「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その12)(英語の「なぜ」に答える)
(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年9月号は、2つの特集があって、1つは「英語の『なぜ』を解きほぐす」です。これには、「指導に役立つ英語史の知識」という副題がついています。私はこのタイトルを読んで、「そんなところまで守備範囲を拡げて大丈夫かなあ?」という疑問を感じました。英語の授業時間数が全面的に増加されたという報道は聞いていないからです。
(2)私のほぼ60年間の英語教師としての経験では、とても詮索好きで、“何故ですか?”とよく問うような中、高校生は、英語力はあまり伸びないと感じてきました。そういう生徒は理工系の大学へ進学して立派な成績を残すことは多いように思います。もちろん何事にも“例外”はありますから、“絶対的に”とは言いませんが、“暗記する”、“反復練習する”といった学習作業に素直に応じる生徒のほうが、英語力は伸びる傾向が強いと感じたことが多いのです。
(3)私の主観的な印象を実証するためには、何百人かの生徒を何年間も追跡調査して、その英語の成績を比較検討する必要があるでしょう。それは今の私には不可能ですから、なるべく多くの英語教員の方々からご意見を頂ければ有難いと思います。「英語教育」誌の特集の“ことば尻”を捕えるようですが、“英語の『なぜ』を解きほぐす”というのは、“徹底的に突き詰める”といった感じがしますので、そこまでやる必要はないのではないか、と私には思えるのです。
(4)特集1の最初の記事は、江藤 裕之(東北大)「英語史の知識を活かした英語教育―『暗記させる』から『理解させ、納得させる』英語の授業へ」というものです。江藤氏は、2013年の3月に東北大学で、「英語教育における英語史の効用」と題するシンポジウムを開催したことに言及して、「『英語教育』誌9月特集号の執筆者の大部分が参加されました」と述べていますから、私は、編集部がこのシンポジアムに参加された先生方に執筆を依頼されたのであろうと推測しました(私の邪推かも知れませんが)。
(5)私は頭から、“英語史の知識など要らない”と言うつもりはありせん。私自身も学生時代に、ノーマンコンクエスト(大雑把には、1066年にイギリスにフランス語系の民族が侵攻して、土着の英語がフランス語に変えられたこと)などの話を興味深く思ったことがあります。でも、そういう知識と、学習した英語を実用的に使えるかという問題は別のことだと思うのです。いずれにしても、中学生や高校生を相手に、どこまで“脱線ばなし”をすべきかは、様々な条件があって、一概には言えないと思います。
(6)中学生や高校生でも、英語教員が予期しない質問をすることは覚悟して教室に向かう必要があることは私も認めます。特集の記事は、そういう質問を前提にして、英語史の観点からの詳しい解説を示してありますが、かえって英語の学習への興味を失う生徒が多くなるのではないか、と私は心配です。何事も、“過ぎたるは及ばざるがごとし”です。従って、以後の各記事についてのコメントは割愛させて頂きます。その記述内容の正否について論じる資格は自分にはないと思いますから。
(7)本号の第2特集は、「ビジネスの現場で求められる英語力とは」で、2編の記事があります。英語教育もそれぞれの自治体や教育委員会の判断で、様々な実践が行われていますから、一般論として論じることには無理があるように思います。「英語教育」誌では、特集ではなく、“参考記事”ということで、こうした記事を折に触れて紹介したらどうでしょうか、と僭越ながら提案するに留めておきます。(この回終り)
日本語は悪魔の言葉か?(3)の2
3.音読みと訓読み
日本語の場合、借りてきた漢字を、そのまま音読みするとともに訓読みもした。例えば、「返事」(ヘンジ)を取り入れても、「返り事」(カエリゴト)もそのまま使い、「返る」「事」も使われた。すなわち、訓読みも漢字を当てて、相変わらず用いたために、もともとの和語がすたれて減っていくということはなかった。
ところが、朝鮮語、ベトナム語などは、中国語と同じく訓読みがほとんどない。それゆえに漢語の取り込みにより、もともとの単語がすたれて、なくなっていくことになった。
仮に日本語の例で説明すると、「山」を取り入れると、これは「サン」としか読ませない。もともとの「やま」には漢字を当てない。「山」が「富士山」などの語の一部として用いられるばかりでなく、独立に「ヤマ」の意味で「山」(サン)が使われるようになる。するといつの間にか「やま」の方がすたれて使われなくなる。
このようにして、朝鮮語でもベトナム語でも、本来の語が少しずつ消えていった。「はたらく」がだんだん使われなくなり、代わりに「労働する」という動詞ができる。このようにして漢語が70%を超えて、朝鮮語にもベトナム語にも危機感が生じた。
われわれの日本語においても漢語が70%を超えつつあると思われるが、本来の和語が減ってないので、危機感を抱く人はほとんどいないだろう。
4.日本語をローマ字化したら何が起こるか
ローマ字化が始まると、間もなく、同音異義語のうちのいくつかが消えていくだろう。
上で挙げたが「コウセイ」と発音する単語は日本語には30語もある。読みにおいて大人はこの30語がほぼ読めるし、意味の区別もわかる。が、これをローマ字にした場合、前後関係から何語ぐらい判別できるか。おそらく12,3語は大丈夫であろう。
なぜ「kohsei」を見て、コンテキストから12語も区別できるのか。それは「kohsei」を見て、前後関係から、例えば「構成」という漢字が頭をよぎるからだ。書く場合は頭をよぎる漢字はより少なくなる。「構成、校正、攻勢、厚生、更生」など7語ぐらいが頭に浮かび、使えたとしよう。これらはいずれも漢字が頭をよぎるからなのだ。ちゃんと書けなくても、大体の形が頭をよぎるだけでいいのだ。
ローマ字教育が進み、漢字を見なくなると、だんだん漢字が瞬時に頭をよぎることがなくなり、この区別ができなくなる。30語もあった豊かな語彙が4語になり、漢字を知らない子が増えるにつれて、3語の区別も難しくなってこよう。このようにして日本語の語彙はどんどん貧弱になってくると推察できる。
5.韓国の文字政策 ― 漢字を捨ててよかったか?
韓国では長い間、漢字を捨ててハングルだけでいくか、ハングル中心だが漢字も補助に用いていくかの論争が続いた。そしてついに、1970年に小・中・高のすべての教科書から漢字を削除した。
するといろいろなことが起こった。小学生の国語力が大きく落ちた。そればかりか他の科目の学力も落ちた。抽象的な表現の多くは漢語で表していたので、抽象的な表現や論理的な表現力が落ちてきたと言われた。
政府は1975年に中学で900字、高校で900字の教育用基礎漢字を制定した。しかし、これは選択科目の教科書において、ハングルに( )付けで添えるだけであった。
もうハングル化を止めることはできなかった。その結果「韓国」と書けない大学生、「現在、基本、統一」といった基本的な抽象名詞が読めない大学生が増えて、語の意味がぼんやりとしかわからないようだとの批判が聞かれるようになった。子供の将来を恐れて、教育ママは自分の子を「漢字の塾」に通わせたりしているといった情報も得ている。
(つづく)
日英ことばのエッセー(その12)(日本人と英語教育)
(1)マーク・ピーターセン『英語の壁』(文芸春秋、2003)に、「なぜ日本人は英語が下手なのか」と題する章があります(p. 117~)よく読んでみると著者は本当にそう思っているのではなくて、こういう題名のシンポジウムにパネリスト(パネラーは和製英語)として招かれたことがあって、「なぜ日本人はいつもこういうネーミングを好むのであろうかという不思議な気持ちのまま、会場へ向かった」とあります。
(2)日本人が自虐的な表現を好むのは確かですが、外国人が思うほど、深刻には考えていないのが実情でしょう。いろいろな場合が考えられますが、“うそをついているほどの気持ち” ではなく、“話し相手への配慮”くらいの意識だと思います。このことは、日本と全く違う環境で育った外国人には理解しにくいことだと思います。日本の国会議員の議場での発言を聞いていますと、敬語の使い方が間違いだらけです。特に相手が野党議員だったりすると、相手を尊敬する気など全く無いことは明らかです。日本人は、本音と建前の差が大きい民族なのだと思います。
(3)ピーターセン氏は、さらに、「日本人の英語学習者の中には、中学、高校から大学まで、英語の授業を受けながら、“英語はさっぱり分からない”と考えている人が多いし、その気持ちも分からないでもない」と同情を示してくれています。しかし、一方では、「自分で反復練習するという努力をする生徒も少ないようだ」と痛いところも突いています。
(4)ピーターセン氏は、「日本の英語教育がいちばん間違っているのは、全国民に英語だけを教え込もうとしていることだ」という趣旨のことを述べています。私は自分のブログでも述べたことがありますが、アメリカの若い大学生から、「1つの外国語を2、3年もやって、ものにならないと思ったら、別の外国語をやるか、外国語は諦める」と言われた経験があります。日本の高校生は英語一点張りで、選択の余地はほとんど無いのです。
(5)鈴木 孝夫『日本人はなぜ英語が出来ないか』(岩波新書、1999)には、「日本人は日常生活では、英語などを全く必要としない。そこがアメリカやイギリスの植民地であった現在の独立国とは、事情が全く違うのだ」という趣旨の指摘があります。私は、現在ではこの考え方は修正する必要があると思います。独立国としては、それぞれの事情に応じて、外国語教育を実施しているでしょうが、やはり英語が選ばれているとしたならば、それなりの理由があると考えるべきで、日本人のように、“英語さえ出来れば”といった安易な姿勢は、少ないのではないでしょうか?
(6)昭和30年(1957)頃、私は高校生を教えていましたが、英語の得意な生徒が3年生になって、進路相談をすると、外国語大学を志望していることが分かりました。私は、「君ならきっと受かると思うが、これからは英語の出来る学生が益々増えるから、例えばスペイン語などを専攻してみたらどうだろう」と提案してみました。その生徒は素直に応じて、スペイン語を専攻したのですが、「日本の銀行に就職したのですが、スペイン語の力を活かす機会が無くて苦労しましたよ」とだいぶ後になって、クラス会で会った時に言われてしまいました。
(7)私としては、「どこか商社に勤めれば、活躍出来るであろう」という見込みで提案したのでしたが、それが外れて迷惑をかけたと、反省しました。それはともかく、当時の高校生は、素直なばかりでなく、自主性があって、“勉強は自分で努力するものだ”という意識が強かったように思います。現在の若者たちはどうでしょうか?もちろん、個人によって大きな差があるとは思いますが。私には、今の高校生を指導する資格は無いような気がしています。(この回終り)
日本語は悪魔の言葉か?(3)の1
漢字は悪魔の文字か? 日本語は悪魔の言葉か?
終戦後すぐにアメリカから派遣された教育使節団の「報告書」には次の文言が見られる。「書かれた形の日本語は、学習上の恐るべき障害である。日本語はおおむね漢字で書かれるが、その漢字を覚えることが生徒にとって過重な負担となっていることは、ほとんどすべての識者が認めるところである。初等教育の期間を通じて、生徒たちは、文字を覚えたり書いたりすることだけに、勉強時間の大部分を割くことを要求される。」
「一般に、現代の問題や思想を扱った書物を理解することはできない。とりわけ、彼らは、読書を学校卒業後の自己啓発のための手軽な道具とできる程度に国語を習得することには、一般に成功していないのである。」
漢字の難しさが社会の民主的な発展を妨げていると主張しているわけだが、これに対して、日本側の「日本教育家の委員会」は反論するより、積極的に賛成したようである。委員は29名で、大学学長、高校長、官僚、新聞社・出版社・企業のトップの中に天野貞祐、小宮豊隆、高木八尺、南原繁、柳宗悦等の名が見える。
「漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存する封建意識の掃討が促進され、あのてきぱきとしたアメリカ式能率に初めて追随しうるのである。」といった調子の「讀賣新聞」(当時は「讀賣報知」)の「社説」の文言は、当時の日本全体の雰囲気をよく反映していると思われる。
熱しやすく冷めやすい、優柔不断な国民性・文化のためか漢字を捨てることなく、問題を棚上げにしたまま、今日にいたっている。(「当用漢字」というのは、当分の間の用のための漢字、どのみちやがて全廃するので、といった含みがあったようだ。)
私は、漢字こそ日本が近代化を促進し、工業国にのし上がり、先進国の仲間入りができたもとであると思っている。漢字の優れた点、日本語との相性の良さを見ていきたい。(もちろん漢字使用の短所はわかっているつもり。)
1.漢字の造語力
漢字2つを組み合わせて単語を作ると、改訂常用漢字2136字の組合せで、2136×2136=4,562,496、すなわち、456万語の単語が作れる。意味をなすものが20%としても90万語以上の単語を作れる可能性がある。漢字の場合、自由に単語が作れる豊かな造語力を持っているのだ。
英語の場合は、大辞典には55万語ぐらいの見出し語があるが、1語の単語で見出し語になっているのは10数万語にすぎない。すでに1語の単語を作る造語力は豊かではない。2語以上の単語、前置詞つきの単語もたいへんに多い。
英語では、ひとつのことばが長くなるので、その頭文字を取って作るアクロニム(頭字語)が大いに流行っている。例えば、OECD、これは Organization for Economic Cooperation and Development(経済協力開発機構)の頭文字を取ったものである。これはまったく意味とつながりがないので、1つずつ覚えなければならず、漢字よりもはるかに覚えるのがたいへんだ。
アクロニム25万語辞典といった辞書も出ている。大学生の間でも大はやりで、「WACN」(=Wait at Cafeteria North, 北食堂で待つ)などといった掲示があったりする。
日本語の場合は短い単語を作る余地は無限にある。これがいっぽうでは意味を難しくし、同じ発音の語をさらに増やすことにもつながっているのであるが。
2.明治以降の翻訳語
江戸時代においても漢語は使われていた。中国から伝わってきた事物は、そのまま漢字を当てていたが、その数はそれほど多くなく、また取り入れのスピードはゆっくりしていた。
ところが、明治になると、西洋の事物の流入と、翻訳により、漢語は飛躍的に増加した。最初は和語に対して2:1、やがて漢語は半分になり、今やIT化や新しい事物の大量の流入により、さらに急激に増え続けている。
意味さえある程度合っていれば、読みはどうでもよかった。その結果読みにくい単語や、同じ発音の単語が多くなっていった。例えば、日本語で「コウ」と読む漢字は「高、好、考」など300以上もある。
漢字2字の単語でも例えば「コウセイ」は30もの異なる単語がある。そのうちの、構成、厚生、校正、攻勢などかなり多くの単語をだれでも簡単に使い分けでき、聞いてわかる、読んでわかるだけならさらに多くの単語に対応できる。それゆえわれわれは、同音異義語に違和感を持たなかった。
この漢語、加えてカタカナ語のおかげで、工業技術の進歩、服飾、食事・食品などの急激な変化にも、簡単に該当する単語を作ることによって、難なく対応してきた。
(つづく)
浅野式現代でたらめ用語辞典(再開その36)(脱法ドラッグ)
脱法ドラッグとかハーブとか呼ばれるものは、麻薬に似た効果があって、つい手を出してしまう人間が多いらしいのだが・・・
耳の遠い、知ったかぶり老人:何?脱帽?君が代でも歌うのか?違う?ハーブか?薬草は身体にいいものじゃよ。どうして法律違反とはおかしいよ。
中学生ギャル:うちの母ちゃん、「やせられるなら、ハーブもいいね」なんて言っている。どこかで薬膳料理を食べたのが、忘れられないんだってさ。そのくせ甘いものが大好きだから、やせるはずないよ。
真面目女子医大生:“脱法”では弱いから、“危険”ドラッグに変えてみたものの、利用者は“危ないもの”と知っていて、その魅力に負けているのですから、名称の問題ではないと思います。最近は、公営のギャンブルをもっと増やして、地方都市の再生を図ろうなどと主張している政治家がいるようですが、現在でも、競輪や競艇に有り金を入れ上げて、妻子を泣かせている男性が沢山いますし、パチンコに夢中いなって、放置した車の中の我が子を死なせてしまった母親がいます。政治家には、人間の心理を勉強してもらいたいです。(この回終り)