「日本人の知らない日本語」を再考する
(1)私は2011年1月の英語教育批評で、マンガ本の『日本人の知らない日本語』を扱いました。だいぶ日時が過ぎましたが、その2巻目(2010年2月発行、蛇蔵&海野凪子、メディアファクトリー)を読みましたので、日本語の問題を再考することにします。全体的な印象として、2巻目はかなり専門的になっていますから、第1巻は65万部以上売れたそうですが、今度はそんなに売れるとは思えません。ただし、売れるか売れないかは余計なことで、何らかの方法で日本人が日本語にもっと関心を持つようになることを期待すべきでしょう。
(2)マンガにすると面白くなることは確かなのですが、テレビのお笑い番組と同じで、「その場で笑って、すぐに忘れる」ということになりやすいものです。例えば、2巻目では、ジャックというイギリス人が来日して間もない頃、自分の会社の社長宅を訪問したら、娘さんらしい若い女性が出てきたので、「お父上は居らっしゃいますか」と言うつもりが、「おじょうさんのおちちはございますか」と言ってしまい、警察に通報されそうになったという話があります(p. 29)。しかし、読者がこれで正しい敬語の使い方を覚えてくれるのかという心配が残るのです。
(3)マンガではなくて、言語の専門家による「日本人は日本語を知らない」ことを警告する本は沢山あるのです。例えば、城生佰太郎(じょうお・はくたろう)『日本人の日本語知らず』(アルク、1989)、金武伸弥『新聞と現代日本語』(文春新書、2004)など。前者は、アルタイ語(蒙古語まど)の専門家が、現代日本語の問題点(間違い)を数多く指摘していますし、後者は新聞に見られる漢字表記の問題などを論じています。
(4)上記の城生氏の本には、語法や文法のことばかりではなく、発音のこともかなり詳しく扱っていて、第4章は「学校では教えてくれない日本語の発音」と題してあります。私も日本の学校では、実用的な日本語の音声学的訓練を受けた教員はとても少ないと思っています。城生氏は、この章の小見出しの最初を「サシスセソのピンチ」として、1986年に東京新聞が取り上げた日本語の発音の問題を解説しています。
(5)その問題とは、日本語で「神経」とか「進歩」と言う時の [シ] の音が英語の [ th ] や [ s ] の音になっているということで、“英語教育のお陰だ”などと喜ぶべきことではないようです。外国語を学ぶことによって、母語がおかしくなってしまうのでは、外国語を学ぶ意味がなくなるのですから。
(6)金武氏の『新聞と現代日本語』の中では、「新聞は“順守”し、教科書は“遵守”する」という問題を論じて(p. 50)、学校教育と新聞の用法とのずれを指摘しています。そういう“ずれ”が生じる期間は長くはないのですが、新聞に比べると、国語審議会や文科省の対応は遅れがちになるのです。そして、いつも犠牲になるのは、生徒や受験生なのです。こんな“お役所仕事”は早く止めてくれることを切望します。
(浅 野 博)
「達人の英語学習法」から学ぶこと
(1)昔から言われたことですが、“語学の達人”と言われた人たちの学習方法を知ることは、とても役に立ちます。“自己流”というのは失敗が多いからです。そういうわけで、「英語教育」(大修館書店、2012年2月号)の特集が、「英語達人の学習法」ですから、参考になる記事が多いのではないかと期待して読んだのですが、かなりがっかりしました。全く存知上げない執筆者たちが、それぞれご自分の経験談を書いているものだったからです。
(2)そういう話は全く無用だとは言いませんが、それなら特集のタイトルは、「私の英語学習法」くらいにしておいてもらいたいと思いました。最初の記事は、安河内哲也(東進ハイスクール講師)「英語なんてやればできる!」です。現在は、英語の成績が上がらない生徒にも、こんなことを言うのは慎重に考えなければならないでしょう。生徒を甘やかすという意味ではなく、成績が悪い理由は、個人個人で様々だからです。「壁にぶつかった時、先生はこうやって乗り越えたよ」といった話は、生徒を良く知っている教師にして始めて言えることだと思うのです。
(3)安河内氏は、「英語での苦労は第三言語習得にも役立つ!」と書いていますが、多くの生徒や英語教員がそういう学習ができる環境にあるかどうかということも問題にしてもらいたいと思います。教育委員会などの“管理体制”が強くなってきているからです。学習指導要領も「外国語」と言いながら、実質は「英語だけ」です。また、安河内氏は、最後の方では、「私自身は、あらゆる現場での、音読訓練教育の普及教育活動や、 TOEIC SW、BLUTS、VERSANT などのスピーキングテストの普及活動を全力で続けていきたいと思っています」と書いていますが、“共闘を”と呼びかけるのでしたら、もっと親切で配慮のある書き方をしてもらいたいものです。こんなテスト用語を知っている教員はあまりいないと思います。
(4)他の執筆者の記事も、斎藤兆史「昔の達人たちの英語学習」以外は、同じような執筆者の個人的学習論です。石黒弓美子(同時通訳者)「螺旋階段をのぼるように」、中邑光男(関西大学)「夜の目も見ずに、昼寝もせずに…」、金子靖(研究社編集部)「英語学習オタク道を邁進」といった調子です。念のために繰り返しますが、私は“有名人の体験談でなければ役に立たない”と言いたいではなく、学習者のことをよく知っている教師が、その学習者に向かって“自分の勉強法”を語るべきだと考えているだけです。
(5)個人の勉強方法は、それこそ“十人十色”で、無数にあるでしょう。そのどれをお手本にするかは、学習者がいろいろと試行錯誤を重ねながら見つけ出すべきものです。そういう意味では、参考にならないとは言いませんが、特集のタイトルの“英語達人”は相応しくないと思うのです。
お断り:今回から、私の「英語教育批評」の文体を、私の他のブログに合わせて「です調」に変更いたします。
(浅野 博)
「小学校の外国語教育」とはなんぞや?
(1)「英語教育」(大修館書店、2012年1月号)は、「『小学校外国語活動』と『中学校英語』の連携を目指して」を特集している。私の第1の疑問は、「なぜ小学校は“外国語”で、中学校は“英語”なのだ」ということである。文科省のホームページでは、“外国語教育”の項目の中に、“小学校外国語活動”を位置付けている。それなら、“小学校英語教育”とすればよいではないか。“活動”としいておけば、正式な教科ではないから、教員養成や検定教科書の発行などと関係なく進められるという、なんとも姑息なやり方に思える。
(2)そんな疑問を感じながら、最初の金森強(松山大教授)「小学校の外国語活動に求められるものは何か」を読んだ。文科省による“小学校外国語活動”の完全実施や移行措置は順調に進んでいる」ことを認めながらも、問題点の指摘もしている。しかしながら、私が最初に提起した疑問の答はないし、「文科省の指導要領に沿った実践こそ必要」と説いている姿勢には賛成しがたいものを感じる。
(3)私も長年英語教師をしてきて、「日本人がもっと英語が出来るようになって欲しい」という願いは当然持っている。そのためには、何が障害で、どうすればその障害を除去できるか、ということを真剣に議論しなければならないと考えている。ちょっとくらい“英会話”が出来ればよい、という程度の考え方ではダメなのである。一方では、”早期英語教育反対論” も多い。その理由は様々だが、理論的には説得力がある。文科省のような“羊頭狗肉”の“苦肉の策”では対抗出来るはずがないと思う。
(4)“文部省”の時代には、“ゆとりの教育”の方針から、中学校の英語授業時数を“週3時間”に減らし、“足りないのは時間ではない。発想の転換で切りぬけよ”といった指導をした。そして、今度は全体の時間数を増やして土曜日も授業をしろと言う。強制力のある行政の方針がふらふらしていたのでは、教育の効果などとても期待できない。
(5)文科省の調査結果(膨大な資料なので平成21年の集計が最新のものだが)によると、平成21年に予定している“外国語活動”の時間数は、6年生で11~20時間が、25.3%(5,435校)で最も多い。授業時数の標準は、“週1回”で年間35回だから、最多の 20時間でも、週1回あるかないかなのである。こんな現状で中学校との連携など問題になるのかと、失礼ながら、この特集を読むのもバカらしくなってしまったというのが正直な気持ちである。
(6)現在は、それぞれの地域の状況が多様化しているので、その実情に応じて熱心に英語教育の指導を実践している小中学校もあることを認めながらも、すっきりしない心境であることを付言してこの回を終わりたい。
(浅 野 博)
「検定教科書の採択問題」を斬る
(1)2011年12月5日の“産経新聞”は一面に大きく「石川・加賀市教委幹部 教科書採択で圧力か」と報じた。さらに三面では「教科書採択――制度の根幹揺らぐ」と題して解説記事を載せていた。何らかの内部告発があったのであろうが、日本では内部告白者を保護する法律が不完全なようで、もっと内部告発が活発になれば、“オリンパス”や“大王製紙”会社の場合のような不正も防止できたと思う。しかし、一方では、告発内容の真偽を判断する機能も持たなければならないので、簡単な問題ではない。
(2)私は今では完全に引退したが、50年近く検定教科書の作成に関与したので、“採択戦”のすさまじさも体験している。若い時はなかったが、年配者になると、“挨拶廻り”をやらされたことがあった。誰に挨拶するのかというと、その土地で有力者とされる校長や採択委員に対してなのである。採択委員は匿名が原則なのだが、そこは“蛇の道は蛇”で、各社の営業部員はどこからか情報を得ているようだった。教科書の著者の一人が挨拶に来たくらいで採否が決まるとも思えないが、営業部員に言わせると、活動がしやすくなるとのこと。困った因習である。
(3)検定教科書に関しては他にいくつもの問題点がある。“検定制度”については、1965年に始まった家永三郎(1913-2002)元東京教育大学教授が、「文部省による検定は違憲」と主張した32年にわたる法廷闘争がよく知られている。氏は一審判決では勝訴したこともあるが、結論としては、上告を断念し、1989年で法廷闘争は打ち切られている。
(4)この裁判で検定制度が改善されたとはとても思えない。1つの県が同じ教科書を使うという広域採択の問題もあった。どうしても、文部省/ 文科省は「画一的な教育」を前提にしたがる。その結果、地域の特徴や教員の要望を軽視しがちである。“産経”の報じた問題は、ネット上でも多く取り上げられていて、教育委員会に対する批判が強いが、支持か不支持かが分かれることは確かである。さらに、韓国や中国からも領土問題に関連して日本の教科書に対する批判が出ている。領土問題は時の政府が明確な見解を示すことが先決であろう。裁判では、最高裁でも明確な答えは期待できない。社会的な混乱を招くような判断は避けるからだ。
(6)日本人は、もっと日頃から歴史に関して議論をしておくべきなのだが、国会の様子を見る限り、それは望むべくもない気がする。日本は、遅まきながら「歴史教育」のあり方を真剣に考えるべき時なのだと思う。
(7)「お断り」前々回の「言語文化を考える(その2)」で、私は2冊のアメリカの書物を紹介し、その一冊の章の小見出しについて和訳を示した。
① Levels and Processes in Motivation and Culture 「“動機づけと文化”の程度と処理手順」、② Culture, Narrative, and Human Motivation 「文化と語りと人間の動機づけ」、③ Social Motivation and Culture 「社会的動機づけと文化」
このうち、「人間の動機づけ」とか「社会的動機づけ」については、ブログ仲間で、心理学専攻の土屋澄男さんから、「社会の動因」とか「人間の動因」などとしたほうがよい」との指摘があり、私もそう思うので、そのように訂正します。
(浅 野 博)
「英和・和英辞典」を再考する
(1)「英語教育」(大修館書店)2011年12月号の特集は「英和・和英辞典の今~進化を探る~」である。私にはこの副題は不要のように思える。なぜなら、英語辞典の現在を考えるならば、必然的にその歴史的な経過をたどることになり、その結果、進化している点もあり、そうでない点もあるといった指摘が予想されるからである。
(2)現に、冒頭の南出康世(大阪女子大名誉教授)「英語学習辞典の新しい流れ」の小見出しには「英語学習辞典の歴史:進化・革命・退化」とある。また、この記事は辞書学(lexicography)の立場を論じているのだが、中高生を目の前にして、単語の意味や辞書の使い方を教えることに腐心している教師にとっては、あまり関心の持てる分野とは思えない。こういう知識もある程度必要だと言うなら、「辞書学入門」といった記事を提供すべきであろう。
(3)辞書を作る立場からは、“コーパス”をどう利用するかは大きな問題である。今回の特集でも、赤瀬川史朗(Lago 言語研究所)「コーパスを利用した辞書制作―その誕生から未来に向けて―」と、投野由紀夫(東京外語大教授)「学習者コーパスと辞書」の2編がある。前者は辞書の語彙や語義選択における“頻度”や“重要度”といった要素が、コーパスを利用することによってより客観的になったことを指摘している。ただし、それで問題が解決したわけではなく、英語母語話者の直感とコーパスとの食い違いが見られるとも述べている。
(4)投野氏の記事は、日本人学習者の学習段階への配慮をして、This is a my pen.のような誤りを“学習者コーパス”の示すエラーのタイプで分析して示している。“コーパス”の利用には、その種類や使用目的を考慮すべきことは当然であろう。「誤答分析(error analysis)」の考え方は1980 年代に盛んになったもので、『英語教授法辞典(新版)』(三省堂、1982)には詳しい解説がある。しかし、“学習上の誤り”というものは学習者個々によって程度や原因が様々なので、矯正方法には細心の注意が必要であり、今日では、“失敗例”よりも“成功例”の応用に関心が向いていると思う。
(5)「和英辞典」は「英和辞典」の一割程度しか売れないと言われるくらい需要が少ない。多くの学習者は、単語くらい引くことはあっても、例文を見ても応用が利かないのだ。森口稔(テクニカルライター)「和英辞典の3つの時代」は、「記載がない」「誤訳または意味のずれがある」「複数の訳語の違いが分からない」など和英辞典の欠点を指摘しているが、これらは、ほとんど「英和辞典」にも当てはまるものである。そうなると、この特集には“紙の辞典と電子辞書の限界”を論じた記事も欲しくなる。
(6)辞書における発音表記も厄介な問題である。南條健助(桃山学院大教授)「変容する英米の英語発音と英和辞典の発音表記」は『ジーニアス第4版』の発音表記担当者が、発音表記の方針を述べたものなので、「『G4』の発音表記について」とでもすべき記事である。南條氏は、日本の英語学習者は保守的な英和辞典の発音表記のために、「何十年にもわたって、無用な不利益を被ってきた」と述べているが、私は、これは自信過剰な自己評価で、賛否両論があろうと思う。『G4』の表記に従えば、日本人英語学習者の発音問題が解決できるほど単純なものではないからだ。
(浅 野 博)