言語情報ブログ 語学教育を考える

湯川秀樹の日本語力

Posted on 2010年1月14日

はじめに
もう50年にもなるが,東京での私の初めての住まいである雑司ヶ谷のアパートは教育大や理科大の理論物理の院生のたまり場であった。彼らは朝飯のときから「地球の空気を月に持って行ったらどうなるか」といった日常生活からは離れた問題を議論していた。

彼らが理科や数学の問題を議論している分にはかまわなかった。が,ときに「カーライルって何であんなことを考えたんですか」とか「バートランド・ラッセルはこんなことを言っているが,これは便宜上の話ですよね」とか「どうしてジョージ・オーエルはまだ戦争が終わらない時に,原爆の東西関係への影響とか共産国の未来などを,あんなに具体的にわかったんでしょうね」などと言いだすとたいへんである。こちらは英語教師なのにろくに読んでなかったので。

思うに理論物理というのは哲学に近い。昔はいっしょだったとよく言われる。アリストテレスは physica(自然界の理り;物理学)を明らかにしたあとで,ta meta ta physica(自然の理りの後にくるもの;形而上学,哲学)を明らかにする,と述べている。

その伝統を汲んでか,理論物理の人たちは何にでも疑問を持ち,口を出す。「高校の生物っておかしかったよなー」「今度さー,経済のやつをだれか呼んで来て,話聞こうか」といった具合である。

おそらくは湯川秀樹も朝永振一郎も好奇心のかたまりであったろう。二人とも10巻以上もの著作集を残している。並みの日本語力でないことは最初からわかっている。
(村田 年)

浅野:英語教育批評:「英語教育とアルファベット」(その2)

Posted on 2010年1月12日

(1)東京書籍(株)は、昨年創立百周年を迎えて、記念事業の1つとして、明治43年(1910) 2月に同社が最初に発行した『尋常小学読本 巻1』の復刻版を出した。古色蒼然とした表紙や本文の感じがよく出ている。本文は「ハタ」「タコ コマ」のように単語から始まっていて、それぞれに挿絵があるが、色刷りではない。しかし、中表紙には文部省の許可証が朱色で印刷されている。
(2)明治43年は教育制度施行の明治5年から 30年近く経っていて、ある説によると教育制度の変遷は43年からは第2期になるようだ。それまでの大きな課題は「国語の標準化」だったらしい。全国一斉に国定教科書を使うとなると、どういう「国語」を使うのかが大きな問題になるのは当然であろう。そのことで昭和の時代まで活躍した上田万年の話も興味深いが、ここでは触れないことにする。
(3)明治43年の教科書では、統語的な配慮が細かくできていて、「シカ ノ ツノ」のように、先ず「ノ」を教え(p. 9)、次に「サル ト カニ」(p. 10)、「タケ ニ スズメ」(p. 14)「クロイ ネコ」(p. 17) と発展していく。主語述語の関係は「ホン ガ アリマス」(p. 19)、「トンボ ガ トンンデ ヰマス」(p. 20) が初出で、命令文、過去の文へと続く。それに合わせて、謙譲語や尊敬語も扱っている。
(4)各ページには、初出の文字がページの上欄に示してあり、50ページほどで「五十音図」を網羅している。「教材」というのは、少し経験のある教師ならば、その教材に目を通しただけで、教え方の見当がつくものであるべきなのだ。時代が違うので、単純には比較はできないが、『あたらしい こくご 1年』にはそういう工夫が足りないように感じるのである。
(5)明治の教科書も、「国語の標準化」を目指しながら、「スズメ」と「ミヅ(水)」のように、「ズ」と「ヅ」の区別をしている。この区別は当時でもある区域に限られていたのではないか。英語ではこの区別は大事で、”G” も“Z” も「ジー」では困るのである。
(6)近年のように、英語起源のカタカナ語を多用するなら、例えば、[ l ] と [ r ] とか [ b ] と [ v ] とかはカナ表記でも区別したい(カナ表記にもいくつかの方法があるが)。そうしないと映画の題名「ロードオブザリング」など見当がつかない。最近の “Avatar” などは「あばた」になってしまう。
(7)音声学的な配慮というと、すぐ専門用語の解説になってしまうのも英語教育の悪いところだ。「ん」と [ n ] などは、中学1年から英語と日本語の実例とともに、違いを実感させていくような指導が望ましい。そのためにも小学校国語での音と文字の教育は重要なのだと言いたい。(浅 野 博)

浅野式辞典:「のうぜい」(納税)

Posted on 2010年1月7日

その昔、権勢を誇った殿様が年貢を取り立てたのが起源とされる。平成の時代の納税用語の定義は:
A:「消費税」→「官僚が庶民の税金を勝手に使うこと」
B:「相続税」→「政治家が大金持ちの親からもらうお小遣い」
C:「地方税」→「都会で学生生活を送る子どもに田舎の親が泣く泣くする仕送り」

浅野:英語教育批評:「英語教育とアルファベット」(その1)

Posted on 2010年1月5日

(1)問題点を簡潔にするために、ここでは小学校の英語教育は考えないことにしたい。中学校で初めて英語を教えるとすると、アルファベットをどう教えるかは大切な問題であろう。普通は、「ABCの歌」などで指導するが、ただ歌って終わりということが多いのではなかろうか。
C は「シー」ですませている指導を見たことがある。
(2)そこで、小学校1年生の国語の教科書では「アイウエオ」をどう扱っているのだろうかと、『あたらしい こくご(上)』(東京書籍)を覗いてみた。まず驚いたのは、まるでグラビア・ページそのもののような色彩である。子どもから大人までが好んで読むマンガ雑誌だってこんなに贅沢に色は使っていないはずだ。いかにカラーテレビの影響が大きい時代とはいえ、これでは子どもの美意識や学習意欲にも良い影響があるとは思えない。
義務教育段階の教科書は無償だが、その予算は文科省が出すわけだから潤沢なものではない。各教科書出版社がこんなこことで競争をするのは無謀ではないか。財政と教育効果の両面からよく再考してもらいたいと思う。
(3)本題に戻るが、この教科書では絵を使った導入的な部分の次の課は「あいうえお のうた」という課で、次のようなっている。(pp. 14-15)

ありのこ あちこち あいうえお
いしころ いろいろ あいうえお
うしさん うとうと あいうえお
えきの えんとつ あいうえお
おひさま おてんき あいうえお

(4)私はこの教科書の指導書を見ていないので、編集者の意図がよく分からないことを前提として感想を述べてみたい。小学1年生と言えば、かなり日本語を話せるわけだから、音声と文字の関係を教えるのが主目標になるであろうが、文の仕組みを意識させていくことも大切であろう。上の文章では、主語と述語の関係も一貫性がないし、「あいうえお」をつけている意味も分かりにくいと思う。
(5)「アイウエオ」は「五十音図」と言われるように日本語の基本的な「音」を文字で表したものだ。したがって、「アイウエオ」と言わせるだけだとしたら、英語教育で “A B C” と繰り返すだけでは意味がないのと同じだ。後の課では、「いしや」と「いしゃ」、「びよういん」と「びょういん」のような拗音の区別や、「わたしはゆみです」の「は」は、実際の音は「わ」になることを教えるようになっているが、「しょっき(食器)」のような「促音」の扱いは十分ではないように思える。これは後にローマ字表記を学ぶときに必要な音である。(この項続く)(浅 野 博)

6.湯川秀樹の中間子論文の価値(湯川秀樹の学習,研究,人となり)

Posted on 2010年1月2日

物理学の素養のない私には内容はわからないが,まわりから,伝記,解説書,同僚・弟子のことば,海外の研究者の評価,論文及び受賞演説の外郭等を何度も読み,考えているうちに,(錯覚かも知れないが)「中間子論」の価値が見えてきた。

その当時,原子核内の陽子と中性子との力の相互関係はまったく説明がつかず,量子力学が適用できない別世界とせざるを得ないかと思われて,平板な核内構造を云々するだけの状況であった。これを打破して,素粒子論を拓き,各素粒子の立体的な力関係を記述する標準理論へとつなげたわけで,これは大論文と言ってよいであろう。

内容としては,次の6点について,解決または次の論文で詳説すると説いている。
  1.相対性理論の要求を満たす新しい方程式
  2.原子核の大きさ程度の小さい領域だけで働く力
  3.電子の200倍の質量を持つ中間子の存在
  4.核子(陽子と中性子の総称)の間に中間子を交換することによって働く力
  5.中間子交換によるベータ崩壊理論
  6.中間子が見つかるとすれば宇宙線の中
この論文は,核力の相互作用解明への新たな素粒子論の方向を示して,この方面の研究の進展に大きな弾みを与えたものである。

従って,湯川秀樹のノーベル賞は10年に1本の大ノーベル賞であると言っても過言ではないであろう。続く朝永振一郎,南部陽一郎,小林 誠,益川敏英等の研究はすべてこの湯川の延長線上にあると考えてよいであろう。

この中間子第1論文の発表,執筆に際して,湯川は,非常に不安であった反面,「1種の中間子によって極微の世界の謎がいっぺんに解けると思った。」「あとから考えると不思議なくらい強い自信を持っていた。」と,のちに思い起こして「何と自分は単純素朴であったろう」と言っている。
(村田 年)