鎌足?7世紀の立派な政治家じゃよ。違う?台風のこと?鎌倉意時代に蒙古の大軍が攻めて来た時に台風のお陰で日本は助かったな。“元寇”とも言うな。
中学生ギャル:うちの父ちゃんと母ちゃんは、気圧が低くなると機嫌が悪くなる。二人して、私のことを叱るんだ。こういうのを台風の“追従型”って言うんだってさ。こっちはたまったもんじゃないよ。
まじめ女子大生:気圧と身体の調子は関係があるのは確かです。大正時代に台風の進路を予測、分析した藤原とかいう人は偉かったと思います。しかし、現在は人間とコンピューターとどっちが優秀なのでしょうか?今の人間は機械に頼り過ぎて頭が悪くなっていると私は思うのですが。(この回終り)
「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その2)
(1)「英語教育」誌(大修館書店)2013年11月号の特集は、「『解説で終わらせない文法指導』」となっています。本題に入る前に、私の持論としての文法指導の条件とでも言うべきものを述べさせてもらいます。
(2)まず「文法という規則をどのようにわからせるか」ということがあります。以前にも書いたことがありますが、ある高校1年生の授業を参観した時のことでした。先生が「“三単現”とは?」と問うと、生徒が一斉に「動詞が三人称単数の時は、動詞にSまたはESを付ける」と答えていました。これでは、「生徒は文法が分かっている」とは言えないと思いました。
(3)優秀な生徒であれば、「なぜ (e)s が付くのだろう」と疑問に思うでしょうし、“動詞”といっても、「この場合は“述語動詞”のことだと知っているのだろうか」ということも気になりました。もちろん、学習能力は個人差が大きいので数少ない事例で結論を出すのは危険なことは承知の上です。
(4)母語の場合であれば、文法を意識する前に“正しい言い方”がある程度身についています。したがって、中学生になって、“下一段活用”とか、“連体形”などと言われて、「文法は嫌いだ」と思うのはよくあることでしょう。日本語の文法をなぜ教えるのか」は国語の教師が考えるべき大問題ですが、英文法を教える場合にも同じようなことが言えると思います。
(5)私は若い頃、東京電機大学で十年以上英語を教えましたが、理工系の学生は“理詰めで考える”訓練を受けていますから、英文法についても、「なぜ?」と問う姿勢があったのです。英語の歴史を説いても意味がないので、「英語ではそういうことに決まっているのだ」と言わざるを得ない場合が多くありました。ぶっちゃけた話、多少いい加減な態度の学生のほうが、“英語を話す”という点ではうまく行く場合が少なくないような気がしています。
(6)以上のような問題意識を持ちながら、「英語教育」誌の記事を読んでみました。最初の記事は、阿野 幸一(文教大)「『解説』からコミュニケーションにつなげる文法指導」です。文法指導についても丁寧にステップを考えながら説いている印象を持ちましたが、日本語でなされる「解説」の実例を示してもらいたかったと思いました。
(7)2番目の牛久 裕介(埼玉大教育学部附属中)「中学校での文法『説明・解説』と『言語活動』の好バランスを考える」も記事の書き方は丁寧ですが、“英語の授業は英語で”という意識があるせいか、日本語による説明・解説の例は皆無です。最近は英語の授業数が多少増えたからといって、母語のように、使いながら英語のルールを適用できるようになるのはまず無理ですから、教室では日本語である程度説明をする必要があるはずです。
(8)他の記事については割愛せざるを得ませんが、“応用・発展”の例が中心で、文法指導の主眼である、「どうのように説明して、何を分からせるか」という視点が欠けているように思えました。これは編集者の責任で、執筆者は依頼された通りに書こうとしたのかも知れません。しかし、“文法指導”は古くて新しい問題で、解決すべき課題は多いのです。今後ともすべての英語教師が考えていくべきことだと改めて思いました。(この回終り)
「日英語ことばのエッセー」(その1)(日本語は面白い?)
(1)柴田 武『日本語はおもしろい』(岩波新書、1995)という本があります。私は出版されてからすぐに購入して読んだのですが、「ことばはおもしろい」と題してもいいような感じで、日本語や外来語の様々な問題を取り上げています。今回はこの書物が提起することばの問題を考えてみたいと思います。
(2)著者の柴田氏は、“首都東京のことば”以外のことばを“いなか語”として論じています。それは決して差別意識からではなく、実状として東京ことばが共通語とされていることを考慮したもののようです。そして、「共通語とその他の地域語を区別することは論理的には矛盾する場合がある」としています。「例えば、舌は東京でも“ベロ”と言っても通じるが、“ベロ”を共通語とすることには抵抗を感じる人が多いであろう」というわけです。詳しくは論文として、学会で発表したいとも述べています(p. 45)が、私はその論文は読んでいません。
(3)首都のことばが国全体の共通語になることは果たして望ましいことなのか、どうかは議論のあるところでしょう。明治維新では、「とにかくこれからは東京(ひがしのみやこ)が中心だ」という意識が強く、御所も江戸城址へと移ったということも大きく働いたと思います。しかし、ことばの上では、東京弁が共通語になるべきだという理由はなかったと思います。
(4)50年ほど前に私がフルブライト教員として渡米した時は、イランからの中等教員も多くいましたが、首都のテヘラン出身のある男性教員は、出身地の違うイラン人の仲間のことを「やつらは田舎教師だ」と軽蔑していました。階級や地域差を強く意識する国民だという印象を持ちました。アメリカからフルブライト奨学金を貰っていながら、ある男性教員は「僕は病気があって手術を受けにアメリカに来たのだ」と言って、滞在期限が来ても帰国をせずにニューヨクへ行ってしまいました。日本では、「期限までに必ず帰国するように」とフルブライトの日本人の事務局長から厳しく言われていました。
(5)その後のアメリカとイスラム社会の関係は、イスラム社会を他の宗教の人たちが理解することはとても難しいことを教えてくれます。国際交流の障壁は“ことば”だけではないのです。日本人の多くが「英語さえ話せれば世界を歩ける」と考えがちですが、英語教育も反省すべきでしょう。イスラム社会とノーベル平和賞との関係には流血の歴史があるようですが、今回の私のテーマとずれますので、以上の指摘に留めます。
(6)柴田氏の書物に話を戻しますが、「桃太郎の日本語」という小見出しがあります(p. 120)。ここでは2つの問題が提起されていて、1つは、戦後はアメリカ占領軍の指示で、この童話の出版が禁止されたらしいこと。もう1つは、戦前の絵本などでは、「ムカシ ムカシオジイイサン ト オバアサン ガ アリマシタ」と書いてあったことです。後者は「人について“アリマシタ”と言えるかどうかという問題です。
(7)英語では、“there is 構文”の主語には人も物も使えますから、日本語のような問題は生じませんが、「人がある」というのは間違いだと思う日本人はかなりいると思います。ところがこれが実際には多く使われています。ある火災を報じるニュースで、「なおこの火事におけるけが人はありませんでした」という言い方はよく耳にします。(私は少し違和感を覚えます。「けが人は出ませんでした」の方が抵抗が抵抗を感じない言い方です)。
(8)こういう問題は「どちらが正しいか」ということではなく、「どちらがより普通に使われるか」という視点から考えてみるべきなのでしょう。関心のある方は、『広辞苑』で、“いる”(居る)と“ある”(在る)を調べてみてください。多くのことが学べると思います。(この回終り)