言語情報ブログ 語学教育を考える

英文を直訳しても両義性は解決せず

Posted on 2010年9月16日

(8)Taro washed his car, and Hanako did, too.は、両義的な箇所、即ち、両
義性が潜む箇所が、did, tooという代用表現が使われている部分である点は宜し
いでしょうか。 (8)Taro washed his car, and Hanako did, too.という英文を
直訳した「タローが自分の車を洗い、ハナコもそうした。」という和文も依然と
して両義的であり、両義性の解釈は残されたままと考えるべきでしょう。
 そこで、did, too「もそうした」の内容を、もう一段掘り下げる必要があるの
ではないでしょうか。did, too「もそうした」は、代用表現と言われる通り、代
名詞に普通その先行詞があるように、代用表現にも普通「先行表現」が存在する
と考えられ、(8)Taro washed his car, and Hanako did, too.における「先行表
現」は、Taro washed his car「タローが自分の車を洗った」と考えることがで
きるでしょう。Taro washed his car「タローは自分の車を洗った」は、意味と
しては同義になりますが、解釈の可能性として、A:タローという人が、タ
ロー(自身)の車を洗った、そして、B:タローという人が洗ったのは、自分の車
だ、の両方が存在します。そうして、このAとBに対応する代用表現did, too「も
そうした」の意味解釈は、A:ハナコという人も、タローの車を洗った、そし
て、B:ハナコという人が洗ったのは、自分(ハナコ)の車だ、の両方になり、次
のようにまとめることができましょう。
A: タローが自分の車を洗い、ハナコもタローの車を洗った。
B: タローが自分の車を洗い、ハナコも自分の車を洗った。
 
次回は、次に(9)で、両義性に関連する品詞が、ポイントになるでしょう。
(9)A drunken man clumsily dropped his purse.

教育・学力観の相違から見えてくるもの

Posted on 2010年9月15日

●教育にとって最も大切なのは? ― それは先生!
7.教育・学力観の相違から見えてくるものフィンランドでは,予算・人員は政府が保証してくれて,権限はすべて校長に下ろし,校長はすべてを担任に与え,担任は思い切ってやるようにと言われる。

まずは教科書を決める。これには相当時間をかける。2冊選んで,しかもそれをたまにしか使わなくても,予算で生徒全員分を揃えてもらえる。日々の教材も何種類も揃え,進んでいくうちに,生徒個人個人の顔が浮かび,別々の教材を用意したりする。補助教員も1名ないし2名つけてくれて,ほぼマンツーマンの指導ができる体制になっている。

1)フィンランドの先生は自由だ
AFSでフィンランドの高校へ1年間留学し,帰って日本の大学へ入った実川真由さんは大学の先生を見て,あ,フィンランドの先生に似ている,と思ったようだ。

いつも授業時間に少し遅れて,コーヒーカップ片手に入ってきて,「なかなかコーヒーを入れている暇もなくて」とゆっくり一口飲んでから授業を始める先生。しかし,授業はすばらしく,みんなに尊敬され,慕われていた先生がフィンランドの高校にいたという。
授業に遅れてくる先生は多くないが,早めに切り上げる(1時間は45分)先生は多いようだ。

権限が先生にあるので,上にいろいろな書類を出す必要はない。授業以外にほとんど仕事はない。子育て中の先生は午後授業がないようにしていて,ほとんど昼で帰ってしまってもいい。週に1回しかホームルームはないので,朝の出勤も自由だ。

クラブの顧問などの課外の指導は本務ではないので,やらなくてよい。夏休みなどの休みは生徒と同じように取れる。夏休みに別の仕事について稼いでもそれを咎められることはない。(他分野でも社会発展に貢献することが期待されている。)もちろんクラブ顧問をやってもよい。これは別契約で,手当が出る。アイスホッケークラブ顧問に熱をあげる先生もいる。

2)それでは「ダメ教師」はどうなるのか
上のような話を聞くと,好き勝手な先生,ダメ先生はいないのか,それはどうなるのかと思う人が多いだろう。視察の日本人たちが聞いたようだ。解答は,それは簡単ですという。ダメな先生にはまず生徒が黙っていません。どんどん質問にいきます。父兄が黙っていません。いろいろと問い合わせてくるでしょう。そして校長の裁断です。

しかし平生は,先生は尊敬されていて,父兄は何も言わない。校長も相談がなければ何の注文もつけないそうです。

3)先生はプロだ
教員養成課程は医学部並みに難関だ。修士号を持っていないと担任にはなれない。教育実習,インターンは長く,学生のうちにバイトに補助教員をしている者も多い。給料は同じでも,長い休み,時間的な自由度,「指示待ちの任務」ではなくて,自分の判断と工夫と努力で,子供たちを成長させることができる大きな可能性。以上のような状況が「先生」を極めて魅力ある職種にしているようだ。

比べて,日本の場合,権限は上に上にあり,いろいろな多くの書類を作成して提出する。教頭などは忙し過ぎて‘セブン・イレブン’(朝7時に出勤し,夜11時に退校する)と称される。朝の出勤時間は決まっていて帰りはどんどん遅くなる。会議は多いが,自由な発言より,指示を伺う会議だ。クラブ顧問があり,日曜も夏休みもそれでつぶれる。教科書は決まっていて,それ以上のことを教えると問題になる。クラスの成績は一覧表で出てきて,常に比べられる。

先生の健康状態は,全職業の中で飛びぬけて悪い。2005年の労働科学研究所「教職員の健康調査」によれば,教員の健康状態不調は45.6%で,全職業の15.7%と比べて段違いに悪い。

これではいい先生は集まらない。私の知っている限り,教育学部は常に最も入りやすかったし,今でも入りやすい。筆記試験に不向きな学生が集まる。ところが,副専攻があって履修科目はめったやたら多い。考える余裕などない。ただただ単位を集めて卒業する。できれば先生にはなりたくない。「先生,黒板を使わないけど,漢字大丈夫かしら。。。」といった生徒,父兄,校長の視線の中でやっていくことができるかしら,と思う。

★以上,主観的な書き方で,問題発言が多いことであろう。 反論いただければ有難い。(つづく)(村田 年)

主を教えず、従のみ教えると、…

Posted on 2010年9月13日

 (7)The scholar has a number of followers.は、中学校(2年生)では習わないにしても、Tom has a number of friends.「Tomには、多くの友だちがいる。」のような文が中学校(2年生)の教科書に載っていて、a number of 「多くの」というイディオムとしても扱われていたりします。
  辞書でa number ofを引きますと、A:severalとB:manyと言い換えられており、(7)The scholar has a number of followers.の両義性は、次の通りになります。
A: その学者には、数人[若干]の弟子がいる。
B: その学者には、多数[相当]の弟子がいる。
中学校(2年生)で習っているBが、すぐにわかって、これに対して、中学校(2年生)で習っていないAが、すぐにはわからない、というのが実態です。
  辞書では、AがBより先に記載されていることが多いように、a number ofの意味としては、A:severalが主で、B:manyが従と考えられ、Bの場合、より明示的には、“The scholar has a large/great/good number of followers.”のように、numberが「多い」を表す形容詞で限定されるのです。(7)The scholar has a number of followers.を解釈する場合、“The scholar has a large/great/good number of followers.”ではないことから、まず、主のAで解釈し、これが適わない場合に、“The scholar has a large/great/good number of followers.”ではないにしても、(7)The scholar has a number of followers.が、従のBと解釈されてししかるべきでしょう。
  (7)の教訓は、主を教えす、従のみを教えると、正しくない解釈が正しい解釈を上回ってしまうことでしょうか。

  次回は、次の(8)で、両義的な箇所をお考えの上、解釈をお試み下さい。
(8)Taro washed his car, and Hanako did, too.

浅野:英語教育批評:「“ことば”から考える諸問題」について

Posted on 2010年9月12日

(1)今回は、日常的な言葉の問題を再考してみたい。時あたかも民主党党首の選挙戦の結果が出ようという頃で、その結果に国民の関心が集まっている。テレビ番組で、立会演説会を聞いた人に感想を尋ねていたが、「小沢さんは迫力があるね。なんかやってくれそうな感じがする」と言っていた。“国民感情”というものはそんなものであろうと思う。あるラジオ番組では、「国民は“クリーンな政治”といった言葉に騙されてはいけない、小沢元幹事長は裁判で有罪の判決を受けたわけではないので、犯罪人扱いをするのは全く間違っている」と評論家が述べていた。

(2)法律論ではそれが正しいのであろう。しかし、“国民感情”というのは、理屈では説明できない“好き”か“嫌い”か、という気持ちに左右されることが多いのではないかと思う。音楽好きのロックファンの中にも、「この歌手は好き」「あの歌手は嫌い」といったことはよくある。ただし、日本人の傾向として、「他の大勢の人が好きならば、好きになる」ということはよくあることだ。つまり「民主主義は国民が主体」と言いながら、「世論」はマスコミの報道などに誘導されて作られているのである。

(3)そういう意味では、マスコミの責任は重いのだが、近年はマスコミ同士が言い争うことがある。特にラジオ番組はよく新聞批判をする。世間では、「朝日新聞」は左翼系で、「産経新聞」は右翼系と思われてきた。しかし、「管政権批判」では一致した批判をしたりするので、有権者はますます迷うことになる。情報化社会では、「情報の是非を判断する力をつける教育」が必要なのだが、それが欠如しているのが現状ではないか、と思う。

(4)私みたいな年配者は、戦時中の「大本営発表」にさんざん騙されたから、「報道はまず疑う」くせがついている。疑うばかりでは得るところがないから、なるべく多くの情報を集めて、是非の判断をするようにしている。そうすると、インターネットなどの情報も有用なものと無用なものとの区別がつくようになる。完全に自信を持てるようにはなれないが、上記のような教育を受けていない若者たちよりはずっとましではないかと思う。

(5)日本の教育では、日頃は教師主導の指導をしていて、夏休みになると、「何か自由研究をしなさい」といった宿題を出す。これでは困るのは生徒だ。小泉元首相は、「官から民へ」というスローガンの下、規制緩和をして、民間の活力に期待したが、それまで「お上(おかみ)」に頼って商売をしてきた企業などは、勝手な行動をしだして、経済混乱を招いてしまった点がある。自治権というのは、ただ与えればよいのではなく、自治が行えるような基礎力を付けておかなければならないのだ。私たちは、もっともっと日常の言葉を大事にして毎日を送るようにしたい、と思うことしきりのこの頃である。(浅 野 博)

【私の記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます】

フィンランドの教育の特徴

Posted on 2010年9月12日

●教育にとって最も大切なのは? ― それは先生!
6.フィンランドの教育の特徴
1)「社会構成主義」と名づけられる。すなわち,まわりの人間関係,社会との脈絡を考えて,自ら目標を定め,答を追及し,最終的には自らが自分の活動を評価し,次の目標を考える。
2)言い換えれば,人間関係と社会的脈絡を教育の中心に据える。
3)権限を下へ下へと下ろし,結局のところ先生にすべての権限を与える。教育省,地方自治体は予算と人員の確保に責任を持ち,教育には口を出さない。
4)指導のガイドラインはあるが,標準・スタンダードという言葉は避けられている。モデルを示すのみ。教科書は教員ひとり一人が選び,使っても使わなくてもよい。教科書検定はない。
5)教員には何の指示も与えられず,自らが判断して授業を進めていくことが期待される。
6)生徒は,グループで,あるいは個人個人が別々に勉強を進める。教員は支援する立場にある。
7)評価 ― 学んだ知識と応用力だけでなく,さらにその知識を個人の生活や将来とどのように関わり合いを持たせたか,この点も含めて生徒自身が評価することが求められる。
(村田 年)