言語情報ブログ 語学教育を考える

3.英米の講義の下敷となる教育(2)

Posted on 2010年12月28日

良い講義は良い先生が作ると同時に,良い生徒・学生がいなければ,なかなか生まれない。やはり教育観・学習観がよい先生を作り,良い講義を生み出すのであろう。とすれば,結局は良い講義も生徒の「教育」の問題に行きつくと思う。地道な人づくりこそ優れた講義につながる。

1) プレスクール(幼年学校)から小学校1年生における教育欧米,いや世界では小学校入学前の1年間を入学準備期間(プレスクール)として(多くは同じ小学校の敷地内で)
団体活動に慣れさせる傾向がある。プレスクールでは,子供の意見に対して,Why?「なぜ?どうして?」と先生は理由を尋ねる,ほかの人と違った,ユニークな意見を褒める,先生の用意した答えは言わない(それから外れた生徒の参加意欲をそがないため),このようにして発言する子供を育てることに力をいれる。

単に人と話す練習を超えて,自分の好きなものを持ってきて(Show and Tell),多く人の前で話す,壇上から話す(Presentation)といった自己表現を身につけることを早く(幼稚園)から始めるのだ。(これは取りも直さず,小生意気な子供を量産することになる。それを大人が我慢できるかどうか?)

2) 勉強の中心 ― 自主学習
教育は小学校から,まず読むこと,次に書くこと。読み書きの能力とコミュニケーション能力さえつけておけば,基礎はよしとの考えが強い。(比べて日本では時間割が混み過ぎている。やることが多すぎるのかも知れない。)
 
PISA テストの読解力もそのような欧米の学力観に立って作られている:何が書かれているか(情報の取り出し),なぜそう書いたか(解釈),それをいいと思うか(熟考,評価)といった学習法が基準になっている。

これは偶然かも知れないが,フィンランド語では,「読む」という動詞と「勉強する」という動詞は同じ単語で,「勉強した?」は「読んだ?」となるという。アメリカでもヨーロッパでも「読む,書く,発表する」これが学習の中心となっている。この間いろいろなサポートがある。「調べる」ときもグループで助け合う。先生,補助教員のサポートがある。「書く」場合も相談にのる。まずはグループ内で発表し,それから全クラスで,全校の生徒の前で,校外へ出て行って,と段階を踏んだチャンスがある。このようにして,意見が対立する「対話」ができ,多くの人の前で冷静に意見が述べられる大人に育つのだ。

3) 大学生に要求されること
大学の入試も,持っている知識をテストするのではなく,知識の使い方,また情報を処理し,自分の考えで理論的に議論できる力を見る。それ故に,ペーパーテストより面接と内申書に重点がおかれる。

新入生は,どれだけ読んで,書いて発表するかが勝負なので,先輩から,まずは身体を鍛えておけ,と言われる。それで一流大学では,ジョッギングが大流行りで,みんなが走っている。

学部の上級生,院生になると,図書館に居つき,読み,サマリーを書き,レポートを書きすすめて,その合間に講義に出ては帰ってくるといった生活の人が多くなる。

あるときサンディエゴの友人を訪ねたら,ぜひ娘に会っていって下さい,と言われた。「娘は図書館にいるはずだから」ほんとにいるのかしらと思って,一流大学であるカルフォルニア大学サンデイエゴ校の図書館に彼女について行ってみた。確かに娘さんは図書館にいた。図書館が自分の城なのだ。

4) 基礎が好きな日本と応用が好きな欧米日本人は基礎が好きだ。これはもう文化だ。高校のクラブの練習を見てみよう。まずいっしょに準備体操をする。走りこむ。何かひとつのスキルを練習する。次の練習をする。やがてやっと練習試合に入るときもたまにはある。

欧米の場合,スポーツクラブは学校にはあまりない。イギリスのパブリック・スクールは別で,校内のスポーツクラブが花盛りだ。この活動をみると,校内試合,校外試合が多く,ほとんど練習というより練習試合をしている。実践で学びとっていくのだ。

一度オリンピックの陸上競技を見たことがあるが,日本の選手は集まってかなり形式を踏んだ準備体操をするが,欧米の選手は各自勝手に身体を動かしていて,人によって準備体操が違う,とても基礎の体操とは言えない。これも実践主義の結果であろう。

感想としては,日本人はもっと応用と実践が必要であろうし,欧米の人たちはもっときちんとした基礎練習が必要ではないか。このバランスが大事であろう。
(村田 年)

2.日本の講義

Posted on 2010年12月25日

日本でもたくさんの大学がインターネット上に講義・講演を公開している。が,しかし,たいへんに探しにくい。見つけ方のヒントがなかなかわからない。見つかっても画像が出ないで声だけだったり,画面がボケていたり,やたらと見えなくなったり,声がしょっちゅう止まったり,素人の撮影で暗かったり,聞きにくかったりで,苦労する。どうも大学はことばで勝負するのではなく,ちょっと格好だけ出す,大学の講義の雰囲気を伝えればいいとでも思っているのだろうか。

アクセス数が100回以下の講演・講義が多い。東大ですら200回以下の講義が多い。何のための公開かわからない講義も多い。公開するなら受験生が見て,あー,この先生に習いたいと思うような企画と演出にすべきだ。紹介,言いわけ,機器の不具合のいじくりなど,など。お弟子さんの前講義が延々と続き,本命の先生がなかなか登場しなかったりで,疲れる。総長講演が何か内輪の話で,最初は内容がわからなかったりする場合もあった。

そんな中で,東大のノーベル賞学者である小柴昌俊氏の講義は光る。「素粒子と宇宙」というタイトルのもと,ご自分の1964年の最初の講義から,「ニュートリノ」を巡る世界の天才たちとのせめぎ合い,氏の「スーパーカミオカンデ」の成果など,手に汗を握る講義の中で,先生がときどき何気なく発する感想にはっとする。話し方もたいへん魅力的だ。

京都大学の長尾 真氏の講演・インタビューもおもしろい。「永遠のフロンティア ― 人間を見つめた情報学」と題して,まさに長尾先生のフロンティア魂の研究歴が聞ける。

長尾先生はいち早くコンピュータに注目したが,機械的な計算をさせるだけではおもしろくなく,灰色の場合,すっきりしない人間の思考過程の解明,似てるかもといった不明確な認識などに注目して,「画像認識」に関して世界が注目する成果を上げたが,だんだんやる人が多くなると,転換して,翻訳や意味の問題に向かうといったすごさである。常に未知の,他人がやらない世界を究明したいという氏の姿勢は驚くべきものだが,穏やかな,微笑みを浮かべた態度にだれでも惹かれてしまうだろう。

もちろん若い先生の授業にも光るものが多い。ぜひいろいろな大学を訪問して,輝く講義・講演を見つけたい。
(村田 年)

日本の講義 1.はじめに

Posted on 2010年12月22日

1.はじめに
前回は,英米の講義はともかく言葉でわからせようと努めること,学生の参加を勧めること,学生を上から目線で見ないこと,答えがはっきしない問題を学生といっしょに考えていくといった傾向を述べ,その代表としてサンデル教授の授業を見た。

また,有名教授であっても教え方の研修に参加すること,教え方改善の学会が活発なこと,さらに,インターネットで内外の800以上もの大学等に訪問して講義が聴けること,講義ノートが見られることなどを示した。

さらに,英米の講義のもとになる学校教育,どのように子供を育てるかにも少し触れた。今回はさらにこの点を詳しく考えてみたい。
(村田 年)

浅野:英語教育批評:「日本を支える力」を考える

Posted on 2010年12月17日

「日本を支える力」を考える
(1)これからの日本を支える力は、3つのものが必要と私は考えている。「政治力」「経済力」「学力」である。このことを前提にして、「英語教育」(大修館書店)の2011年1月号の特集「日本を支える英語教育とは」を読むと、私には疑問や不満に思われることが少なくない。まずこのタイトルを見て、「英語力」だけを優先的に考えることでよいのであろうか、と心配になった。

(2)鶴田知佳子(東京外語大)「国際社会で活躍する日本人にとって必要な英語力とは」が冒頭の記事である。私ならば、「国際社会で活躍する」というのは、どういう仕事をすることかを定義したいが、それは見出せない。鶴田氏は「通訳養成」の立場から述べてはいるが、強調しているのは、「現実世界ではリンガフランカ(共通語)は英語になっている」ということである。百歩譲って、そのことを認めても、「日本人はどういう英語を使うべきか」という大きな問題が残るのではないか。

(3)日産のゴーン社長は、フランス語なまりの英語を話すが、あれなら日本人にも分かりやすいし、国際的にも通じるであろう。日本人の場合は、大学生でも、そしてビジネスのことではなくても、あのように流暢に長くは話せないのが普通である。つまり「中身」がないからだ。日本人の多くが、国際社会で、英語を使って活躍できるためには、教育全体の現状を徹底的に改革しなければならないが、その可能性は極めて低いと思わざるを得ない。

(4)林揚哲(経済産業省)「産業界が求める『グローバル人材』とは―『グローバル人材育成委員会』の取り組み―」は、「グローバル人材」には、①「社会人基礎力」、②「外国語でのコミュニケーション能力」、③「異文化理解・活用力」が必要だと述べていて、この点は私も賛同できる。しかし、若者たちの海外志向の低下をグラフで示しながら、改善策は抽象的な文言で終わっているような感じがするのは残念である。

(5)小中高の立場から、現状の問題点を指摘し、改善策を提案しているのは小泉仁(東京家政大)「小学校で英語を学習することで何が変わるか」である。ただし、小学校の英語活動が場面中心の指導をしているのに、中学校の教科書は「文法シラバス中心」になっていると述べているが、それは指導要領のせいであろう。それが望ましくないならば、指導要領から文法項目の指定を削除するような主張をしてもらいたい。

(6)杉谷真佐子(関西大)「今、『英語プラス1言語』の選択肢を考える」の主張は同意できる点が多い。しかし、文科省は昔から「外国語(英語)」のような言い方をしてきたので、今後はもっと具体的に「複数の外国語からの選択」を可能にする方策に切り替えることを強く要望してもらいたい。小学校から英語を押しつけられて、英語嫌いになったら、逃げ場がない現状を改めて、高校、大学では、いつでも英語以外の外国語を学習できる機会を与えるようにすべきだと思う。

(7)バブル時代のビジネス関係者は、「英語は度胸」(こういう題名の本もあった)とばかり積極的な商売に徹してきた。その結果「エコノミック・アニマル」と呼ばれたりしたが、とにかく必死で努力をした。現在の若者たちに、そういう積極さが欠如しているとしたら、「英語力」をつけることだけを叫んでもむなしいだけではなかろうか。
(浅 野 博)

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両義性が、否定の二種類は、宜しいのですけれど、…

Posted on 2010年12月13日

 今回の(20)は、前回(19)以上に異論の余地が大きく、両義性と併せて考察いたしましょう。
(20)I cannot do anything.
 まず、英語not (...) any...は、日本語「何も…ない」に相当するという知識から、Aの解釈が思い浮かびます。
A: 私は、何もできない。
当然、Aの否定は、全くないということで、全(部)否定ですね。これは、否定でも基本的な事項で、Aは、全(部)否定でも、典型的な全(部)否定と言えるでしょう。
 ところが、とある英文法の参考書には、次のBの解釈も併記され、(20)が両義的であると記されているのです。
B: 私は、何でもできる訳ではない。
しかも、Aの全(部)否定の解釈に対して、Bの「何でも…という訳ではない」という部分否定の解釈で、Aが「100%…ない」に対して、Bが「100%…ではない」であると、否定二種類の対比としては、お見事ですらあります。
 真実は、単純明快が多いのでしょうが、逆に泥臭い場合も少なくないでしょう。二種類の否定を対照させるには、上記の両義性は最適であるかもしれませんけども、(20)がBの部分否定に解釈されるのは、通例というよりは、異例、それもかなり異例でしょう。(20)がBのように解釈される実例が、あるのかどうかに注目しつつ、他で説明されているのか、見守っている段階なのです。
 尚、(20)には、Bの解釈の他にも、cannotをcan’tではなく、can notと2語で綴られるのかどうかことも絡んでおり、こちらはcan notに関する辞書の記載は見かけるものの、実例を見かけたのが何時だったのか、記憶にございません。
 両義性シリーズは、今回で完結です。次回からは、「誤りありますか、解釈するか、訂正するか」①-⑳を開始し、次回はその導入回で、このシリーズの趣旨をご説明します、ご期待下さい。