言語情報ブログ 語学教育を考える

子供の教育―湯川秀樹に学ぶ(2)

Posted on 2010年2月15日

*子供に教えることを制限すべきでない。同じことを益川も盛んに言っている。学習指導要領,教科書によって制限すべきでないと。子供にはこどもにわかることを教えるべきだ,というのは,一見正しいようで,そうではないと。保育園児にノーベル物理学賞の内容,すなわち小林・益川論文の内容を説明した保育士さんの試みを読んだが,これが実におもしろい。
*「本に囲まれて」
本は大人の本,子供の本という区別をつける必要はない。読めなければ絵を見る。何度も広げては眺めるうちにわかることもある。雑誌を与える。本を与える。そのへんに散らしておく。本があるだけで知的発育の刺激になる。

*子供の質問に可能な限りていねいに答える。褒めてやる。湯川の母親は忙しくても手を休めて,ていねいに答えてくれた。益川の場合も父親が詳しく,興味を引くように,次の質問につながるように答えてくれた。それは子供の理解を超えていたが,将来への大きな夢につながった。
*子供の進路については慎重に考えてやる。子供の可能性は極めて大きい。親は身を挺して子供の将来を守ってやるべきだ。湯川を専門学校へと父は考えたが,母が頑強に反対した。

*教師に求められるのは,鷹揚さ,柔軟性,向上する態度。生徒・学生の好みや多様性を大らかに認める態度でいたい。理科学研究所の自由さ,平等性はどんなにかわが国の理工学の発展に寄与したことか。また,学生の専門を教師に合わせることはしないで,希望を
尊重して受け入れることも大事だ。

★小さいときからの読書,素読,朗読,これが大事★
★たとえ読まなくても周りに本がある,雑誌がある生活,これが子供を向上させる★
★子供の質問にはでき得る限りていねいに答える★
★子供の進路は慎重に考える★
★教師に求められるのは,鷹揚さ,柔軟性,向上する態度★
(村田 年)

読む量,書く量こそ基本―湯川秀樹に学ぶ(2)

Posted on 2010年2月14日

*湯川は,幼小の頃の漢文素読の経験のためか,本は読めるものといった意識が強かった。中学のときにはすでに気に入った洋書を丸善で買ってきて一気に読んだ。わからない本は何度でも読んだ。読書100遍・・・の精神で。
*高校・大学では物理の本は,あまり勉強してないフランス語の本でも読んでしまい,ときにはイタリア語の論文にもかじりついた。読む分量,読む回数,何が何でも内容を読み取りたいという意気込みがあった。

*書くことの大切さ
日記をつけ,これからの予定を箇条書きにし,論文・エッセーの下書きまでがていねいな形で残っているが,これが実に几帳面だ。人は単に本を1冊ずつ読んでいくだけでは成長しないかも知れない。読みながらメモを取り,他の本と比較・考察し,それをまとめて書きつけ,読みとったアイディアをさらに進めるにはどうすればいいか,といったことを考え,文章にする。

*湯川はたいへんに筆まめである。手紙をよく書く。英語でもどんどん書く。最初のアメリカ訪問の日記が公表されているが,毎晩相当の手紙を書いている。今日会ったが,英語で十分に自説を説明できなかったと思ったら,その晩のうちにホテルで手紙を書いて念押ししている。
*コロンビア大学での講義の下調べが,英語で1200枚2400ページになって残っている。これだけ英語を書けば本人としては,英語は日本語と同じように書けるつもりになったであろう。
*書きぐせをつける。湯川は若い頃は枕もとにノートを置いておいて,アイディアが浮かぶと夜中でも飛び起きて書きつけた。こうして物理以外にもあらゆることに知的好奇心を伸ばしていった。
*このように書くことの訓練を積んでいって,やがて湯川はあるアイディアが思い浮かぶと,そのテーマの展開の全体を,一瞬にして碁盤に碁石が整然と並んでいるように,明確に捉えることができるようになったようだ。帰りかけた新聞記者を呼びとめて,口述筆記をさせ,校正なしでエッセーを掲載したりしている。
*湯川の文章は,自然科学的で,論理に乱れがない。外国語の論理が入っていると本人も言っている。だれでも日本語だけでなく,外国語をならった方が普遍的な文章が書けるようになると湯川は言っている。

★第1に読む分量が大事★
★次に何としても内容を読み取るという意気込み★
★読書百遍意自ずから通ず★
★書くことが大事。書きぐせ,書きつける癖をつける★
★外国語の効用のひとつは,その人の書く文章が多くの人に理解しやすいものになること★
(村田 年)

湯川のリスニング力,スピーキング力―湯川秀樹に学ぶ(2)

Posted on 2010年2月13日

*大学で聞いたドイツ人講師の英語での物理の講義は湯川にとって思いのほかよく理解できた。
*1939(昭和14)年に初めてヨーロッパに渡る。ドイツでは第2次世界大戦が始まり,予定がすっかり狂ってしまったにもかかわらず,相当精力的に多くの研究者に会い,英語やドイツ語でよく連絡を取り,そのまま日本に帰らずにアメリカに渡っている。
*また,招待された「ソルベイ理論物理学者会議」と国際物理学会ではドイツ語で講演するつもりで用意し,ドイツ人について発音練習をするつもりであった。人嫌い,話すのは苦手の湯川にしては,極めて積極的だ。(当時はまだ理論物理学はドイツ中心であった。)
*朝永はアメリカに上陸せずに帰国してしまったが,湯川は実に積極的に多くの大学を回り,意見交換,講演などに努め,だんだんと英語を聞く力も話す力も向上したことを実感する。

★実際に話し聞く「場数(ばかず)を踏むこと」こそ進歩のもと★
★わかる,わかるという自信がその人の実力を作る★
(村田 年)

浅野:英語教育批評:「英語教育とセンター入試問題」を考える

Posted on 2010年2月12日

(1)センター入試は、受験者も多く、全国的な規模で行われるので、マスコミの関心も高いようだ。しかし、寡聞にして知らないが、問題点についての具体的な解決策は実施されていないようで、毎年、天候のことや、リスニング・テストの実施上のトラブルだけが報じられる。少なくとも① 実施時期の問題の解決と② リスニング・テストの意義についての再検討が必要であろうと思う。
(2)実施時期については、1年間に複数回行うことが考えられるが、高校卒業資格と大学受験資格を与える「大検」との関係が生じてくる。このことは以前にも論じたことがあるが、今日では、受験生の集まる大学と定員確保に汲々としている大学とに二極化がはっきりしていて、後者は、学力テスト実施の有無に関係なく志望者を受け入れている。こういう状況において、全国的な共通テストを実施する意義はどこにあるのであろうか。
(3)テストは1つの分類方法として、「診断テスト(diagnostic test)」と「選抜テスト(screening test)」に分けることができる。(こういう専門用語については、日本言語テスト学会 (JLTA) が2006年に用語集を出している。)
「診断テスト」は、生徒の現在の学力や問題点を診断して、その改善のためにはどうすべきかの指導に役立てる資料になるものだ。一方「選抜テスト」は、ある学力以上の者を認め、それ以下の者を拒否するための資料となる。入学試験はその典型だ。
(4)「診断テスト」は、年に1回くらい実施しても意味がない。指導上は、毎時間の小テストや中間テスト、期末テストなどが貴重な資料となる。しかし、多くの場合、個別指導としては、「良くできた」とか「もっと頑張れよ」という程度に終わってしまう。診断テストが有効に使われるためには、教員に時間的なゆとりが必要なのだ。どうも現状は、その逆をいっているように思える。「ゆとり教育」の反省は、教員の「ゆとり」を奪うことになってしまった。
(5)現在のセンター試験は、ほとんど「選抜テスト」としての意味しか持たない。リスニング・テストにしても、受験問題として勉強させるのではダメなのである。受験生のほとんどは、テストが終れば忘れてしまうからである。英語力の中でも聴解力は不断の努力を要求するもので、受験の時期にだけやっても実力にはなりにくい。全国的なレベルを知りたいと言うなら、大規模予備校の模擬テストを受けたほうが詳しい資料が得られるはずだ。いずれにしても、膨大な費用と労力を必要とする「センター入試」は厳密な“仕分け”が必要な時期になっていると思う。(浅 野 博)

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まとめに替えて―湯川秀樹に学ぶ(2)

Posted on 2010年2月12日

はじめに ― 日本は遠い
*欧米から見れば日本は極東,最果ての国である。1937年に中間子が見つかるが,湯川中間子とは質量が違うことがわかり,湯川はわきに追いやられ,みなが計算のやり直しを始めた。

*そのとき,湯川グループは次の論文を発表し,実は湯川中間子(π・パイ)は脱皮してミュー中間子(μ)に変わるとする坂田仮説を発表した。その後も次々と論文を出して,欧米の研究者の先を行くことに努めた。やがて1947年になり,上記の両方の中間子が観測され,湯川理論は立証された。湯川グループの結束と積極的な努力がなかったら,遠い極東のこととして忘れ去られてしまったかも知れない。

*小林・益川論文の実験証明も,世界の競争となり,結局日米のトップ争いとなった。筑波の「KEK Belle」の方が早く,精度もはるかに高かったがノーベル賞選定委員会はアメリカ・スタンフォードの「SLAC BaBar」の貢献の方を先に書いている。日本はノーベル賞のスウェーデンからは距離もそうだが,意識の上でもはるかに遠いのである。

*また,文化的な相違もある。日本人は自己宣伝をしたがらない。欧米では自己宣伝も,しかるべき推薦者に何度でも推薦を依頼することも普通であり,各学会も強力な働きかけをする。小林・益川の受賞に際しても,イタリア物理学会は,カビボ博士も同一路線の研究をしているので同時受賞でないとおかしいと抗議している。

*ノーベル賞でも何でもわれわれ日本人は不利な立場にある。日本人の努力は飛びぬけているが,自己主張がもっとあってもいいかも知れない。

★日本人において,自己主張と自己宣伝,それに互いに褒め合うことがもっと必要であろう★
(村田 年)