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「英語教育批評」(その73)(英語教員の養成)

Posted on 2013年6月21日

(1)「英語教育」(大修館書店)の 2013年7月号の特集は、「これからの教員養成・教員研修」です。私がまず思ったのは、「特定の教科に関係なく、広く“教員養成”のことを論じているのであろう」ということでした。「英語教育」誌でも、間口を広げて、教員養成全体の問題を取り上げることは構わないからです。ところが、中味の記事は、「ビデオを用いたフィードバック―大人数にオーラルイントロダクションを実践させる工夫」、「英語運用力アップの英語集中演習」「地方私大における英語教員養成」と続いているのです。

 

(2)そうであれば、最初から特集のタイトルを「これからの英語教員養成・研修」とすべきだったと思います。それぞれの記事は、執筆者の経験や考えを真剣に述べているのですから、違和感を覚えるのは、編集者の責任のように思います。そこで、最後に掲載されている金谷 憲(元東京学芸大)「教員養成・教員研修への提言」を読んでみましたが、「どうしてこういう記事を最初に載せないのであろうか」というもう1つの疑問が湧きました。

 

(3)金谷氏の記事は、英語教員の養成や研修を対象に考えているもので、冒頭に「日本にはプロの英語教師を育てるシステムがない」と書いてあります。私はこういう指摘には大賛成です。なぜならば、これまでの文部行政は、「教育は大事だ」と言いながら、学習指導要領で教員の自由を縛り、人員とか教材には十分な予算をつけないという方針が続いているからです。

 

(4)金谷氏は、「何年もならっているのに英語を使えるようにならないという批判は、大昔(明治時代)から学校英語教育に対して、一貫して向けられてきている」として、その際は英語教師が悪者にされてきたという趣旨のことを述べています。現在の自民党内閣になっても、この姿勢は変わるどころか、より強固なものになっています。なにしろ、安倍首相は、第1次安倍内閣の頃、「教育基本法さえ変えれば、悪い教員を辞めさせられるのです」と述べた人物です。

 

(5)その首相は組閣を終えると、「適材適所に有能な人材を配した」などと言います。もっとも、この点は、教員にも反省すべきことが多くあります。「あの先生はえこひいきをする」というような噂は昔からよく聞かれたものです。“感情の動物”と言われる人間には、完全に理性的に他人を評価することは非常に難しいことですが、少なくとも努力はすべきことだと思います。

 

(6)特集の記事に、鈴木 泉(盛岡市立仙北中学)「仲間との学び合い・高め合い―地域における英語教員研修」がありますが、私はここに述べてあるような研修の在り方に反対するつもりは全くありません。ただ、欲を言わせてもらえれば、こういう運動を進めて行こうとすれば、何らかの大きな障害にぶつかるはずで、「何故そういう障害が生じるのか、それを除去するにはどうすればよいか」といった意識に触れて欲しかったと思います。

 

(7)批判精神というものは、ほっておいて育つものではありません。やはり教育の場で育てるべきものだと思います。これからは、TOEIC、TOEFL などの受験対策に追われることになる高校生に、批判精神などますます育ちにくくなるでしょう。まず英語教員が批判的な意識を持って指導に当たる覚悟が必要なのだと思います。(この回終り)

「英語教育批評」(その72)(気になった映画の英語)

Posted on 2013年6月10日

(1)今年(2013)の5月に行われたカンヌの国際映画祭では、是枝 裕和監督の『そして父になる』が審査員賞を得ました。私が気になったのは、英訳の題名が、 “Like Father, Like Son”  だったことです。この表現は、「父親も父親だが、その息子も息子だ」というように考えられて、むしろ悪いイメージを感じさせます。ただし、『ジーニアス英和 第4版』(大修館書店)は、“Like mother, like daughter.” の例文について、《ことわざ》《略式》この母にしてこの娘あり;親が親なら子供も子供だ《よい意味でも悪い意味でも用いる》;“Like father, like son” も同じ》という解説があります。

 

(2)カンヌ映画祭に出品された映画は、生まれてすぐの男の子が病院で他の赤ちゃんと取り違えられたことを知りながら、その子を育てていく父親の苦悩の話です。“このような英語のタイトルでよいのだろうか”という疑問があったものですから、私の昔からの友人で、「日本ことわざ学会」や「日英言語文化学会」の会長である奥津文夫氏に見解を尋ねてみました。

 

(3)奥津氏はいろいろと情報をくれましたが、その要点は次のようなものです。「この映画の筋と英語の題名は、必ずしもぴったりした感じのものではないが、1987年に、“Like Father, Like Son” という題名の映画があったので、カンヌ映画祭の映画の題名も、それと同じにしたのかも知れない」とのことでした。この1987年の映画はコメディで、主役の俳優もコメディアンだったそうです。

 

(4)日本語では、“蛙の子は蛙”という諺があって、『明鏡ことわざ成句使い方辞典』(大修館書店)には、「しょせん蛙は蛙という意味合いがあるので、目上の人に対して直接使ったり、誉めことばとして使ったりするのは避けたい」という注意がしてあります。したがって、『そして父になる』という映画は、“Like Father, Like Son” という英語の題名から、“蛙の子は蛙”のような意味に取ることは避けたほうがよいことが分かりました。言葉遣いは難しいものです。

 

(5)“ことば遣い”と言えば、前回の「英語教育批評」で、「“hate speech” という用語は、英和辞典には見つからない」と述べましたが、自分のパソコンに内蔵されている『リーダーズ英和辞典(第2版)』(研究社)には載っていました。ただし、訳語としては、“憎悪の演説”とあって、語義が狭くなっています。「人種や宗教上の差別を強調する言葉遣い」とでもすべきだと思いますが、私の見たものは第2版ですから、その後改訂されたかも知れません。

 

(6)もう1つ訂正があります。前回の終りのほうで、“自民党の教育再生会議”と書きましたが、第1次安倍内閣の頃(2010)はそう呼ばれていたようです。しかし、2012 年からは“教育再生実行会議”となっています。指摘して下さった方に感謝しながら、ここに訂正いたします。(この回終り)

浅野式現代でたらめ用語辞典(再開その18)

Posted on 2013年6月4日

「標準時の変更」

猪瀬東京都知事が、日本の標準時を2時間早くすれば、東京の市場が世界で一番早く開くことになるので、景気の支えにも好影響があると主張しました。

中学生ギャル:都知事ってすごい力があるんだね。地球の自転を2時間も止めるんだってさ。そんな問題をテストに出して欲しくないな。

知ったかぶり老人:昔は、“サマータイム”と言ってな、夏は1時間時計を早くしたものじゃよ。最近はどうしてやらんのか。電気料金ばかり値上げして、実にけしからん。

くそ真面目男子大学生:日本の標準時は、明治になって決められたものですが、日本列島は南北に長いばかりでなく、東西にも長いので、標準時を2つにした時代もあったそうです。僕なんか、“兵庫県の明石”とか、“グリニッジ標準時”とか受験勉強で覚えたものです。受験問題を難しくするよりも、サマータイムを復活した方が良いと思います。(この回終り)

「英語教育批評」(その71)(“ヘイト・スピーチ”のこと)

Posted on 2013年5月31日

(1)東京新宿区の 新大久保駅周辺には、朝鮮・韓国の人たちが多く、しかも美味しい飲食店があるということで、とてもにぎやかな場所です。しかし、日本のある団体が「朝鮮人は出て行け!」とか「朝鮮へ帰れ!」と書いたプラカードを持ってデモをすることがあるので、暴力事件になることがあります。

 

(2)ここでは、“英語教育批評”ですから、まず“ことば”の問題を考えてみることにします。憎悪を含めた差別的な意識から口をついて出る“ことば遣い”を“ヘイト・スピーチ”(hate speech)と呼ぶようです。私が調べた限りでは、この表現や定義を載せている英和辞典はありませんでした。インターネットを使う人は、“ヘイト・スピーチ”で検索すると様々な情報が得られますから試してみるとよいでしょう。

 

(3)“hate speech” という場合の “speech” は、“演説”という狭い意味ではなく、“話し方”とか、“言葉遣い”という意味で、『ジーニアス英和』(大修館書店)の “speech” の項には、“We could tell from his speech that he was British.” (話し方から彼がイギリス人であることがわかった)という例文があるのが参考になります。

 

(4)“hate” には、“嫌う”という動詞の意味ばかりではなく、名詞として、“嫌悪”とか、“憎悪”といった意味もあります。したがって、“hate speech” は、特に特定の人種に対して、“差別意識や嫌悪感を持って使用することば”と考えることが出来ます。その意味では、昔から英語にある “racist” (人種差別主義者)が似たような用語と言えるでしょう。

 

(5)“人種差別”の問題となると、どうしても政治的な判断が絡んできますので、少し触れざるを得ません。“日本維新の会”の共同代表の一人である橋下大阪市長は、「どこの軍隊も必要としている慰安婦問題で、どうして日本だけが非難されなければならないのだ」という趣旨の発言をして、物議を醸したのはよく知られている通りです。この発言はまだ尾を引いています。

 

(6)弁護士というのは、明らかな殺人犯人でも、弁護をするとなれば少しでも罪を軽くさせようとする人ですから、場合に応じて必要な理屈を言うのは得意なはずです。しかし、裁判官、裁判員や殺人犯も日本文化の中の人間であれば話は通じても、慰安所の女性を、“sex slave” (性的奴隷)と捉える国際的な文化の中では通用するとは限りません。橋下氏はそういう意味では、“グローバル化音痴”であったと言わざるを得ないと私は思います。

 

(7)“国際的な視野の狭さ”という点では、自民党の教育再生会議の方針も同じようなものだと思います。英語さえ話せれば、世界のどこでも通じると考えているようです。自分たちはろくに英語を使えないくせに、すべての大学入学試験に TOEIC やTOEFL を課そうとするのは、日本の英語教育の実状を知らない人間の考えることで、英語教育どころか、日本の教育全体を破壊する愚策であると私は心配しています。(この回終り)

「英語教育批評」(その70)(「クリル“CLIL”」について)

Posted on 2013年5月20日

(1)ここ2年ほどの間に、私はネット上でいろいろ検索をしていて、“CLIL”という用語を見つけて、少し調べてみました。外国語(異言語)の教え方に関するものだとは分かりましたが、これまでの教え方と特に変わった点は見つけられなかったので、「何故わざわざ新しい用語を使って説明する必要があるのだろう」という疑問が残った記憶があります。ただし、ヨーロッパではそれぞれの国によって、外国語教育の目的や方法が異なるので、CLIL の概念も幅が広いということは認識しました。

 

(2)「英語教育」(大修館書店)の2013年6月号の特集は、「CLIL<クリル>内容言語統合型学習―『英語で学ぶ』授業の可能性」ですから、私の2年越しの疑問が解けるのではないかという期待を持って読みました。最初の記事は、笹島 茂(埼玉医科大学)「CLIL はおもしろい―背景とその可能性」です。ヨーロッパを中心した CLIL の実施状況が地図を示してあって分かりやすい記事です。CLIL はContent and Language Integrated Learning の頭文字であり、特集のタイトルの「内容言語統合型学習」のことだというわけです。でもこれだけでは、経験の浅い英語教員には、何を意味しているのか分かりにくいと思います。手っ取り早く言えば、「理科の授業を英語で行う」ことを考えてみれば良いでしょう。

 

(3)今回の特集には、座談会「日本におけるCLIL 活用の可能性」という記事(pp. 15-17)がありますから、これから読むのがよいかも知れません。最初に司会者から、「内容統合型の意義」を問われて、池田 真氏(上智大学)は、「ひとつには、英語を道具として使う必然性が出てくることです」と答えています。このことを理解するためには、座談会の前にある同氏による記事「CLIL の原理と指導法」を読むべきでしょう。そこには、定義、指導例、段階別の活用例などが示してあります。

 

(4)私自身がまだよく分からない点があるのですが、日本の学校における英語教育の場面を考えてみますと、「英語を通してある“内容”を学ぶ」という場合は、英米の生活習慣などを知ることが主な目的とされてきました。「いや、それでは不十分で、それぞれの地域のお祭りとか食べ物とかを紹介出来ることも目的とすべきだ」という意見もあるでしょう。しかし、学校ではそういうことを母語である日本語でしっかり訓練しているでしょうか。それを反省しないで、何でも英語教育に負わせようとする方針には、私は賛同出来ないのです。

 

(5)池田氏は、中学3年用の英語教科書の“落語”を教材にしたものを例にして、「落語に関する英語の記述は、わずか3行なので、CLIL の考え方に基づいて、発展的な教材を準備すべきだ」と言い、その指導例を示しています。そうでなくても時間の足りない英語教育でそこまで要求することは、「果たして現実的に可能なのでしょうか」と、私の疑問は尽きないのです。中学、高校では毎日3時間の英語の授業があって、検定教科書も現在の4,5倍の厚さがあるというのであれば話は別ですが。

 

(6)私は、新しい考え方をすべて排除すべきだと言いたいのではありません。今回の特集は、CLIL の何であるかを知るには適切で有効な記事が多いと思います。しかし、その応用の実践において、どういう障害があり、それを克服するにはどういう方法が現実的かという点の検討が欠けているのではないか、と指摘したいのです。特集の副題には、「“英語で学ぶ授業”の可能性」とあるのですから、その可能性を追求してもらいたいのです。(この回終り)