言語情報ブログ 語学教育を考える

「言語と文化」を考える(その2)

Posted on 2011年11月14日

(1)私の手元には次のような2冊の洋書がある。

(1) Frank M. Grittner (editor): Careers, Communication & Culture in Foreign Language Teaching  ( National Textbook Company, 1974)

(2) D.Munro, J. Schumaker, S.Carr (editors): Motivation and Cultsure (Routledge, 1997 )

どちらもアメリカで出版された書物であるが、外国語教育と“文化”と直接に結び付けて論じている本は珍しいと思う。前者は、「外国語教育における職業とコミュニケーションと文化」とでも訳せるであろう。この場合の「職業」は、外国語教育を受けた者が将来どういう職業に就くかを考える前提となっている。

 

(2) 後者 (2) は最初の3章のタイトルを挙げてみよう。

① Lebels and Processes in Motivation and Culture 「“動機づけと文化”の程度と処理手順」、② Culture, Narrative, and Human Motivation 「文化と語りと人間の動因」、③ Social Motivation and Culture 「社会の動因と文化」

A5版で約150 ページの書物の内容をここで紹介することはできないが、用語を定義しながら、基本から説く手法はもっと私たちも真似すべき点だと思う。

 

(3)ただし、上記2冊についても、もっと具体例が欲しい気がする。“文化”のように幅広い概念を含む用語を使って論じるならば、かなり具体例がないと共通意識を持つのは難しい。“カルチャーショック”(culture shock)のような用語は、日本語でもかなり定着したが、人によってその内容や程度は同じではない。一口に “帰国生”と言っても、その滞在先や通学した学校は様々なので、共通概念で括るのは無理があろう。

 

(4)和田稔『国際交流の狭間で―英語教育と異文化理解』(研究社出版、1991)は、文科省の教科調査官だった著者が、いわゆる“AET”(最初はMombusho English Fellows” とも呼ばれた) を受け入れる窓口になって知った英語教室で生じる様々な問題を論じている。この書物の強みの1つは、 AET が問題点を書いた手紙の実例を著者による注と共に多く示している点にある。

(5)大谷泰照『日本人にとって英語とは何か―異文化理解のあり方を問う』大修館書店、2007)は、副題にあるように、“異文化理解”を英語さえ出来れば可能と考えがちな日本人への警告の書となっている。やはり文化の問題は軽々には扱えないことを噛みしめたい。今回は参考書籍の紹介に終わってしまったので、今後も機会があればこの問題を考えていきたい。

(浅 野 博)

浅野:「言語と文化」を考える(その1)

Posted on 2011年11月2日

(1)私たちが学校で英語を教える場合は、「英語と文法」とか「英米の風物、文化」といったことは意識にあるが、「言語と文化」という関連から考えることはあるだろうか。もちろん、そういう分野を得意とする教員もいるであろう。現に、「言語文化」という用語もある。しかし、この用語がいつ頃から使われたかを知る人は多くないように思う。学習指導要領(中学校英語)は、総括目標で、「外国語を通じて言語や文化に対する理解を深め…」と述べているが、この場合の“文化”をどう定義しているのかは明確でない。(小学校5・6年用の外国語指導要領にも同じような趣旨の記述がある。)

(2)斎藤武生『言語文化学事始』(開拓社、1983)という本がある。「事始」は「ことはじめ」と読み、「新しく仕事を始める」という意味だ(この書名にはルビが振ってある)。つまり、「言語文化学」をその始めから、説き起こしているのだ。そして、この用語は、日本では1936(昭和11)年にすでに用いられたと著者は言う。また、この書物の書かれた 1983 年頃は、大学の「言語文化学科/ 学部」などの新設が盛んになり始めていたが、「言語文化学」の研究そのものは、それほど熟していなかったことも著者は指摘している。

(3)そこで、いろいろ文献を探っているうちに、私は「語用論」に行きついた。1970年代には比較的新しい学問分野だったが、私はまず“語用論”という訳語が気に食わなかった。“誤用論”と聞こえるからだ。“言語運用論”とか“言語実用論”のような訳語も提案されたらしいが、定着しなかった。英語の原語は、“pragmatics” で、S. C. レヴィンソン(Levinson)著、安井稔・奥田夏子訳『英語語用論』(研究社出版、1990)の訳者序文には、この当時(1990)は用語としての“語用論”は英語でも日本語でも定着しているが、「その中身の定義に関しては諸学者の意見が一致しているわけではない」と述べてある。

(4)もっと新しい“語用論”を知ろうと、町田健 編・加藤茂広 著『日本語語用論のしくみ』(研究社、2004)を読んでみた。これは、5巻からなるシリーズの1冊で、内容は多岐にわたっていて、単純に“言語と文化”の関係を論じているわけではない。ただし、「会話にはなにか原則があるのですか」(p. 52)のような問題提起があって、その“原則”について多くの文献を根拠に詳細に説明している。その“原則”の適用が、自分に当てはまるかどうかを考えると、“日本文化”というものの影響を考慮せざるを得ない。当然ながら、言葉の使用は“伝統的文化”とも密接に関係しているのだと思う。(このテーマ続く)。

浅 野 博

浅野:「プロジェクト型学習」を考える

Posted on 2011年10月18日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の 2011 年11月号の特集は、「『プロジェクト型学習』とは何か」であるが、まるで IT 関係の論文のように、新しい用語を知らなければついて行けない感じがするのである。現在の中学校用検定教科書には、「プロジェクト」という用語で、指導内容を示しているものがあるが、画一的な指導を要求する指導要領に基づく検定教科書で、多彩で独創的な指導が容易に出来るとは思えない。

(2)最初に、2番目の記事、佐藤芳明(慶応大学訪問講師)「『プロジェクト型授業』とは何か」を読んでみた。慶応の湘南藤沢キャンパスでは、「『プロジェクト英語』は、2008年以来の伝統」とあって、そう古いことではないようだ。もっとも、このキャンパスの特徴は、開設当初の1990年頃からマスコミにもよく取り上げられた。研究者たちが、共通目的を達成するために、“プロジェクト”を組んで研究に当たっていることも、かなり知られていたと思う。

(3)しかし、「英語教育で、なぜ“プロジェクト型授業”なのか」ということが私にはよく分からない。どんな教科でも、学校全体として教育効果を上げようとしたら、教員たちの協力体制が必要なのは当然であろう。20年以上も前に、多くのAET が各校に配属されるようになって、”team-teaching” の必要性が声高く叫ばれた。それと「プロジェクト型授業」はどう違うのであろうか。今回の特集の記事には、「プロジェクト型授業のほうが効果的」ということが書いてあるものが多く、「それでは今まで実践してきたことは何だったのか」という疑問を拭い去ることが出来ないのである。

(4)東野裕子(西宮市立高木小学校主幹教諭)「小・中学校の9年間を視野に入れたプロジェクト型外国語活動」には、次のような記述がある:「『プロジェクト』とは、児童が課題を見つけ、あるいは、与えられ、それに対するゴールを決定し、そのゴールに向けて共同で活動する、まとまりを持った一連の授業の集合体を指す。いわば、『課題解決を行うゴールを持った単元』と解釈してよい」。この解説も分かりにくいが、今まで英語教師はこうしたことを全く実践しなかったのであろうか、と私の疑問は尽きないのである。

(5)教える側としては、指導技術は常に研究しなければならないし、外国における実践にも注目すべきであろう。しかし、これまでの方法を十分に反省し、どういう方法が、他の方法より優れているかをよく検討しないで、新しい用語で指導技術を論じるのは無益であろうと思う。“指導者たちが、共通教材を用いながらスクラムを組んで学生に対応する”といったことはこれまでの大学教員が最も苦手としてきたことではなかろうか。したがって、大学教員の説く「プロジェクト型授業」など信頼できないと私には思えるのである。

(浅 野 博)
※記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます。

浅野:「英文法の指導」を考える

Posted on 2011年9月14日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の 2011 年10月号の特集は、「新指導要領下におけるコミュニカティブな英文法の指導」であるが、私にはどうもこの題名は分かりにくい。“コミュニカティブな英文法”とは何であろうか?「コミュニケーションのための文法(指導)のことだ」と多くの英語教員は答えるであろうが、では、“コミュニケーションに役立たない文法(指導)”は何であろうか?「それは“読むこと”だ」と答えてよいのであろうか、と疑問は尽きない。そこで、最初の記事、村野井 仁「新学習指導要領における文法指導―文法指導に関する5つの誤解―」を読んでみた。

(2)「誤解その1:教科書や文法書に書かれている文法規則を一つ一つ記憶するのが文法学習である」とあるが、これは本当に“誤解”であろうか?中学1年生に「主語が三人称単数の場合は、動詞に (e)s が付く」といった説明はしないであろうが、この規則は“知っている(覚えている)”必要はあると思う。規則は覚えていなければ使えないからだ。

(3)この号の [編集後記] に、「母校のラグビー部の試合を応援しに行っているうちに、ラグビーのルールがわかってきた」として、「英語を使うための規則(ルール)である文法も、学習者のタイプによって、事前に理解してから使った方がストレスがないこともあれば、使いながら必要に応じて学んでいくと定着が早いこともあるでしょう」と述べてある。これなら私にも分かるし、賛成できる。

(4)私の知る限り、中高生に「英文法の授業は好きですか?」というアンケートに答えてもらうと、「嫌い」が圧倒的に多い。野球にしろサッカ―にしろ、「まずルールブックを覚えろ」と言われたら、そのスポーツに興味を失うのは当然であろう。興味の持てる物語を読んだり、友人にメールを書いたりといった動機づけのある活動をしながら、規則を学び、身に付けていくのが能率的な学習法なのだと思う。したがって、他の記事にある「『フォーカス・オン・フォーム』アプローチ」とか、「『タスクで補助する』文法指導のすすめ」などは、指導法の問題であって、無理に“文法指導”と結びつける必要性はないと私は考える。

(5)久保野雅史「何がどうして苦手なのか?:教科書を分析して学習歴の把握を」という提案は大いに賛成できる。この記事は、Which book is mine? とか(21.3%)、Turn left at that shop. (17.9%) などの語順選択問題の正答率が極めて低いと報告している。これは文法指導の問題ではなく、基本的な英語表現に慣れさせ、覚えさせるドリルの不足を意味しているのだと私は思う。「英語を話せる日本人の養成」ばかりを考えて、英語学習の基本を忘れている責任は誰にあるのであろうか?

(浅 野 博)
※記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます

浅野:「英語学習環境の破壊」を考える(その2)

Posted on 2011年9月8日

(1)前回、「でたらめな英語が氾濫している」ことを指摘したら、ある年配の方から、「それを言うなら、若者をが聞いたり歌ったりしている歌詞を問題にすべきではないか」というご指摘を頂いた。ごもっともなことであるが、この問題は指摘しだしたらきりがないし、以前にも問題にしたことがある。

(2)私はかなり前に「英語教育」誌(大修館書店)で、歌詞のことを問題にしたが、「正しい英語を考えさせる教材になる」という意見の英語の先生もおられて、そういう先生を説得するのを断念した経緯がある。宇多田ヒカルの書いた歌詞などは、初期の全文英語のものはまともだったが、日本語を交えたものは、他の歌詞と同じように英語にする意味がない箇所が増えている。プロデューサーなどが、“日本の若者に受ける歌詞”を要求するのであろう。

(3)中高生に言語の「音(おん)」を教えるのに、「『国語音声学』のような書物は実用的でない」と前回書いたが、手元には、斎藤純男『日本語音声学入門』(三省堂、初版1997、改訂版 2006)という本がある。「入門」とは称しても、やはり音声学の専門用語がたくさん出てくる。著者は東京外語大でモンゴル語を学び、米国インディアナ大学でアルタイ諸言語を専攻しているので、そうした諸言語との音声的比較を述べておられるが、中高の英語学習者に必要な知識とは言えないものである。

(4)私が昭和30年 (1955) 前後に、中高校生に英語を教えていた頃は、小さな手鏡を持参させて、自分の口の形を映してみながら、英語の発音をさせたものだ。または、ティシュウ(当時は“ちり紙”)を細く切って口の前にたらして、[ p ] の発音の時に、その紙片が揺れるかどうかを実験させたこともある。私の知る限りでは、現在の英語教室で、そういう指導をされる教員はほとんど居られない。パソコンを使って口腔図を見せたり、オシログラフのような図形を提示したりすることはあるが、学習者に分かりやすいかどうかは別問題であろう。

(5)日本語の [ン] の音を出すときに、「口は閉じているか、開いているか」を This is a pen. の [ pen ] の場合と比べさせるとよい。「かんたい(歓待)」、「しんぱい(心配)」などの「ン」の時に口はどうなっているかを考えさせるのもよいであろう。適切な例ならば、小学校の高学年生でもわかってもらえる可能性がある。音声学の理屈ではなく、実際に舌の位置や口の形を意識させることが重要なのだ。

(6)小学校の教員になる人が音楽や水泳を学ぶことも大事であろうが、“実践的音声学”を学ぶことも必修にしないと、“英語の学習の環境破壊”は止まらないと私は心配する。改革には時間がかかるが、目指してもらいたい目標だ。(浅 野 博)

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