「『英語教育』誌批評(大修館書店)」(その11)(小学校英語のことなど)
(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年8月号は、“拡大特集”として、「小学校英語の教科化・低学年化に備える」とあります。それだけならば、私には違和感がないのですが、その後に少し小さい活字で、“「小学校文化」に根ざして”とあるのです。「“小学校文化”って何ものだ!」と私は叫びたくなりました。どこかにきちんと定義してある言い方なのでしょうか?知らないのは私だけなのでしょうか?
(2)目次の説明には、「今後の小学校にふさわしい英語授業を考えるには、まず『小学校特有の文化』を再認識したい。児童の発達、指導体制、教員構成などの観点で、小学校の『いま』と『これから』を考えます」とあります。“再認識”と言われるのですから、“小学校文化”というものは、これまで認識されていたと解釈出来ます。“やはり私だけが無知だった”のか、といささか憂鬱になって読み進んでみました。
(3)最初の記事は、金森 強「『全人教育』としての小学校英語教育」(関東学院大)で、最初に「忘れてはならない『全人教育』の視点」とあります。私としましては、「おやおや、そんなところまで欲張るのかよ」と言いたくなりました。それまでも、現役の英語教師だった頃の私は、「英語教育の目的は平和教育でなければならない」といった主張をよく聴かされたからです。
(4)私には、“平和教育”の重要さを否定するつもりはありません。「でもそれは日本語で十分に考えるべき問題で、何も英語教育にまで言及する必要はないではないか、と考えてきました。“日本人が英語を習う”というのは、容易なことではありません。語順、語彙、慣用表現、日本語に無い発音など学ぶべきことは沢山あります。もちろん、中学3年生ともなれば、教科書の教材の一部に、平和の尊さを扱うものがあってよいし、そういう教材を読んだ感想をつたないながら英語で話したり、書いたりすることの意義は私も認めます。
(5)そもそも“全人教育”とはどういうものだろうかと、『明鏡国語辞典』(大修館書店)で、“全人”を引いてみますと、「知識・感情・意志の調和がとれた人。完全な人格を備えた人」「―教育」とありました。「英語教育はそんな高邁な目標があるのか」とまた驚きました。この著者には、「日本の英語教育は効果が無い」とか、「10年以上も習って、ちっとも話せるようにならない」といった苦情は耳に達していないのでしょうか?
(6)執筆者たちには大変に失礼ですが、“小学校文化”といった漠然としたものを前提にした記事は読む気がしません。しかも、読んでみると、記事の内容にはこれまでも議論されてきた問題点が多いように思えるのです。鈴木 孝夫(慶応義塾大名誉教授)は、『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書、1999)という書物で、「『国際理解』は止めよう」と主張しています。ごく大ざっぱに言えば、「英語教育は欲張り過ぎて効果が上がらないのだ。もっと目標を絞れ」ということです。
(7)文科省の言い分や、自民党の主張をただ受け入れるだけではなく、その問題点を指摘することも急務であろうと私は考えます。日本で唯一と言ってよい「英語教育」専門誌のためにも、もっと批判的な記事がたまにはあってよいであろうと思います。「英語教育」編集部の皆さん、ちょっと視点を変えて、さらに努力して下さることを期待しております。(この回終り)
日本語は悪魔の言葉か?(2)
漢字を捨てる、いや、日本語そのものを捨てる
日本人が日本語を捨てて再出発しよう、世界に出ようと主張した跡を少し見てみたい。また、日本語を捨てることはかなわないが、せめて漢字を捨てよう、できればカナも捨ててローマ字にしようとした政策の跡も少したどってみたい。
1.日本語を捨てよう
幕末から明治20年ごろまでにかけて、日本の指導層には焦りがあった。西洋は何もかもが進んでいる。日本ははるかに遅れている。政治、経済、産業はもとより学問も教育も遅れている。
それを学び取るべき言語が西洋とはまったく違う。言語が難解でわかりにくく、大いに遅れている。日本の言語を西洋の言語のようにしなければならないと当然のごとく考えた。
そして、日本語を全面的に捨て去り、英語を日本の国語にしようとの主張は多くの人によってなされた。中でもわれわれも知っているのは文部大臣であった森有礼だ。森は英文の著書において「わが国の最も教育ある人々および最も深く思索する人々は、音標文字 phonetic alphabet に対するあこがれを持ち、ヨーロッパ語のどれかを将来の日本語として採用するのでなければ世界の先進国と足並みをそろえて進んでゆくことは不可能だと考えている」と書いている。高田早苗(早稲田大学総長、文部大臣)も英語を日本の国語に
することをとなえた。
2.漢字を捨ててローマ字に
すでに明治維新より前に、幕臣前島密は将軍に漢字廃止を建言しているという。日本語を捨てようとの主張の一方で、日本語は捨てないが、漢字を捨てようとの主張は長く続いた。
明治16年には「カナモジカイ」が結成され、翌年には「ローマ字会」が結成され、どちらも隆盛であった。当時の教養ある人たちは、自身の過去を恥じていたので、ローマ字化すれば、以前の書物はやがて読めなくなることを気にも留めなかった。
日本政府は明治30年代いたって、音標文字化を国の方針とした。それを前提に33年に国語調査委員が任命され、35年に文部省国語調査委員会が組織された。われわれが存じている委員としては、上田万年、大槻文彦、芳賀矢一、新村出、山田孝雄などが順次委員に加わった。
この委員会は漢字を捨てて音標文字化することを大前提にしていた。すなわち、委員会の根本方針の第1条に、「文字ハ音韻文字(「フォノグラム」)ヲ採用スルコトトシ、假名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト」とある。
この委員会は大正3年にいったん廃止され、臨時国語調査会と名を替えて再建され、昭和9年に「国語審議会」と名を変えた。そして、何度も内閣に国語改革案を建議したが、それが実施されたことはなかった。
この国語審議会がそのまま戦後も続いていて、国語改革を実行したのである。
3.戦後の国語改革 ― 漢字制限
敗戦後の日本の精神状況は、明治維新とよく似ていた。これまでの日本は邪悪で、無価値であるとした。国語改革にとってもチャンスであった。読売新聞は「漢字を廃止せよ」との社説を掲げ、ほかの新聞・雑誌も同じような論調であった。漢字廃止は日本人一般の思いであった感がある。
周知のように、志賀直哉は、21年4月『改造』に「國語問題」を発表して、フランス語を国語にしてはどうかと提唱した。これも突飛なことではなくて、当時の日本の一般的な気分を代表していたと思っていいであろう。
20年11月、文部大臣は国語審議会に対して「標準漢字表」の再検討に関し諮問し、「漢字主査委員会」が設置された。「再検討」といったのは、すでに昭和17年に国語審議会は「標準漢字表」を内閣に答申し、そのなかで「常用漢字1,134字」「準常用漢字1,320字」を答申していたのだ。
超スピードで、11月5日に審議会は「当用漢字表1,850字」を答申し、政府は同月16日に内閣告示で実施している。これは電光石火の早業であった。ついで23年2月に「教育漢字881字」が公示された。この漢字制限には、近い将来さらにそれを減らし、いずれは全廃にもっていく前提があった。GHQ(連合国総司令部)に押し付けられたというより、日本の民意の反映であったと言ってよいであろう。
しかしながら、昭和30年代になると、国語改革の熱は冷め、知識人たちも漢字制限の影響の大きさ、過去の遺産との乖離に気づき、反対の声を挙げた。この政策をもうやめることはできなかったが、さらに漢字制限を強めることはできなくなって、なんとはなしの棚上げ状態になった。
4.日本人の識字率、国語力
GHQは、アメリカ教育使節団の国語改革の勧告を補強し、ローマ字化を推し進めるために、国語テストを行って、漢字・カナ文字の複雑さがいかに日本人の国語力を阻み、コミュニケーション力を弱めているかを証明したいと考えた。しかしながら、テスト結果は、日本人の識字率は驚異的で、世界一であり、国語力も欧米のどの国と比べてもはるかに高いことが判明し、漢字廃止への矛先が鈍ったと言われている。
以上、日本が辿った日本語廃止、その前段階としての漢字制限、ローマ字化の歴史を追ってみた。筆者はこのへんの知識に乏しく、『漢字と日本人』(高島俊男著、(株)文藝春秋、2001)その他を参考にさせていただいた。
★次回は、漢字は本当に悪魔の文字で効率が悪いのか、漢字の将来の可能性はどうか、漢字を制限することのマイナス面、日本語は理論的に漢字を捨てられるのかといった問題を検討したいと思っている。
(つづく)
日本語は悪魔の言葉か?(1)
日本は戦争に負けて、新憲法を初め、あらゆる改革を戦勝国、特にアメリカに押しつけられた。日本人を好戦的な、軍国主義の民族にしないために教育改革こそ大事だとされ、教育使節団がアメリカから派遣された。
その報告書は、敗戦の翌年、1946年4月7日にマッカーサーの声明を付して公表された。それを読むと、勧告は指示とか命令とかいった形ではなくて、日本人が自ら考え、討議し、判断し、新しい日本を創り上げていってほしいとの立場を取っているふうであった。
中でも日本語をどうするかは相当議論があり、裏では、難しい文字を使い、学習効率が悪く、世界とのコミュニケーションがうまくできず、軍国主義につながった元凶として、日本語を「悪魔のことば」と呼んだ委員もいたと言われる。
日本の国語の改革には極めて積極的で、何らかのローマ字表記は当然で、漢字制限 → 漢字撤廃 → ローマ字表記へのコースをどう進めるか、これを日本政府の実行力に期待するとしている。
われわれ日本人の中にも、日本語は極めて特殊な、変わった言語で、できうれば国語を変えてしまった方がいいなどといった意見も歴史上何度となく出ているのはご承知の通り。
ほんとうに日本語は特殊な言語で、効率が悪いのか。特に文字、漢字は日本人の学習を大いに妨げているのか。少しばかりこれらの点を考えてみたい。
1.言語学的にみると、日本語はごく普通の言語だ。
世界には5,000とも7,000とも言われる言語が存在する。その中の1,500ほどの言語を調べた研究者によると、英語の S+V+O のように動詞が前にくる言語32%に比べて、日本語のように動詞が文尾にくる言語は47%で多い。
英語のように語順によって意味が決まる言語も多いが、日本語のように、助詞などの接辞をつけることによって文中の要素を決め、語順は決め手としてはゆるい言語もたいへんに多い。このように独立の語に文法的な要素をつけていく「膠着語」は言語の大きな分類のひとつで、めずらしくはない。以上のように文法的に検討していくと、日本語はなんら特殊な言語ではないとの結論に達する。
2.語彙、文字、発音を見ると、極めて特殊な言語だ。
ところが、実際に使われている単語とその綴り、その発音を具体的に見てみると、まったくほかに例がない特殊な傾向に驚く。
日本語には同音異義語、すなわち、同じ発音で意味が違う語が極めて多い。世界の言語にその類例はまったくない。例えば、「しょう」を国語辞典で引くと、40個あるいはそれ以上の語が出ている。40もの違う漢字、あるいは書き方があるのだ。それもこのような同音異義語の組が、数千、数万と存在するのだ。
例えば、英語の世界ではほんの数組の同音異義語が存在したが、それぞれの組の一方が死滅する過程を辿るのが英語学の授業の一コマだったりする。
同音異義語が異常に多くても、日本人はほとんど気にしないし、間違いが起こることも少ない。まったく支障がないのだ。これは欧米の言語学では想像すらできないことだ。
ではどうして、5千もの言語の中で類例のない唯一の変わった言語だと言われるのか、日本語は?
3.音読みと訓読み
日本語には文字はなかった。おそらく奈良時代の少し前、中国から漢字を借りてきて、使い始める。
最初は「万葉仮名」と呼ばれる使い方で、音声1個に漢字1個を当てた。日本語の語の音にもっとも近い漢語の漢字1字を。例えば、「ヤマ」 → 夜麻、 「カワ」 → 可波、 「ハナ」 → 波奈、「ヤクモタツ」 → 夜久毛多都 (漢字の発音を借りただけで、漢語の意味はいっさい考えなかった。)
ひとつの音に1つの漢字をあてる。その漢字にはなんの意味ももたせないで、ただ音、発音だけを表した。これはどんなにか便利であったろう。書きつけておけば、いつまでも残ったから。忘れてしまったり、わからなくなったり、遠くの人に伝えられないといったことがなくなった。
ついで日本人は「音読み」「訓読み」を行った。漢字の中国語音(字音)をそのまま使う<音読み>と、さらに、その漢字の意味に対応する日本語にその漢字をあてた<訓読み>だ。例えば、山(サン)を見て、ああ、これは「ヤマ」のことじゃないか、と言って、「ヤマ」に「山」を当てた。だから、<訓読み>は中国語にはなかったものだ。
山 → (音)サン、(訓)ヤマ; 川 → (音)セン、(訓)カワ
花 → (音)カ、(訓)ハナ; 白 → (音)ハク、(訓)シロ
韓国語、ベトナム語、中国語の方言などでも一部訓読みを行ったが、日本語の場合は、大幅に、徹底的にこれを活用した。
4.漢語に大いに依存する。
中国の古典、書籍からどんどん単語を借りて、漢語に近い発音で読むと同時に訓読みの語も作っていった。
特に明治になって、西洋の書物を翻訳する際に、漢字を組み合わせて、際限なく、単語を作った。漢字とその意味が大事で、発音に気を向けることはなかった。同音異義語がほかにあって、迷うかも知れないなどと考える余裕はなかった。
そのことの功罪について言えば、罪も大きく、また、利点も大きかった。「功」については、まったく新しい技術、研究、処置などを表す単語をすぐに作ることができ、表面的にはその単語が理解しやすく、覚えやすかったこと。かなりの誤解はあったにしても、そのすそ野の広さゆえに医学も、工業技術もどんどん西欧に追いついていくことができた。
「罪」については、中国語にそのような漢字の組合せがあろうがなかろうが、お構いなしに、どんどん単語(字音語:主に漢字2字で、音読みをする単語)を作って、他の言語に比べて異常なまでに同音異義語の多い体系にしてしまったこと。この漢語(字音語)を読み書きする教育もたいへんである。ほかにもあるが、次の機会に譲りたい。
浅野式現代でたらめ用語辞典(再開その35)(体幹トレーニング)
体型を気にして、ダイエットをする女性には大事な言葉。“身体の幹”、つまり中心部分を鍛えようというわけで・・・・
知ったかぶり老人:何?耐寒訓練か。最近は手軽に高山へ登るやつが多くて、大勢に迷惑をかける。そうかと思うと、時事英語の授業で、”National Diet Building”(国会議事堂)を“国民がダイエットをする建物”と訳した女子大生がおったな。
中学生ギャル:うちの母ちゃんは、とても体型を気にしている。「こんなに毎日働いているのに、どうして太るんだろうね」とぼやきながら、暇があると横になって甘いお菓子を食べている。あたしも用心しないと。「あの親にしてこの子あり」って言われるからね。
真面目女子医大生:外見は随分やせているのに、「もっとやせたい」と訴える若い女性が多いと、病院の先生方から伺いました。“体幹”というのは文字通り、“身体の幹”ということですが、そこばかり気にしてもだめで、“枝葉”のことも考えないといけないそうです。この場合の“枝葉”は“枝葉末節”のことではなくて、もっと大事な部分です。(この回終り)
「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その10)(“デキる指導”と“残念な指導”)
(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年7月号の特集は、第1が「『デキる』指導と『残念な』指導Q&A―SLA研究の成果から」となっています。私がまず疑問に思ったのは、“デキる指導”と“残念な指導”とは、対立する概念が明確ではないのではないか、という点です。例えば、“失敗した指導”と“成功した指導”なら対立がはっきりするでしょう。“デキる”という表記も私には違和感があります。
(2)7月号の表紙には、「理想と現実を見据えつつ、英語学習・指導の『常識』をいま一度検証する」とあって、「第2言語習得研究は実践に役立つのか/ リスニング/ スピーキング/ リーディング/ ライティング/ 文法/ 語彙/ タスク/ 評価/ 授業全般」と書いてあります。「こんなに欲張って大丈夫かな?」という不安がよぎりました。“英語の勉強方法の常識”といったものが、英語教員によって共通に認識されているものとは思えないからです。
(3)最初の記事は、鈴木 渉(宮城教育大)「[概論] 第2言語習得研究は実践に役立つのか」です。“概論”とは言いながら、結構具体的な例を示していますが、私にはその例文がとても稚拙なものに思えました。例えば、“今年の正月に行ったこと”の文章は、I went to my grandparents’ home. I mailed New Year’s cards, I made a new year’s resolution. I went to the shrine.となっています。こんな英文を聞かされたり、読まされたりする生徒に同情せざるを得ないと思いました。
(4)浜田 陽(秋田大学教育推進総合センター)「[リスニング] 音をしっかり『捕球』しよう」は、指導に自信のない教員の質問を想定して、その回答に解説を加えています(この形式は、以下の記事に共通です)。想定している英語教員のレベルから考えて、bottom-up skills, top-down skills, shadowing なども説明する必要があるのではないか、と私は思いました。
(5)佐藤 匡俊(Andres Bello 大)「[スピーキング] 限られた時間内にスピーキング能力を伸ばすには」では、質問1として、「グループワークにおいて全員が英語で参加するような指導方法はありますか?」とあって、「ロールプレイ用の台本を渡す」は不正解、「一人一人に役割を与える」は正解になっています。センター入試のように、“正解は1つだけ” といった姿勢は問題だと思います。台本を渡して音読の練習をして、“暗唱できる段階”から、“応用の段階”へと進む方法だって間違っていないと思うからです。
(6)中西 弘(東北学院大)「[リーディング] 記憶容量を効率よく使うための読解指導」は、書いてあることは具体的で参考にはなりますが、“読解指導”に関してはこれまでも様々な議論がなされてきました。私は読解力の向上には、「学習者が自己努力によって、出来るだけ多くの英文に、耳から、また目から触れるようにする以外に方法は無い」と考えています。そして学校の授業が“自己努力”を援助するものであることは望ましいことでしょう。中西氏の示す方法が間違いとは言いませんが、他の研究成果を示されても、「第2言語習得論」との関係は私にはよく分かりません。
(7)残りの6編は、「ライティング」「文法」「語彙」「タスク」「評価」「授業全般」と題したもので、特集の「SLA の研究成果から」という視点からはかなり離れてしまっています。これまでも繰り返された指導法上の問題点だと思いますので、執筆者には失礼ながら、私のコメントは割愛させてもらいます。
(8)特集の第2は、「英語外部試験の実態に迫る」ですが、本シリーズの最終回とのことで、“外部試験”が教室の指導法に与える影響を論じる記事が2編あります。これまでも、“入試問題とその指導法”については数多く論じられてきたと思いますが、「教室の英語指導は入試のためにのみあるのか」と私は疑問に思ってきました。2編の記事は、安河内 哲也(東進ビジネススクール)と根岸 雅史(東京外大)によるもので、問題点の指摘や指導方法の在り方には異論はありませんが、私には、“本末転倒ではないか”という意識が拭えないのです。(この回終り)